鎌倉で起こった事件の中で、「合戦」と呼ばれるものの一つが「和田合戦」です。
「和田の乱」「和田義盛(わだよしもり)の乱」とも呼ばれます。
あの狭い鎌倉の街で「合戦」と呼べるレベルに武士たちが殺し合った事実は、初代将軍・源頼朝の死後、いかに有力御家人たちが必死で勢力争いをしてたか、ということを思い知らせてくれます。
和田義盛は、三浦一族です。
三浦家当主・三浦義村の、いとこに当たります。
三浦一族は、源氏再興にくっついて成り上がってきた弱小・北条氏と違い、地元の巨大勢力として見せつけるべき武力も、豊富に持っていました。
そもそも源頼朝も、三浦一族がいるから鎌倉を拠点に選んだのだろうし、三浦一族がいなければ、鎌倉幕府はできていないと言えるでしょう。
そんな三浦市本流・和田義盛は挙兵以来、平家を滅亡させる戦いにも参加し、奥州でも戦った猛将。
源頼朝の死後、「鎌倉殿の13人」にも入るのは当然、な歴戦・古老の勇者。
鎌倉幕府という政治組織が、源頼朝というカリスマ亡き後、どうやって体制として維持されていくかは、こういう「昔ながらの重鎮」と、「組織を動かす官吏」との兼ね合いが重要になってきてたんですね。
「すべて鎌倉殿にお尋ねして決めてもらえば良い」というようなものではなくなった時代。
鎌倉幕府をうまく動かしていくには、北条家が強くなることが重要、と北条ヨシトキは思ってるわけです。先代の妻であり姉である北条政子がいるし、他の一族とは一線を画す立ち位置にいるべきだと、本気で感じています。
それは組織としての幕府専行を意味します。
源氏による全国統一がなった武士団においては「我が領土において古来、ワシが一番偉いのだ」みたいな、その土地独特のルールとかはもう要らない、と。
それぞれに独特の風習を各個に持ち続けて主張し合うのは、もう違うんじゃないか、と。
つまり「レジェンドソルジャー、もう要らないなぁ」というのが正直なところだったのでしょう。
潰せる機会があれば、政権のトップとしていつでも「反乱鎮圧」ができる立場。
疑いさえがあれば、いつでも焚きつけて「事実」として「退治」できる立場。
北条ヨシトキは、そういう立場にいた。
和田義盛および和田一族は、この「北条による、古老一新プラン」に乗ってしまった、と言えるのかもしれません。
すでに大勢にムカつかれていた北条ヨシトキに対する悪意が、泉小次郎親衡(いずみこじろうちかひら)という男を中心に渦巻いているという情報となって流れます。
二代将軍・源頼家が追放・幽閉され、暗殺されたのが1204(建仁4・元久元)年。
「鎌倉殿」はその弟、三代目・源実朝になっていました。
源頼家の遺児・千寿丸(せんじゅまる)を担ぎ出して将軍に据えようと泉小次郎親衡は画策し、その謀反に、和田義盛の息子・和田義直(わだよしなお)・和田義重(わだよししげ)、そして甥の和田胤長(わだたねなが)が加担していたという疑いが浮上します。
和田義盛は将軍に嘆願し、初代の決起以来の和田一族の武功と忠義を並べ立て、なんとか息子2人の釈明を勝ち取ります。
武士の感じとして、「疑いをかけられる→追討の兵を向けられる」という流れにいったんなってしまうと自動的に、「武人として迎え撃つ」という習性が発動してしまい、同時に「忠義に疑いをかけられるなどとは、それ自体がもののふとして無念千万」として恥入り、精錬潔白を証明するために(赤き心を示すために)自死致す、みたいなあっさりした思考チャートが成立してしまうんですね。
なので、その手前で、踏みとどまる必要があります。
嘆願して許された息子二人。
しかし甥の和田胤長だけはなぜか許されず、流罪にされてしまいます。
許さなかった甥・和田胤長の滅罪嘆願に100人近い一族を集結させていた和田義盛の目の前で、彼は、罪人扱いでふん縛って、和田胤長を引っ立てた。
そして和田胤長の屋敷は没収。
だいたい没収された屋敷とか所領は、その人の一族に与え直されるのが慣習だったそうです。
なので慣例に従い、甥の屋敷は、おじさんに当たる当主・和田義盛がいただくことに。
だけど、なぜか北条ヨシトキがそれを阻止。
決定をひっくり返して、北条氏のものになってしまいます。
ここで、和田義盛がブチ切れたんですね。
なんとかならんかったのか…とは思います。
「和田合戦」の4年前、レジェンドソルジャー・和田義盛は、「上総(かずさ)の国司になりたい」と願い出ています。
老境に入り、一族のことを思えば、官職として出世しておくことはとっても大事、ということだったのでしょう。
上総の国は親王任国(天皇の子供が国司になる)と決まっているので、実際には上総介(かずさのすけ、国司の下)になりたいと言ったわけですね。
幕府の要職にもあるわけだし、若き将軍・源実朝はこの人と仲も良かったようなので、聞き入れてあげようとした感じもあるんですが、母・北条政子に相談すると母がガチ切れ。
「国司には源氏一族しか許さないとお父様(源頼朝)の時代にお決めになったのに、源氏ではない者にそれを許すならもう知りません。女が口を出すことじゃないしね(女性の口入にたらざるのむね)!」と言われてしまいます。
そこを押してまでは無理…ということになり、和田義盛の上総国司任官バナシは、流れてしまいます。
その時点で北条家は、源氏ではないのに北条ヨシトキの父・北条時政は遠江守、北条ヨシトキは相模守、その弟の北条時房は武蔵守になっているんです。
その特別扱い・差別感に、和田義盛が内心フツフツと怒っていた…のは想像できますよね。
よくよく思い出すと「慣例を壊すくらいなら知りません!」と、和田義盛の上総守(介)任官推挙の話は流れた。だけど、慣例を破って「没収された屋敷は北条ヨシトキのものになった」。
ここ、矛盾するわけです。
初代以来の慣例を遵守するから突っぱねたのに、先例を自分から破って屋敷を没収した北条ヨシトキ。
「和田の乱」は、泉小次郎親衡が頼家の維持を奉じて将軍位奪還を画策したことに端を発しますが、和田義盛にとっては「将軍家を倒す」ではなく「北条ヨシトキをしばく」という目的だったのですね。
そしてそれだからこそ、「北条の奴らはやりすぎだろう」という、仲間の合意も得られた。
反・北条派は確実に、たくさんいたはずです。
しかしやっぱり、凄惨な市街戦に至るまでに、止めることはなかったのか…とは思いますね。
「北条ヨシトキの挑発」とは感じますが、そんな危険な賭け、やりますかね…。
だってもしかするとほんとに、自分も討ち取られるかもしれないのに。
ブチ切れたのは、当主の和田義盛だけではなかったのでしょう。
一族の長が、さらにその一門が、恥辱を受けた、と大勢が感じた。
やるべし…!と、合戦の用意が進められることになりました。
言葉は悪いですけど、同じ町内に事務所がある暴力団同士が抗争の準備をし始めた…という物々しい状態だったのですね。住民は戦々恐々です。
武器が運び込まれ、武者が集められ、怒号が飛び交い始めた。
だけど、キレ方の規模として、「やりすぎ」だともやっぱり感じるんですよね。
否定され、侮辱され、見下されたと感じることはレジェンドとして豪族として、武士として看過できないというのはわかるんですけど、いくらなんでも鎌倉市街で本気の殲滅戦をやるのは、怒りすぎなんじゃないかと思うんです。
親しく、信頼もしていた将軍・源実朝は、「ちょっと大丈夫?」となだめる使者を送ったのだそうです。だけれどもその時点で、すでに「もはや若い連中を抑えるのは無理」という返答が来る。
歩いて10分の距離にある幕府(御所)と和田屋敷との間でそんなやりとりがあり、けっきょく和田義盛はじめ一族は、北条ヨシトキを討ち取るために進軍することになります(午後4時ごろ)。
騒然とする鎌倉の街。
もちろん北条ヨシトキも、迎え撃つ手筈は整えていたでしょう。
情勢としては、北条ヨシトキ側が自然と「幕府軍」ということになり、和田側は自然と「反乱軍」ということになりますね。
和田軍は武力衝突で勝利したあと、北条家を排除し、新たな幕府体制を作る…まで進まないと、勝ったことにならない。
幕府を壊す、転覆させる気は、ないからです。
北条ヨシトキをしばきたい。
北条ヨシトキとしては、鎮圧して、殲滅すれば「幕府が勝った」として、どうにでもなる。
実力者・和田義盛ごと、和田一族を根絶やしにできる(で、ほんとにそうなった)。
北条サイドは「幕府軍」として、退治(皆殺し)にすれば勝ち。
和田サイドは執権殺しの汚名を一気に覆すためには、将軍・源実朝を戴く必要があります。
大義名分のためには「将軍がこちら側にいないと」成立しない。
将軍が味方だ!という状態にならないと、ただのクーデターになってしまう。
そしてここが、最も難しい。
ここで重要な勢力「三浦義村」の存在が大きくなってきます。
どうやら三浦義村は、同族・和田義盛と、「なにかあったら協力するからね」という約束を、していたようなのです。
だけど和田軍挙兵の報せを受けて、三浦義村は北条ヨシトキ側に寝返った。
そもそも同族といえども、結託できるほどの関係性ではなかったのか。
和田軍150人が、小町大路・御所の辺りに展開。
御所の東西南北の門を固めようと殺到します。
和田軍は南門へ。
三浦義村の屋敷は西門側にあったので、西門・北門を三浦義村に任せる約束だったのに、彼は土壇場で裏切った。
そして東側は…なんと、あの、なぜか許されずに流罪なった和田義盛の甥、和田胤長の屋敷でした。
北条ヨシトキが没収した、あの屋敷。
そのせいで、東側を確保できなかった。
ここまで北条ヨシトキは読んでた…のか…!?
西・北・東を抑えることができなかったので、将軍・源実朝、妻・信子、母・北条政子は北門から脱出。
知らずに御所に突入した和田軍は、とうとう将軍を戴く大義名分を、得られなかったのです。
どうやら本当の、遠方の味方と示し合わせていた挙兵のタイミングは次の日の未明、だったようです。しかしやはり大義名分である「将軍を味方にする」目的のため、警備のまだ整わない前日の夕方に、和田義盛は決行してしまってたんですね。
次の日の早朝には両方の援軍が鎌倉に到着し、他の御家人たちが「これ、どっちにつけばいいんだ!?」と迷います。
午前10時ごろには和田軍の劣勢が濃くなり、夕方には息子たちが次々に討死します。
さらに自害するもの、逃げてしまうものが続出し、和田軍は総崩れ。
和田義盛も討ち取られ、たった2日間の惨劇は、鎌倉の市街を血に染めて終了しました。
片瀬川の河原には234もの首が並べられました。
この2日間で、両陣営合わせて千数百人の死傷者を出したといいます。
軍事的キーパーソンが裏切ったことで大勢は大きく動き、和田軍は奮戦虚しく、全滅してしまうことになったのです。
結果、北条家は将軍の信頼を勝ち得、幕府の中での地位をさらに上げ、三浦義村率いる三浦氏はさらに安泰に。
北条家に対する憤懣はまだまだくすぶってはいるものの、和田合戦の顛末を見た御家人たちは、複雑な思いで自らの立ち位置を、確認せざるを得なかったでしょうね。
全滅した和田一族を祀る場所が、そのままの名前「和田塚」として、残っています。
江ノ電・和田塚駅。
真っ直ぐ行けば、由比ヶ浜に出ます。
ありました。
少し高くなっています。
昇ってみると…
上に書いたような経緯をまったく知らないとなると、「和田って誰やねん」としか思わないですけれども。
右側には「戦没者慰霊塔」。
左側には「震災殃死者供養塔」が。
殃死者は「おうししゃ」と読みます。
「殃」はわざわいという意味なので、「受難者」ということですね。
関東大震災。大正12年。
その後ろには「和田義盛一族墓」。
墓、と言っても今、この場所に一族の遺骨が埋まっているわけではないでしょう。
由比ヶ浜の遺跡発掘調査では何千もの人骨が出てきたと言いますが、そういう中にも、「和田合戦」の人々のものがあるのかもしれませんね。
和田塚
和田塚は建保元年、鎌倉幕府内部抗争による
北条義時と和田義盛の武力衝突(和田合戦)の結
果、和田一族敗死の屍を埋葬した塚として今日
まで伝承されている。
和田塚の前身は古墳時代の墳墓であったと言
われている。大正末期ごろの開墾などによって多
くの塚が壊されたが、五輪塔をならべた和田塚は
かろうじて残った。鎌倉の歴史を語る上で貴重な
遺跡である。社団法人 由比ヶ浜青年会
平成24年5月
鎌倉時代初期にはここは墓として、残されてたんですねえ。
というか御所からも程近いこんな場所に、幕府への反逆(として処理された)、敗軍の将のお墓があっただなんて。
そもそも現在、この場所は私有地だそうで、地権者が歴史価値、そして観光者のために、開放してくださってるんですね。
そしてそれは歴史の中で街が、開発と発展のためにどんどん変化してきた、ということも表しています。
だからこそ「和田塚」は、貴重どころか奇跡的な残り方してるぜ、っていうことです。
武士による全国統一がなされ、歴史の大転換となった鎌倉幕府。
だけど1180年に源頼朝が来て30年、街中が戦場になるほどの大混乱がまだまだ起こるという、綱渡りが続いていくんですね。
北条ヨシトキはその過程を泳ぎ、くぐり抜け、なぜか常に結果を出して生き残る。