マーク・フィッシャー (Marc Fischer。ドイツ人ジャーナリスト)は、その自身の新しい著書が出版される一週間前に亡くなった。
マークは日本で受けた衝撃を、その曲名を、本のタイトルにしていた。
オバララ(「ho ba lala」)。
多分これ、和訳は出ていない。
「資本主義リアリズム」などで有名なマーク・フィッシャー (Mark Fisher。イギリス人の評論家)とは別人。
彼はジョアンに会うために、ブラジルを訪れていた。
でも会えない。
連絡がつかない。
みな「会えないよ」「何十年、会ってない」と言う。
居場所を知っている人は「彼との約束だから言えない」と言う。
家族すら、「会えないと思うよ」というような態度を取る。本人が会いたがらない限り、会えない人。
ジョアン・ジルベルト
ボサノヴァの創始者にして、偉大なミュージシャン。
偏屈で、変人で、頑固で、わがまま。
両方のイメージが広く世界には散布され神格化され、どこか「会えなくてもやむなし」が、納得いくことのようにすんなり思えてくる。
孤高にして唯一の、音楽の、ボッサの法王。
2008年のコンサートを最後に、公の場には現れていない。
満席でした
マークの著作を手に、ブラジルを訪れ、ジョアンに会おうと旅するのはこの映画(「ジョアン・ジルベルトを探して」)の監督、ジョルジュ・ガショ。
映画公式サイト
http://joao-movie.com/
彼が追いかけた彼。
膨大な写真と、録音と、記録と。
どこにいるかわからない。
住んでる場所。
生活基盤。
もちろん、どんなスターだって、いきなり訪ねて会えるものではないだろう。
東京でだって、「あの有名人の家、知ってますよ」というのは聞くことがあるけれど、本人に家の前で会うのとは意味が違うし。
ミック・ジャガーに会いたいなら、正式に英語で事務所を通してオファーすればいい。企画が合致すれば、会ってくれる(たぶん)。
でも、違うのだ。
ジョアンの場合、そのルートが存在しない。
ジョアン・ジルベルトの場合、謎に包まれてる、というよりも、ブラジルに守られてる、という感じすらする。
「彼が会わないって言ってるならそれはそうじゃない?」と、誰もが自然にそう思っている。
ミュージシャンのイメージを、我々は「プロモーションありき」で捉えていることに気づかされる。公然と姿を晒す時は、宣伝。売るため。顔とレコードを売るため。ステージに人を呼ぶため。好感度を上げることため。活発な創作活動が可能な状態を、誇示するため。
結局マーク・フィッシャー は、彼に会えずに帰国する。
ブラジルを旅し、関係者に会い、友人と話して、手紙を書き、著作まで上梓したマークは、彼の姿を見ることなくこの世を去った。
では2006年、東京でステージを観たという私(そして多くの日本のファン)のあの体験は、いったいなんだったのか。
映画「ジョアン・ジルベルトを探して」。
ラストシーンの、驚きと余韻。
ブラジルの山と海、人と歌のあふれる街の様子が映画を、さらに美しいものにしている。
サウダーヂ(saudade)
「サウダーヂはボサノヴァに限らず、ブラジル文化のキーワードです。それは『良い思い出が残っている “あの場所” に戻りたい。けれど戻れない』という気持ちだと思います。“あの場所”というのは土地だけではない。たとえば、老人が自分の青年時代を思い起こすときに感じる気持ちもそう。若い頃に戻ることはできないけれど “あの頃に戻りたい”と望む。それもサウダーヂなんです」
映画『ジョアン・ジルベルトを探して』─ 監督ジョルジュ・ガショが見た “ボサノヴァの神と殉教者”の痕跡
https://www.arban-mag.com/article/41640
2019年7月、ジョアンジルベルトは88歳の生涯を閉じた。
私たちは永遠に、世界中の空に、問い続けることになる。
Where Are You, Joao Gilberto?
映画公式サイト
http://joao-movie.com/
映画のパンフレットには、ヤマザキマリさんのイラストが載ってるぞ(¥700)!!