死についての雑談
基本的に、心霊にしてもホラーにしても、往々にしてオカルト全般において、「怖い」のベースに「死」があることは、明白ですよね。
死がいっさい、まったく怖くなく、自分に差し迫ったとてなんの感情も湧かないなら、恐怖を感じる対象ではない。
好きなもの・趣味って、「好き!」と思うからこそ時間とお金をかけて触れ続けるんですけど、案外「好きな理由」までは、考え続けないものです。
ホラー民と言われる人らにしても、「怖いもの好き」はしっかり自覚するけれど、「なんでこうまで、怖いものが好きなのか?」まではそう、自覚していないような気がします。
その理由については以前、「どうしてホラー民と言われるまでに、ホラー民はホラーが好きなのか」の私見を披瀝しました。
死について語る資格が??
しかし取り上げるに際しては、「死についてなんて、不謹慎だ」「生意気だ」「タブーでしょうが」なんて言われる可能性も、なくはないですよね(おそらく言われはしないけど)。
でもこれは「雑談」なんです。
「議論」ではない。
議論する気は、毛頭ありません。
深刻な未来、必ずくる断崖。
平等な暗黒、迫りくる時間。
それについて認識を深めるには「議論」ではなく「雑談が必要」なんですよ。
雑談が積まれてこそ、議論に発展する可能性が開かれるし、雑談もできないようなテーマで、そもそもどうやって議論するんです?
なので「議論」なんかができるとは、思っていません。
なんでなの?ああそうか、そうとも言えるか…など、気楽に意見を吐ける、そんな「雑談」こそに、意味があると思うのです。
…というか世界は、雑談というレンガが積まれた上に成り立ってるんじゃないんですかね。
切羽詰まって対処に困り、彷徨し、親族全員が地獄のような毎日を送るハメに…という例も世間には散見されるそうなんですが、それは結局、「死についての雑談」が足りてなかったから、じゃないかとすら、思うのです。
人生は一度きり
昔から、「人生は一度きり」というセリフ、に対して「なんでわかんねんそんなこと」って、ぼんやり思ってたんですよね。
たいていは「一度きりだから悔いないように」とか「かけがえのない人生」とか、いや、あんただって死んだことないくせになんで「一度きり」って、回数がわかるわけ?「二度きり」かもしれないし「五度までおかわり自由」かもしれないでしょう?って。
「わからない」と言えばいいのに、「一度きり…一度きりなのだ…だからこそ…!」と、わからないくせに都合よくお説教のタネにしようとしてるんじゃないのか?、という疑問が、ずっとありました。
死は、わからないから怖い。
まず、「死が良いことなのか悪いことなのか、がわからない」ですよね。
どうやら、例えば延命治療をするということは、死をとりあえず遠ざけようとするわけだから、遠ざけた方がいいんだったら、死って悪いことなんだろうな…「長生きしてね」なんて言うし、生の部分が多い方がいいし死は遠い方がいい、それこそが「善」なのだろうな、という漠然としたイメージ、ありますよね。
もちろん、「死」どうこう言う前に、生きること自体には価値がある(そう思える)わけですから、死か生か、を選べるなら、生を選んだ方が良さそうです。
死にいたってしまうと、「良いか悪いか」を判断する主体がいなくなるから。
どちらが良いかの判断ができて、良いと示せるのは生きている間だけです。
なので、無条件に、生は良い。
生きるが勝ち(価値)。
…でも、果たして、そうなんでしょうか。
それなら、こんなに世界で、日本で、自ら「価値(勝ち)なし!」と、命を絶つ人がいるのはなぜなんでしょうか。
「生>死」が、どこかの時点で「生<死」になる。
これも「人生は二度きり」なら「リセット入りま〜す」みたいな感じでシステムも整備され、区役所とか町役場とか行って書類書いてハンコ押して提出してでは最後、張り切ってまいりましょう、誕生しま〜すって言えるんですけれど、「一度きり」、いや「一度きりかどうかはわからない」から、大切にしないといけない、と、「周りから見ると」思えるんですよね。
ウォータースライダーが「1度きり」だったら、どんな風に滑りましょうか。
なぜ人生が「大切に見える」のか
これは、「希少性」に似てるな、と思いました。
レア、というやつですね。
鬼レア、なんて言葉が出てきたのはもう20年も前になるでしょうか。
「数が少ない」は、それ自体に価値を高める効果があります。
高級魚、っていますよね。
どこそこの料亭で一尾、何万円にもなっちゃう魚、みたいなやつ。
あれって、味で序列が決まってるわけではないですよね。
美味しいから高級、なら、アジもイカも、上位に入って良くないですか?
「数が少ない」ことは、そのまま価値の高さに直結する可能性がある。
その証拠に、いくら「クエ」や「オニオコゼ」が漁獲高が少なくて希少だからと言っても、「私、あんまり好きじゃないですね」という人にとっては価値は低い。
もちろん、ある一定レベルの美味しさは必要ですよ、うん、それをここでわざわざ断る必要もないですけど。
ダイヤモンドは貴重で高価なものの代名詞ですが、ロシアで、現在の世界供給量の3,000年分にあたるダイヤモンドが埋まっていることがわかった、というニュースがありましたよね(1兆カラット以上あるらしいですよ、おそロシア)。
もちろん、市場に出回るまでにはいろんなプロセスを経るので、鉱山発見→即→値打ちが暴落、なんてことにはならないんでしょうけれど。
漫画「宝石の国」で一躍有名になった燐葉石(りんようせき)、「フォスフォフィライト」はもうすでに鉱山での発掘が完全に終了しており、「いま出回ってるものしか無い」という希少性なのだそうです。
その上、彼は(彼って呼んじゃう)異様なほど壊れやすく(「宝石の国」でもそこがキャラクターの特徴になっている)、その輝きの美しさに反して、アクセサリーとして常用出来るようなものではない、のだそうです。
貴石マニアの間では「田崎、どうやって仕入れたんだ…」と騒然とした、という話です。
「TASAKI × 宝石の国」 スペシャルイベント開催決定!
http://land-of-the-lustrous.com/news/index00170000.html最高額1点324万円、TASAKI×「宝石の国」コラボジュエリーについてざっくり解説など
https://togetter.com/li/1134209
「死後の世界」があろうがなかろうが
実際は、誰も死んだ後のことなんか知らないんです。
だけど、他人の人生を見ると、90歳で終わる人もいれば、10歳にならずに終えてしまう人もいる。亡くなったその人と同じ肉体と人格を持った人がそれ以降、目の前に現れてこないところを見ると「どうやら一度きりのようだな。これ(人生)は貴重だな…」と感じる。
ダイヤモンドやフォスフォフィライトが、別の銀河の星系にいくら山ほどあっても(それ自体で星ができていようとも)、私たちには感知すらできませんから「無いのと同じ」。
もし死んで、「肉体と人格は別の星系で復活、二度目の人生はそこで始まる。三度目は1億年後からスタート。」だったとしても、私たちには感知すらできませんから「無いのと同じ」。
他人の生と死の経緯を見ると「どうやらこれは希少な時間だ」と感じますから、「人生はかけがえのないものだ」と言うことができる。
だけどたった一人、この世で自分だけは「この自分の人生が貴重か、あるいはそんなこともないか」の判断をしてもいい。
実際、「死んでもいいんじゃないか」という人に「人生は一度きりさ。かけがえのない貴重なものだよ」と言ったとて、「なんでわかんねんそんなこと」って言われたら、「いやなんとなく…」って言うしかないですからね。
「あなたが無駄に過ごした今日は、昨日死んだ誰かが死ぬほど生きたかった明日なんだ」
っぽいセリフも聞くことがありますが、「誰かが生きたかったことと、俺がもう死んでもいいかなと思うことと、なんの関係があるんだ…!?」って言われたら、「いやまぁ、それはそうなんだけどもねぇ…」って言うしかないですよね。
だけどこの曲にそういう意図がないことは明白です、いい歌だ。
死は、誰のもの?
人間は自分の死と、他人の死を、どうしても混同して考えてしまうようにできている、そんな気がします。
当たり前ですが、他人の死しか見たことないし、死んだ人が「死んだらさぁ…!」って言ってるのも見たことがない。
「死後の世界」を語っているのは全員、生きてる人ですし、「死にかけて戻ってきた」人らも、現に生きてますから、死人ではない。
死がどういうものかは、生者は「定義はできる」けど、体感したわけではない、んですよね。
そうなると、他者の死を、自分もこうなるんだな、と想像するしかないですし、死という「停止状態」が自分に何を及ぼすかは、個々人によって違って当然だと思います。
死んだ後、なんの判断もできない状態になるのであれば(そう考えるのであれば)、死後には憂いも名残りも未練もない。
「死ぬまでにできなかったことが悔やまれる」のは、生きている今だからこそ(他者の死を見て)想像できることであって、死のあと、自分である意識が無いならばそれすら感じません。
どこかに隠した資産であるとか、人には見られたくないモノであるとか。
そういうものに関する感傷がいっさい起こらないとしたら、もう、死後のことなど想像するだけ無駄かも知れない。
憂慮する必要が、微塵もない。
死後、世界的に評価された人(ゴッホとか宮沢賢治とか)も、本人はそれを知らないし感じようがない。
死後、その作品が評価された他人を、我々は見て、死んでからあんな風に評価される人もいる、という事実があるだけ。
死後、自分の評価がなんらかの基準において上がったり下がったりしたとしても、それは自分にはなんの関係もない。
つまり、いつの間にか「他人の視点で自分の死を見ているに過ぎない」ということになります。
極端に言えば、数十人を爆殺した後、自分も自殺した非道なテロリストであっても、「非道で残忍なクズ」という評価を全世界でされていることには頓著(とんじゃく)できない。
何も感じない。
それに関して、良いも悪いもない。
評価するのは「生者の勝手」だからです。
もちろん、自殺を選ぶ、という状態が「自分の人生の価値において」、正しく冷静な評価を下せているに足りているのかどうか、は、甚だ疑問ではあります。
自分の死と、他人の死は混同しがちなので、やはり「自分が死ぬなら」と考えるとき、「誰か他人の死に様のように綺麗さっぱり」だとか「ここは不遇を嘆き身を投げたあの人らのように」という、他人目線の判断が混じることはどうしても否めない。
自殺を選ぶとき、自分への評価と現状把握能力において、正常ではない場合の方が多いでしょう。
別に自殺を肯定しているわけではなくて(否定もしてません)、「自身の死については(死後も含めて)何もわからない」という状態について、全く同等な立場のはずなのにお坊さんや偉いおじさんなどがおっしゃる「人生は一度きり」ってなんでわかるんじゃオラ(まだ言ってる)、と。
やはりポイントは「魂」か
いろんな立場の人が、いとも簡単に「魂」というものをあっさり信じているなぁ、と思うことは多々あります。
実は多くの人が「他者の死」と「自分の死」を混同し、興奮し、恐怖しているのではないか、とも。
そんな混同や恐怖を否定なんかしませんし、なんら疑問に思わないことも清々しく生きる方法の一つかも知れない、とは思います。
だけど、やっぱり割と平然と安易に、得体の知れない、肉体とは別の、永遠不滅の気体のようなもの(だけど原子では構成されてないっぽい)を、軽々しく「魂」と呼んでいることには、わだかまりを禁じ得ない。
目には見えないものってたくさんあります。
「概念」もそれにあたる。
他にも、例えば「優しい気持ち」とか「熱い想い」とか、科学的には脳内で起こる化学反応だ、と説明はできるようですけれど、それに違和感を持ってしまうところはあります。
神社のお守りが布と紙で出来てるからって「はい、燃えるゴミです」ってわかるけどなかなか捨てられないでしょー、みたいなところ。
だけど、作ってる人(業者)もいればゴミとして処理してくれてる人(業者)がいることも、想像すれば大人なら、すぐわかりますよね。
宗教的な話になってくる流れ、つまりこのへんからそうなっていくんだな…魂、ねえ…っていう。
この話に、終わりも妥協点も(ましてやオチなど)ありません。
死についての雑談は、死ぬまで続くのです。