鎌倉殿の13人

源頼朝の、恨みの根源。「野間大坊」

投稿日:

源頼朝の父・源義朝は「平治の乱」で敗れ、死に至ります。

敗走中、たどり着いた場所で、裏切られての死。
嫡男である源頼朝は、父の一行と途中ではぐれてしまい、結果的にそのおかげで生き残ることができました。

源氏の大将であり、ひとつ前の「保元の乱」では勝者側となった源義朝でしたが、ついに平清盛の勢いには勝てなかった。

 

「野間」で殺された源義朝

源義朝は、部下に裏切られます。
正確には部下の親類。
命からがら逃げ切って、安心しきって湯に入っているところを、長田忠致(おさだただむね)に殺されます。

源義朝は第一の家来と言っていい鎌田政清(かまたまさきよ)と共に逃げており、長田忠致はこの鎌田政清の親類だったそうです。

尾張国野間(のま。現在の愛知県知多郡美浜町)を領地としていた長田忠致には、敗残の将となってやってきた源氏のトップが、「匿うべき将来の宝玉」には見えず、「差し出すべき恩賞となる首」に見えたんですね。

残酷な話ですが、当時を想像してみると、判断としてはそうそう間違ってたと決めつけることはできないでしょう。
後世から「あんな裏切りや卑怯な真似は武士の風上にもおけぬ」的なことを言うのは簡単です。
私としても「もし殺されず、源義朝が源氏再興にまで届いていたら」の想像は素晴らしく楽しい。

だけど「貴様ら、源氏の棟梁を隠してるの!?」がもし平家にバレたらその方がヤバい、というのが迫り来る事実でしょうし、現場の空気としてはリアルだったでしょう。一族の生き残りのための判断として「源氏<平氏」という見立ては、ちゃんと時代を感じていると言えると思います。北条時政が源頼朝を匿って挙兵にまでこぎつけた…のとは、時代的にも地理的にも違いすぎます。

信頼する家来の縁者のもとまで「逃げ切った」源義朝は、安心してお風呂に入りました。

お風呂と言っても我々が思うような風呂ではなく、蒸し風呂。あるいは、お湯を汲んで浴びる式の行水。
タップタプのお湯に手拭いを頭に乗せて肩まで浸かる式の「湯」ではなかったようです。

「我れに木太刀の一本なりともあれば」

源氏の大将たる自分が、ほっそい半島の先まで逃げるしかなく、太刀すら帯びずに計略にハマるのか。
その無念の叫びは、捕縛された息子・源頼朝まで届いたのか。
平治2年(1160年)。享年38歳。

行ってまいりました。

その、源義朝が殺されたという場所がここです。

野間大坊(のまだいぼう)

立派なお寺です。
天武天皇の時代からある古刹中の古刹。
白河天皇の頃に「大御堂寺」と呼ばれ始めたそうです。

白河天皇と言えば「院政」を始めたとされる天皇(上皇)です。
そう考えてみれば権力志向の異常に強い白河天皇のせいでのちに保元の乱・平治の乱という血みどろの戦争が起こることになったわけで(天皇側と上皇側に勢力が割れる)、その縁ある寺のあたりで源義朝が殺されたというのもなんだか皮肉な話ですね。

 

境内の奥の方まで行くと、源義朝の墓がありました。

なんだか立派な絵が描いてある。

おお、源義経も。すごい。

源義朝公の墓所

『源義朝』とは、鎌倉幕府を開いた『源頼朝』、平家を滅ぼした『源義経』の父である。
1160年(平治元年)の平治の乱で平清盛に敗れた源義朝公は本拠地である関東地方へ落ち延びる途中、この地野間を治める家臣の長田忠致・影致親子のもとへ身を寄せた。
ところが長田忠致・影致親子は裏切りの企てをする。
義朝公へ「どうぞ朝湯へお入りください。」と勧め、入浴中の裸の義朝公を風呂場にて切りつけ命を奪った。
武芸の達人であった義朝公は「無念。我に木の太刀の一本でもあればむざむざ打たれはせん。」と言って絶命した。
後の世の人々が義朝公の菩提を弔うため、そのお墓にはお花の代わりに木太刀をお供えする習わしとなる。
いつしか、願いをかなえる武将『源義朝』として、人々が願いをしたためた木太刀をお墓にうずたかく供えるようになった。

そうなんです、後ろに見えてるのがその墓。
木片がうずたかく積まれています。

入口の横に受付(チケットを買う的なところ)があって、そこでこの木、売ってるんです。

私が訪れたのは早朝だったために受付の方がおられず、勝手に木を取って文字を描いてお金を置いていく…というのも違うなと思って、書きませんでした。
ちょっと放置されすぎじゃないかと思いました。
悪い奴が来たら絵馬とかも盗み放題ですよ。大丈夫なのかな。

お参りして、写真だけ撮らせていただきました。

よく見ると、下の方に変色して黒ずんだ古い木、上に乗ってる新しい木、があるのがわかりますね。崩れ出したら護摩炊きするんでしょうか。

名前は隠させていただきましたが、皆さん「心願成就」を掲げて、祈祷を込めて奉納なさってます。
あの古い「家内安全」や「無病息災」は、それぞれ叶ったんだろうか。

それにしても不思議なのは、戦に敗れ、裏切られ殺された人に対して「健康でありますように」「志望校に合格しますように」と願う現代の我々の了見、ですよね。
いくら顕彰し菩提を弔って供養してるからって「木の刀さえあれば…!」まで言って究極の無念の中で惨殺された実在の人物の死後に無邪気にお願いするその感覚は、もしかしたら日本独特のものかもしれません。原罪を背負って死んだ(のちに復活)イエスのような扱いと言えなくもない。

「いつしか」じゃねえよ

上の立て看板にも書いてありました。

いつしか、願いをかなえる武将『源義朝』として

墓として供養してるうちに、無念を宥(なだ)めるうちその、祀ってる対象を神格化するに及び、「いつしか」こちら側の願うことを叶えてくれる存在だと認識し始める…。
改めて考えると不思議な思考チャートですが、そこがなんら違和感なく通っている。
批判ではなく、柔軟すぎておかしみ・親しさすら生まれてくるこの感じがとてもおだやかで好きなのです。
ふところが深い。

そして上の画像では隠させていただきましたが、多くは氏名を書いてあるんですよ。
住所を詳細に、番地まで書いてる方もいらっしゃいます。
偽名はいないっぽい。

願いはやっぱり似通ってくるから、個人名をちゃんと書いておかないと神様が、個別に対応してくれない…っていう事でしょうこれ。
「私、ちゃんと願ったんですよほら、木、あるでしょ、私の字です」と問いわせしても「どれが貴方のものかわかりません。対応しかねます。成就はいたしかねます」ってカスタマーセンターに言われたら困るから、個人を特定できる住所・氏名をちゃんと書いておくというメソッド。

いえ、これも悪いとか変だとか言ってるんじゃなくて「願い、叶えたまえ!」と、神通力や人知の及ばぬスーパーパワーを頼りにしてるわりには「名前書いとかないとわからなくなるでしょ?」って神様のこと、思ってるってことですよね。
妙に能力を勝手に低く見積もってるというか。

そこがこう、なんというかのどかだなぁと思う所存です。

野間大坊ではお守りも販売されており、

うん、だから戦いに敗けて殺されたんだってば…。
いや、「武芸の達人だった」ことに変わりはないか。
いや、「源氏として」最終的に勝ったという意味ではじゅうぶんに武神か。

[勝負運]ここぞというときに
https://nomadaibou.jp/amulet.html

 

同じ墓所に、この人の墓がありました。

鎌田政家(かまだまさいえ)と妻の墓

鎌田政家(かまだまさいえ)は源義朝公の腹心の家来。
義朝公が長田(おさだ)親子に討たれる前日に
長田の息子影致(かげむね)によって殺害される。
妻は夫政家の亡骸(なきがら)のそばで政家の短
刀でのどを突いて自害する。

なんと凄惨な事績でしょう。
この場所には源義朝だけでなく、鎌田政家そしてその妻の無念が渦巻いています。

そして意外だったのは、ここに、この人の墓があること。

池禅尼の塚
源頼朝公の命を助けた、平清盛の継母。
頼朝公は池禅尼に対する恩を忘れること
なく、父義朝公の墓とともに供養塔を建
立した。
埋蔵物は名古屋市博物館に保管。

よく見るとここは「墓」ではなく「塚」でした。

源頼朝は実際、池禅尼への恩を忘れずその息子・平頼盛を厚遇し、平家の一門であるにもかかわらず権大納言にまでなる事を認めるんですね。

なぜ清盛は頼朝を殺さなかったのか

 

なぜここにこんな物騒なものが

境内の南東の角に、池があります。

 

え…

血の池
平治の乱で敗れ、野間に落ち延びた「源義朝公」。
謀反を起こした家来「長田忠致・景致親子」により殺された
「源義朝公」の首を洗った池。
国に変事が起こると、池の水が赤くなるといわれている。

「血の池」と呼ばれる池は全国にいくつのもあって、おそらく地質的に、水が鉄分を多く含んでるんですよね。

噴火活動などの影響で、その鉄分がより溶け出したりして「赤くなる」現象が起こってたのかも。

国に変事が

って書いてありますけど、どの変事で池が赤く染まったのかはわかりません。

ほとんどこれではないか…

 

とにかく大河色ゼロ

訪れたのは1月某日。
2022年の大河ドラマ『鎌倉殿の13人』の放送はすでに始まっていました。
それなのに、「あの頼朝(大泉洋)の父の墓所!最期の地!」みたいな盛り上げが一切ないんです。

ゆかりある場所なのに、大河ドラマの「た」の字もない。

境内の向かいにある「やまに旅館」に「源義朝御膳」があるくらい。
これはもう、けっこう前からあるんでしょう。
「歴史を感じる」て…

 

確かに大河ドラマは「すわ源頼朝、挙兵か!?」くらいから始まってるし(第一回は1175年から)、主人公は北条ヨシトキだし源義朝公じたいも今のところ出てこなさそうだし、盛り上げようがないんでしょうかね。

いや、そんなことはないと思います、チャンスはまだある。

なんと、上に書いた「源義朝を裏切った長田忠致・影致親子」は、平家から恩賞を受け、なんと源頼朝挙兵後も生き残り、なんと源頼朝の配下に収まります。

源頼朝から「懸命に働けば、美濃尾張をやる」との約束まで取り付けます。
彼らの所領は尾張国の、知多半島の先っぽ。
美濃・尾張は長く、交通の要衝でもありますし東西を分ける重要な知行国です。

うまく立ち回るつもりだった長田忠致・影致親子は、平家滅亡の後、やっとしっかり復讐を決意した源頼朝によって、積年の恨みを晴らされることになります。

「土磔(つちはりつけ)」という、武士扱いではない殺し方で殺したと。wikipediaによると「地面に敷いた戸板に、大の字に寝かせ、足を釘で打ち、磔にし、槍で爪を剥がし、顔の皮を剥ぎ、肉を切り数日かけて殺した」

うーん、普通の刑罰以上の怨恨がやはり、籠ってますね。
しかも働かせて、天下盤石になるまで待って、もう大丈夫と安心させる時期まで待って絶望にたたき落とすという陰険邪悪な惨殺へ持っていく源頼朝。

「約束通り、身の終わり(美濃尾張)をくれてやる」

と言い放ったそうです。

その「長田父子 磔の松」が近くにあるのです。

見てみようとここも訪れてみたんですけれど「あれ…?民家…?人ん家に入っちゃう?」みたいな感じだったので諦めました。たぶんちゃんとした道をたどればいけるはず。ワンちゃんと目で会話して帰ってきました。

「曽我兄弟の仇討ち」への伏線をすら、第一回放送から仕込んである「三谷大河」ですから、この場所がクローズアップされる可能性は、じゅうぶんにあるのです。

今から用意しておくほうがいいですよ!野間のみなさん!

この場所の860年前って…

この知多半島の端っこ、まさに「逃げおおせた」っていう感じがする田舎町です。
朝、お寺の周りをうろうろしてると即時「不審者扱い」されてしまうほどの静寂。

860年前ならまさに「陸の孤島」状態の辺鄙さ・寂しさだったんでしょう。

現在、近くにはいろんな行楽施設(南知多ビーチランドとか)があって季節によっては楽しい土地柄なんだと思います。のんびりできる。2、30分走ればセントレア空港もあるし、名古屋までも高速で1時間、というところ。観光地としては穴場感もあって良いところですよね。

ここまで逃げて殺された、源氏の大将。
天下を獲った息子・源頼朝もここを忘れず、父と恩人たちの菩提を弔うためにお寺を維持した。
そこに現代人も、「勝負に勝つ」のお願いを込めてお参りし続けてる。

800年続くこの流れは、たとえ血の池が赤く染まろうとも(何が起こるんだ)、変わらないことでしょう。
最後に、猫をお送りして終わります。

 

猫。







-鎌倉殿の13人
-, , , , , , , , , , , , , , , , , , , , , , , , ,

執筆者:


comment

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

関連記事

鎌倉殿の13人 第31回『諦めの悪い男』

だから「首を斬る」というあからさまな殺人よりも「業火の中で死にました」という、誤魔化した言い方になっている。

岐(わか)れ道、に来た。

外国人観光客「kamakura good!!」

鎌倉殿の13人 第33回『修善寺』

北条政子は子を思うあまり、忘れてしまっていたのかも知れません。
彼が怪しげな髑髏に象徴される、血塗られた血統であることを。
殺さなければ殺される、略奪と殺人の世界の頂点に立たされてしまっているということを。

前回の鎌倉大河、『草燃える』。

最後の伊東祐之(いとうすけゆき)だけは、ドラマオリジナルのキャラクターだそうです。

鎌倉殿の13人 第37回『オンベレブンビンバ』

色ボケジジイとは言えこの企てには理がないことを悟っている北条時政は、家族との別れを演じ、自分の破滅(失脚)へのルートを引き始めた。

徳ちゃんねる

徳ちゃんねる

■TRANSLATE

よく読まれてそうな回↓

■書いてる人↓

書いてる人

■書いてる人↑

■newアルバム「ATLAS」

■newアルバム「ATLAS」

master of none

master of none

DUPING DELIGHT」

DUPING DELIGHT」

BE LIKE HIM

BE LIKE HIM

■ANNIHILATION(YouTube)↓

★GOLDEN RULES★(24時間稼働中)↓

★GOLDEN RULES★(24時間稼働中)↓



afbロゴ