鎌倉殿の13人

鎌倉殿の13人 第38回『時を継ぐもの』

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伊豆の小豪族に

過ぎなかった男。

二十五年かけて

築いた地位が、今まさに

崩れ去ろうとしている。

その間、わずかひと月。

時政、失脚へ

源頼朝(みなもとのよりとも・大泉洋)をなぜか扶(たす)け、鎌倉幕府創建の立役者となった北条時政(ほうじょうときまさ・坂東彌十郎)が、自身の息子によって隠居する(追放される)ことに。

北条時政は鎌倉殿を掌中におさめ、名越(なごえ)の屋敷に囲い(外祖父ですからそれが可能)、平賀朝政(ひらがともまさ・山中崇)に譲位させようと画策しました。

その策に乗った(ように見せていた)三浦義村(みうらよしむら・山本耕史)が、慌てて走り込んできた和田義盛(わだよしもり・横田栄司)に、「わからなくていい。俺に従ってれば」とタメ口聞いてましたが、和田義盛はこの時58歳。三浦義村は37歳です。20歳以上も年長の、いわば「父親と同格の人」に、こんな口を聞くのはおかしいんです。

これがドラマによくあるわかりやすさであり、スルーすべき大いなる誤謬、なんですよね。
同格っぽくしておかないと、ストーリー(会話)が進みにくい。

三浦義村は三浦本家の嫡流。
和田義盛は三浦一族の傍流。
このオープニング、彼らは近い親戚ですがなぜか一枚岩ではない…?という表現でもありました。
ものの理解(それは時流を読むということでもある)に差がありすぎる…という、象徴的なシーンだったように思います。

ちなみに北条ヨシトキ(小栗旬)はこの時42歳ですが「親でも構わんだろ首ハネちまえ」と囁いていた八田知家(はったともいえ・市川隼人)は、63歳です。

「時」を継ぐもの

「時」はまさしく北条宗家の「通字」となる一字です。

名前のややこしさ、そして偏諱という補助線

北条時政の「時」は父(諸説あり)である北条時方(ほうじょうときかた)から受け継がれました。
北条時方の父は北条盛方(ほうじょうもりかた)で、その父は平直方(たいらのなおかた)だと言われているので、おそらく父・北条盛方と同世代くらいで、名前に「時」がつく有力者が烏帽子親になり、北条時政に「時」の字を与えたんでしょうね。

ひいおじいさんにあたる平直方を含めてとうぜん、代々平氏なわけですが、本拠地として治めていた鎌倉を、源頼義(みなもとのよりよし)に譲ったとされています。源頼義は、源頼朝の5代前。婚姻は武勇の誉高く、血筋の高い貴族であることが条件であり、まだ「源平の合戦」などは夢にも見ないような世界だったのでしょう。

これを見る限り、伊豆に流罪になっていた源頼朝を扶(たす)ける縁は、すでにあったということです(と、されております)。

実際は北条時政の父には「この人」という定説はなく、よくわかっていないそうです。

とにかく権力の頂点に立った北条時政の「時」が通字として使われることになった。
※数字は「執権」就任順。
必ずしも嫡男ではない。

「義時」の「義」は、烏帽子親になった三浦義澄(みうらよしずみ・佐藤B作)から。
息子の「義村」も当然そうですね。

北条ヨシトキの息子は北条泰時(ほうじょうやすとき・坂口健太郎)。
時を受け継ぎました。

では「泰」は?
三浦義村の次男に「三浦泰村」がいます。1184年生まれ。
彼と北条泰時(1183年生まれ)は同世代なのですが、北条泰時が烏帽子親になっているそうです。

同じ烏帽子親になったと見られる「泰」のつく有力者がいた、んじゃなくて、1歳違いでも「烏帽子親ー烏帽子子」という関係が構築されたんですね。

三浦泰村の兄には、三浦朝村(みうらともむら)がいます。
あまり目立たない存在ではあるものの「朝村」の「朝」の字は源実朝(みなもとのさねとも・柿澤勇人)の「朝」だそうです。

こちらはそうなると、とうぜん弟の1184年よりは早く生まれてるはずですから、源実朝は1192年生まれですし、10歳以上歳下の方(将軍)が烏帽子親になるという変則的なことになってるんですね。従属、や臣下の礼というシステムの中で、そういうパターンが出来上がっていったのか。

北条朝時(ほうじょうとき・西本たける)も、似たパターンですね。
1歳しか違わない源実朝が、烏帽子親として「朝」の字を与えています。

四郎の館を囲んだ小四郎

屋敷は囲まれ、もはや親子の殺し合いに発展しそうな展開に。
三浦義村がこの場に(北条時政側)にいるということは、三浦の大軍団(兵力では地域トップ)が北条時政側についているということになります。
「後で寝返る」とは言っても、息子軍(小四郎側)が暴発しないように、抑止力になっていることは間違いないでしょう。

源実朝がどこにいるか・将軍をどちらが囲っているかが重要です。
北条政子(ほうじょうまさこ・小池栄子)も現れ、将軍奪還と父親助命を願います。

「謝れば許してくれるさ」と北条時政は、半ば楽観的に見せて、りく(牧の方・宮沢りえ)と別れを惜しんでましたね。

りくは追い込まれて一時的に殊勝な態度を取ってましたが「将軍を殺してでも」くらいのことは言ってたであろう黒幕。北条時政に晩節を汚させた女。

りくを逃して、自分には死を、という選択を北条時政は選びました。
攻め手である北条ヨシトキは「政(まつりごと)に私情を挟むことはできません」と、北条政子に冷酷に言い放ちましたが、この辺りの「家族愛」はドラマならでは。
「家族愛が感じられる場面」がないと、ドラマっぽくならないんですね。

あんな助命嘆願(北条政子の土下座)が通用するんなら、源頼家(みなもとのよりいえ・金子大地)は死なずに済んだはずでしょう。源頼朝もすでにおらず、北条家だけで決裁できたはずのあの時でさえ、「母として」そんな行為はしなかった。

北条政子が今さら、「娘として」命乞いをするはずがない。

我々が、ドラマの演出から嗅ぎ取る「家族愛ってどんな時代も変わらないよね…」というような感傷は、この時代には(特に武家には)存在しなかったんじゃないか…と感じています。だからこそ後世に、「あの人は実は生きていた」という伝説が出てきたりもする。

北条ヨシトキは父親を失脚させるわけですが、この時点では権力は、北条時政の方が大きいように思うのですがどうなのでしょう。なぜ、掌握できる軍事力も大きいはずなのに、息子軍との殺し合いには発展させず、黙って引退してしまったのでしょう。

羽林・源実朝(12歳です!)の意向などほぼ通用しません。
なにせ子供将軍です。
「いる場所」を大人が奪い合っている状態ですから、彼に発言力などありません。

伝達役をちゃんと果たせない、ちょっと間の抜けた、憎めない老将キャラの和田義盛(なんで北条ヨシトキがタメ口きいてんだ)。この人がなんであんなことに…も、けっこう謎です。
ああ、なんとかならんかったんかえ、って。

謎のブチギレ。和田合戦

なぜあっさり失脚を!?

北条時政が戦わず、大した抵抗もせず、単なる「政変」て感じで失脚していったのは、やはり北条ヨシトキが「りくを暗殺しますよ?」と脅したとしか思えないんです。

無理な権力移譲を進めようとしたのも、御家人を騙してまで強引に畠山重忠(はたけやましげただ・中川大志)を殺したのも、すべては「りくのため」だったはずです。

そうなると、権力よりも我が命よりも、彼にとっては「りくが大事」。
北条ヨシトキは、自身が「父殺し」にならないように、巧妙に「りく排除」を画策したのではないでしょうか。

りくさえ殺せば、北条時政は意地を張る根拠がなくなります。
あの女さえいなければ、畠山重忠も死なずに済んだんだし。

そう脅して、もはやことここに至っては父上、元の権力の座に戻ることは叶いませんよ、と。
りくの助命と引き換えに、引退を迫った。

でないと、血を見ずに権力移譲が行われた理由がわかりません。
単に「親子の情」で殺さなかったのだとしたら、それこそ「甘い!byヨシトキ」。

歴史ドラマとしては膨大な時間を割いている「牧氏の変」。
これはやはり名優・坂東彌十郎氏へのリスペクトがあると感じられます。確かに『鎌倉殿の13人』における北条時政の存在感は、決して坂東彌十郎氏抜きでは考えられない、重厚さと柔和さを併せ持つ、素晴らしいものでした。

北条ヨシトキの時代が始まる

「元・13人」が集まる評議会では、北条時政の処断が最大の議題になっており、ここで「伊豆に引っ込んでいただく」ことが決定。処刑にはなりませんでした。

ややこしいのは、これを決める権力・地位を、北条時政が失っていたわけではないというところですよね。戦わず、権利を主張せず、北条時政は引いた。「もう息子に譲る」なんてことは思ってなかったはずの段階で、急におとなしくなった。やはり、「りくを殺すと脅された」としか思えないんですよね…。

で、ドラマはやっぱりその説を摂ってました。
サラッと北条ヨシトキが抱える暗殺技術者(トウ・山本千尋)が呼びつけられ、りくを殺す気だった。

でもこれ、順序としてはおかしいんです。

北条時政が隠居を決めてからりくを殺しても、意味がないから。
引退させるための暗殺(および脅迫)じゃないと意味がないから。

なのでドラマでの暗殺者の導入は、位置がおかしいと思います。

北条時政、67歳。
もともと、すでに勇退していても良い年齢です。

北条ヨシトキがもしかしたら、こうなるようにりくを、裏から権力欲にまみれるように焚きつけ、父を引退に追い込んだと考えることも可能でしょう。

我々が思うような「家族愛」、特に「父子愛」などは存在しない。
それが証拠に、伊豆から北条時政が権力を鎌倉に及ぼす…ということも以後、なかったようですから。

「親子の涙の別れ」は執権の世襲…という形にはなり、鎌倉政権を維持するのは北条氏…というコンセンサスが形成され、若き(お飾り)将軍を北条得宗家が支えるという、長き伝統を作るきっかけになりました。

父親を追放した後、平賀朝雅の誅殺、すぐに決行。

京の都で堂々と行われた、いわば「上皇の側近殺し」は、当の後鳥羽上皇(ごとばじょうこう・尾上松也)に「鎌倉幕府ってなんなんじゃ」という恐怖感、北条ヨシトキへの不信感を抱かせた事件になりました。

だけどこの時点で、顔面を歪めて「許、さん…」と滾(たぎ)るほど怒ってるわけはないと思います。
「治天の君」である彼にとって、武士などは「番犬」に過ぎません。

でもこれも「承久の乱」への引き金の一つになったはずです。

鎌倉政権における、御家人筆頭として台頭した北条義時。
この「盟主たる振る舞い」に反発した御家人もいたはず。
「北条氏暗殺」に蠢く「忍の者」も、いたはず。

歴史には残っていない闘争を勝ち抜き、政治的な圧力を増し、巨大権力をドライヴしていく北条ヨシトキ。

かりそめの安寧は、8年ほどしか続かないのです。

 

今回の『鎌倉殿の13人紀行』は、ここでした。

願成就院







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