たとえば、こういう問いが生まれる。
最近の日本の曲はすべて心に響かないというか薄っぺらくないですか?愛だ恋だ逢いたい寂しいヘイヨーヘイヨー
と歌えば売れますか?
僕はまだ昔の曲の方が歌詞もスッと入ります(KANとかチャゲアス、チゲアンドカルビ、ジョンレノソとか)。今の曲は聞いても歌詞は出てきません。
これに対して、たとえば、こういう解が生まれる。
歌詞が薄っぺらなのは確かですね。
要因の一つは、
聴く層の国語力低下だと思います。
「好きです」と書かないと、好きだと理解出来ない。「遠ざかる影が人混みに消えた」と書いても
「別れを表現している」と
理解出来ない。だから、小学生の作文のような
「会いたい」「悲しい」
みたいな単純表現ばかりの
薄っぺらな歌詞になるんだと思います。
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1065074080
この問答は2011年とあるから、すでに10年以上経過している。
青春の(思春期)の、強烈なメモリー。
10代の時に聴いた曲はしっかり覚えており、感動も記憶にあり、その景色や匂いまでもがセットで現れるような感覚がある。
嫌なことすら思い出し、グッと眉をしかめたくなったりすることすらある。
10代に好きになった楽曲は数十年経ってもまだ好きである可能性があり、活動を続けてくれているアーティストに対しては感謝が生まれ、「懐メロ」と揶揄されたとて動じないほどの固い紐帯(結びつき)を感じる。
大人になってからの音楽の好みは14歳の時に聴いた音楽で形成されている
https://fnmnl.tv/2018/02/19/47697
ところが、最近の楽曲に関してはどうだ。
いくらヒットチャートを賑わしていようが再生回数が何億回に達しようが、「なんか違う」「響いてこない」「薄っぺらい」と感じてしまうのではないだろうか。
これは、「必ず起こること」である。
これが、「まったく無い」というのならば異常であるか嘘をついているかのどちらか、だ。
上掲のYahoo!知恵袋の問答のようなことは、多くの人の心の中で歴史上、幾度となく繰り返されているのであり、多くの人はそれらになんとか折り合いをつけて新しい楽曲に触れ、良さを新しく学び、古い記憶と合致する部分を探し、ベテランリスナーとして楽しみ方とはまた別軸で、音楽を愛し続けている。
これが、その謎の答えだ。
10代の折、リスナーは、少年少女たちは「音楽を通して世界を知る」のである。
これを、理解しなければならない。
歌詞がメロディに乗っている分、音楽は心に浸透しやすい。
お坊さんが読経するのに節がついているのも同じ理由である。
歌になると、その詩の内容が入ってきやすいのだ。
世界を知る「よすが」として、音楽は有効に使われる。
THE BLUE HEARTSのメジャーデビューシングルを見てみよう。
1987年のリリースである。
冒頭に
ドブネズミみたいに美しくなりたい
写真には写らない美しさがあるから
とある。
10代の頃にこれを聴いた人は、「写真には写らない美しさがある」ことをこの歌詞から知る。
そしてそれがあるから、ドブネズミみたいに、美しくなりたい!という「衝動が存在すること」を知る。
この衝撃は、世界をまだ知らない10代にとってはそうとう大きなことなのだ。
もちろんそれについて「そうらしいよ!」などと友達と言い合ったりはしない。
静かに、自分の心の中で、「そうなのか…そういうものなのか…もな…」と「感じる」だけである。
誰かとの会話に現れてくるのだとしたら、「リンダリンダって、いいよねえ!」という風である。
翻って、YOASOBIの「アイドル」という曲の歌詞を見てみよう。
2023年に発表されたこの楽曲は、アニメのテーマソングだったがアメリカのビルボードにおいて日本語楽曲初となる1位を獲得している。
アニメの内容も加味されているが、冒頭
無敵の笑顔で荒らすメディア
知りたいその秘密ミステリアス
抜けてるとこさえ彼女のエリア
完璧で嘘つきな君は
天才的なアイドル様
と歌われる。
これによって10代の人たちは、
「無敵の笑顔でメディアというのは荒らされるのか」
「秘密というのはミステリアスなのか」
「抜けてるというのも持ち味なのか」
「天才的なアイドルとは完璧で、それでいて嘘つきなのか」
と、自由で奔放に世界のとっかかりをつかむ。
正解であるかどうかは問題ではないし、その進捗具合や理解度には激しく個人差がある。
米津玄師の「地球儀」(2023年)という曲には、
僕が愛したあの人は
誰も知らないところへ行った
あの日のままの優しい顔で
今もどこか遠く
という箇所がある。
これによって10代の人たちは、
「愛した人っていつかどっかいっちゃうのか」
「誰も知らないところがあるのか」
などと、世界を知るとっかかりを自由につかみ取る。
これは10代にしか出来ないことだ。
もちろん、読書や映画などでも同じ体験は起こっている。
人生で経験を少なからず積んでしまった大人たちは、世間を、社会を、世界を知ったような感覚になり、狭まった視野に言い訳をするように、見えないものは見ようともしなくなる。
その一つが「新しく触れた人たちの感覚について」なのだ。
10代の人たちに今響くことは、大人になった人たちにはもう経験済みで、同じ言葉を使ってはもう、新鮮さや素晴らしさを感じない。
急に変な例だが「生まれて初めてキウイを食べた赤ちゃん」の動画を見たことがある。
キウイを口に入れた時のあの、酸っぱさの後に流れる甘さの重層的な美味さに対するリアクションは、大人には絶対に出来ない。
大人は10代ですでにそれらを経験してきたので同じようには楽しめないだけであり、記憶が増え、思い出部分が大きくなった分、懐古する時に出る快楽物質の方が、多くなっているのだ。
それは悪いことでもなんでもない。
当たり前のことである。
悪いのは「今の10代が聴いているモノは薄っぺらい」と、自分の経験の蓄積のみが正解だったと決めつけ、押し付け、排除しようとする動きだ。
「最近の曲は響かない」と嘆きそうになったら「それは自分がジジイ・ババアになって行ってる」ことの証明だからと、まず吹っ切ろう。衰えたのではない。違う船に乗り換えたのだ。
そして「そういうものだ」と納得したら、「それはそれで楽しみ方があるんよ」と理解しよう。
いつまでも「10代の感覚で触れ合うことだけが音楽との距離感」だと思い込むのをやめよう。
それが一番みっともなく、醜く、間違っていて、害悪をまき散らす。
その時々にしか、触れられない感覚がある。
それだけでいい。
その上で「今の10代にはこれ、響くんだろうなぁ〜」と、そこにこそ想像力を働かせるべきだ。
10代が持つ新鮮な触手は、世界を知る窓口として音楽を探る。
それ以外の世代の人間は、それを踏まえた上で音楽を語り、世界を楽しむ義務がある。
「現代」「下の世代」そして「新しい利器」を嘆き・叩くのは、自分がついて行けなくなっていることのアリバイ作りである。
悪くさえ言っておけばそれらがダメになった時に「それ見たことか」と言えるし、成功例になったとしたら「世の中全体がおかしくなっている」と言い逃れすることが出来る。
新しいものの価値をすべて認め、受け入れる必要はない。
もう一段、上の概念から見よう。
「新しいものを受け入れている人たちの姿勢を、理解する」。
これなら「自分だって若い頃、新しいものを受け入れてたでしょ?」と、わかりやすいはずだ。
最近の曲が響かないのではなく、もう、響かない年齢に自分が達したのだ。
羨ましがることはない。そういうものだ。
そして現在進行形で響いている今の10代も、数十年後には同じようになる。必ずだ。
それでいいし、それがいいのだ。