将門の首は、飛んだりしていない。
するはずがない。
飛んでいないのだから、落ちてもいない。
ここに将門の首はない。
例えあっても、それがたたりや呪いにはなっていない。
あんな事故が!あんなに死者が!というのは、後付けのこじつけ。
無理やりな牽強付会。嘘。出鱈目。テキトー。怖がることすら無礼。
平将門は、そんなことのためにいるのではない。
東京・大手町の「将門の首塚」。
「将門塚」と呼ばれ、畏怖と尊崇を集めている。
反面、これが「タタリと恐怖のスポット」扱いされ続けているという側面がある。
恐怖の風聞として、面白いことは間違いない。
多くのオカルト大好き人間が「知識の一端」として脳内の常識ゾーンに保管している知識だ。
現代に生きる日本人を死にまで至らしめる存在が、この大都会のしかもど真ん中のビジネス街に存在しているというのは、やはりインパクトがある。
近隣のビジネスビルに入っている大企業では、階上のオフィスにおいて背を向けないように机・椅子が配置されていた…などの噂もある。
モータープールを作ろうとして死亡。
1945年、日本は敗戦した。
GHQによる日本の統治が始まった。
サンフランシスコ平和条約が締結されるまでの7年間、日本はアメリカを中心とする連合国の占領下にあったのだ。
勝利し、占領してるので、基本的にアメリカは「日本に何しても自由」である。
しかしアメリカは日本を植民地にしようとはしていなかったので、文化の徹底的な破壊まではされなかった。
それでも、「関西の迎賓館」とも呼ばれた明治42年創業の老舗旅館「奈良ホテル」を、全面ピンクに塗ろうとしていたというのは聞いたことがある。
|
東京・大手町にあった将門塚にも、「駐車場にしよう」という計画が持ち上がった。
なにせGHQの本部(連合国軍最高司令官総司令部)がその近く、第一生命館(現在のDNタワー21の場所)にあったのだ。
その一帯が「もっと便利に作り変えよう」という計画に入ってもおかしくない。
日本の業者が、それを請け負った。
工事が始まり、ブルドーザーが塚に近づくとたちまち横転し、運転手が亡くなってしまったという。
神田町の町内会長がGHQ本部へかけ合い、「畏多くも昔の大酋長の墓である」と説明し、工事は取りやめ、保存されて、現在に至る。
国税庁のウェブサイトには「税の歴史クイズ」というコーナーがある。
そこに「大手町の首塚」という問題があり、問題文の最後は
この祟りの原因とされた塚に祀られている人物は誰でしょうか?
となっている。そして
答え
平将門(たいらのまさかど)
と書かれている。
クイズに答える形にはしてあるが、国の機関がまるでタタリを認めているかのようで面白い。
下段の「解説」のところに、
太平洋戦争後、米軍が塚を整地しようとした時にブルドーザー横転事故が起きて運転者が亡くなっています。
と書いてあるが、詳細はわからない。
この事故は、起こった日すらもわからないのだ。
不幸にも亡くなった従事者の氏名すらわかっていない。
何もわからない。
ただ「そのため、将門塚は保存された」という事実が残るのみである。
どうやらなんらかの不幸があったことは本当らしいが、「ブルドーザーが横転した」というのはどうも怪しい。
誰かが思いついて膨らませた嘘の可能性がある。
大蔵省で大臣以下、次々と関係者が死んでいく。
将門塚のある場所は明治維新の後、山口藩の敷地になり、その後、明治4(1871)年に大蔵省の管轄地になった。
関東大震災(1923年)の被害調査を契機に、将門塚の原型は5世紀に造立された、前方後円墳であることがわかった。
平将門は生年こそ不詳だが、死んだ年月日はわかっている。940(天慶3)年3月25日だ。
ここには500年近い隔たりがあることになる。
つまりこの時点で、「将門塚の場所は、そもそも平将門とは関係がない」ことは判明しているのである。
昭和15(1940)年、大蔵省の新庁舎が全焼した。
逓信省航空局から出た火が燃え移ったのだ。
なんとこの年は、将門の死亡からちょうど1,000年め。
1,000年経ってもタタリなす、怨霊の凶暴さよ。
その14年前、大正15(1926)年9月に大蔵大臣・早速整爾が死去。
次の年、改元後の1927(昭和2)年、5月に管財局の工務部長が死去。共に享年57歳。
ここから数年のうちに、大蔵省の、現職者が十数人亡くなった。
枢密顧問官・内務大臣なども歴任した、時の大蔵大臣・三土忠造は「これ、やばくね?」と、鎮魂祭を執り行った。
それにも関わらず、上述のようにちょうど没後1,000年を経て、庁舎の焼失が起こっている。
昭和15(1940)年当時の大蔵大臣・河田烈は、「将門鎮魂祭」を行うことを決定した。
明治・大正・昭和と、平将門は顕彰する塚を破壊しようとする大蔵省に、徹底かつ強烈なタタリが降りかかる…。
このニュアンスで語られていることが、とても多い。
大蔵省が、大震災からの復興を契機に、将門塚を更地にしたのが大正12(1923)年。
大蔵大臣・早速整爾の大臣就任と病死は1926年だ。
更地にするための認可を下したのは前任・井上純之助である。
井上が亡くなったのは昭和4(1932)年。
「関係者が死亡した」という意味では井上前大臣も早速大臣も死んでるわけだが、そんなことを言い出したら「死んでない大臣」を探すしかなく、まだ不死の大臣がもしいたらそっちの方が大騒ぎだ。
関係者がいつか亡くなるのは当たり前で、それがこじつけられているだけなのである。
大蔵省の職員が亡くなったというのも、これに属すると見ていい。
永久に死なない職員など、いないから。
それに、震災からの復興で激務に追われていたのは大蔵省だけではない。
過労死など、ほぼ全く認められていない時代だったというのもある。
将門没後ちょうど1,000年の1940(昭和15)年に起こった火事も、すでに書いたように「逓信省(現在の郵政省」が火元である。
同時に厚生省、気象台なども被害に遭っており、大蔵省だけが将門の怨霊に祟られたという理屈は通らない。
つまりこれらは、おどろおどろしく強引に結びつけた新聞記事などを、オカルト好きたちが面白がって広めて行った結果、定説のように出来上がってしまった、ただのゴシップなのである。
オカルト好きたちがよくやる、「人の死で遊ぶ」というやつだ。
平将門のタタリ、の文脈で、今でも最も引き合いに出される映画「帝都物語(原作は荒俣宏)」であろう。
この作品が与えたインパクトは、いまだに大きな残響音を残している。
しかし基本的なことを考えれば、なぜ武蔵国をはじめ関東の解放を願い、立ち上がったはずの平将門が、東京を破壊する魔王にならなければならないのか。
その場合の「魔」とは、誰にとっての「魔」なのか。
京都の破壊なら…いや、将門は京都に対しての恨みすら、持っていなかったのかも知れないのに。
どこにあるのか、彼の首は。
京都で晒された将門の首は、切り離された自らの体を求め、関東まで飛翔した。
そして「芝崎(今の大手町付近)」に落ち、現在まで祟り神として恐れられている。
これを信じるのか???
将門の首は京都へ運ばれる途中で、朝廷から遣わされた勅使と出くわし、その場に郎等と共に埋められた…という説もあるのだ。
将門の首が飛んできて、落ちた場所?とは。
芝崎村というところは、江戸時代以前は「海際」である。
神田山の尾根の先であり、つまり「崎」は「先」であり「岬」を指す。
落語に「芝浜」というのがあるが、おそらく同じような環境だろう。
港区の芝(芝公園のあるあたり)も、海際だった。
京都から、莫大なる怨念エネルギーを爆発させて故郷を目指して飛翔する「首」が、そんな海キワキワに落ちるだろうか…。
偶然、陸に落ちたからいいけど、もしボチャンと海水に落ちてたら。
そう考えると今「将門塚」になっている場所はやはり、平将門とはなんの因縁もない場所なのだ。
もちろん「首が飛んだ」というのも、恐怖を求めた創作である。
逆に、体が首を求めて移動しつづけ、力尽きたのがこの辺りだったという伝説もある。
祭神の一つになっている神田明神の「神田」の語源は「カラダ」だというのだ。
そっちの方がイメージ的に怖い。
朝敵となってしまった平将門は「天慶の乱」と呼ばれる騒乱の首謀者であり、討伐されてしまった「悪の首魁」である。
それが今、宮城となった皇居の傍らで祀られているというのは、どういう因縁なのか。
無念を飲んだ武の人の魂を鎮めるために…の大義名分のもと、「朝廷を抑える」目的がそこに加味されていたとしても、おかしくはないだろう。
現在では皇居である江戸城を、武士の中心だと定めたのは征夷大将軍たる徳川家康。
武士が政治を取り仕切る…の端緒を開いたと言ってもいい平将門が、武士の本拠地となった江戸の総鎮守として祀られるのは、当然かもしれない。
それなのに、「首塚」に関しては現在…
・首が飛んできた
・タタリで死ぬ人続出
・今も怖い
・怨念に気を付けろ
・帝都を破壊する魔人(加藤)のパワーの根拠…
というような流れでしか紹介されないのは、腑に落ちない。どころか腹が立つ。
まるで怪談を事実だと信じ込んでいるような、オカルト好きたちの、極めて幼稚な精神性を感じる。