やっぱり、すごく不思議なんです。
神奈川県秦野(はだの)市に「源実朝の首塚」があります。
1219(建保7)年、鎌倉の鶴岡八幡宮(つるがおかはちまんぐう)で暗殺された、鎌倉将軍三代目・源実朝(みなもとのさねとも)。
ここで、河内源氏の嫡流は断絶。
四代目以降は藤原氏から将軍を迎え、北条氏が執権として政治を取り回していくことになります。
いや、うん…そう習いました。
でもここがどうにも、腑に落ちないところなんですよね。
鎌倉幕府は、続いていくんです。
三代目・源実朝が殺されて、滅亡したわけじゃない。
なのに、どうして暗殺された前将軍の首が、鎌倉で葬られてないんでしょう。
その理由は今のところ、読んだどの本にも書かれてません。
現存する資料にも書かれてないんでしょうね。
実際、源実朝を境内で殺して首を切ったのが、公暁(こうぎょう。出家してるが源実朝の甥に当たる)だということは、もしかすると確実に絶対視できるような事実ではないのかもしれません。
『吾妻鏡』はともかく、『愚管抄』に書かれている詳細は、少なくとも2年以内に、鶴岡八幡宮の境内で行事に出席してい公卿たちから聴き取ったものだそうですが、基本的には事件後に聴取された情報を総合して書かれたのでしょうし、そこにさらに、なんらかの意図に基づいた改変がないとも限りません。
公暁の墓は、どこにもないそうです。
主犯・公暁がすぐに処罰され斬首された後のことは、何もわからない。もはや誰も知らない。
征夷大将軍(そして右大臣でもある)を殺したとはいえ、公暁も源氏の直系です。
源頼朝の息子、二代目将軍源頼家の子供ですから、源実朝がもしいなかったら将軍になっていた可能性もある。
いくらなんでも「墓すらない」っていうのは酷すぎる気がするんですけどね。
で、晴れやかであるはずの式典で急に殺された、武士の頂点の地位にあった将軍の首が今、ものすごく離れた場所にあるという。
そんなの、不自然じゃないですか。
どうして、手厚く葬らないんでしょう。
すぐには無理だとしても、室町期は無理でも戦国時代を経て江戸期に入ってから、「ああそうだ。首が離れたままじゃああんまりだ」という顕彰活動が勃発してもおかしくないと思うんですけどね…。
なんでずっとその距離感のままなんだ。
主犯・公暁をすぐに討ちとれ!と派遣された三浦義村の家臣・武常晴(たけつねはる)が、公暁討伐の最中に源実朝の首を手にし、それを三浦義村のところへは持ち帰らず、この秦野の地を治めていた波多野氏を頼って持ち込んだ、とされています。供養のために退耕行勇(たいこうぎょうゆう)という僧を招いて金剛寺が建てられた、と(開基には諸説あるらしい)…。
初代・源頼朝は、天下を取ってから父・源義朝の首を取り戻し、鎌倉の地に葬っています。
現在はもう無くなってしまってるんですが、鎌倉に「勝長寿院(しょうちょうじゅいん)」というお寺を作って、そこに、探し出して運ばせた父・源義朝の首を葬り、盛大な落慶供養を催したそうです。
それが文治元年(1185年)。
源義朝が平治の乱に敗れ、殺されたのは平治2年(1160年)です。
死後25年も経って、「これがそうです!」という形で頭部が残っているとは到底思えませんが、「探し出して供養したのです、ちゃんとしました」という事実とその発表が大事。
そういうもんなんですよね。
「首がどこにあるかわからないなんて、先祖を供養する上で、あり得ぬ」ということですよね。
「ちゃんとするアピール」というと嫌な言い方ですけど、源頼朝は、ちゃんとした。
ほんとに戦闘の混乱でどこへ行ったかわからない雑兵ならまだしも、源氏の先代棟梁の首ですから。
幕府創設将軍の、父ですから。
この寺に、暗殺後の源実朝は葬られたそうなんですが、その時にも首はなかったと。
その時になかったとしても(しつこいけど)、探し出せばいいじゃないか…。
なんで無いままで、800年も経ってるんだ。
将軍の首、ですよ?
800年も放っておくから、ものすごく離れた秦野の、史跡になっちまってるじゃないですか。
「鎌倉に、源実朝の首が無くても別にいい」っていうのは、どういうことなんだろう。
前にも、書きました(ぜひ読んでね)。
行ってまいりました。
ここは神奈川県・秦野市。
源実朝公御首塚。
のどかな、あまりにものどかな自然の中に、それはありました。
宋へ渡る巨船を建築するくらいの権勢を誇った、歌史に残る『金槐和歌集』を編纂した、鎌倉三代将軍にしては、あまりにもあっさりしてるとは思いませんか。
ほんとにここに、源実朝の首、あったのかな???
左横には、「首塚碑」が建てられていました。
建保六年十二月征夷大将軍源公実朝…
正月二十七日行◯賀禮所鶴岡…
◯之持其首遁去二十八日◯公…
公氏◯毛代首◯◯前夕三浦義村…
常晴嘗近侍公者◯賊…
此塚也儘以三浦氏…
為公創金剛寺◯塚…
云顧公以英明之◯承右大将…
尚◯素武毅以…
家尤忌公英毅密…
民及有志士懼其…
路以◯諸◯者互竣欲…
名蹟亦◯◯◯人心敦風俗也乃記以◯之…
大正八年三月九日
神奈川縣知事正四位勲二等有吉忠一◯弁◯…
猪瀬博愛書
もっとちゃんと撮ってくればよかった…全然見えぬ…読めぬ。
その横には歌碑がありました。
さすが天才歌人・源実朝。
さらに読めぬ…今度は、見えるけど読めぬ…。
どうやら
「物いはぬ四方のけだものすらだにもあはれなるかなや親の子を思ふ」
と書いてあるそうです。
ちゃんと、秦野市教育委員会による説明文が掲示されていました。
ほっ。よかった。
ここは、若くして非業の死を遂げた鎌倉幕府三代将軍源実朝の首塚と伝えられている。実朝は、鎌倉幕府を開いた源頼朝と北条政子の子として生まれ、建仁三年(一二〇三年)二月に十二歳で鎌倉幕府の三代将軍となり、建保六年(一二一八年)十二月、武士として初めて右大臣となった人物である。
実朝は、建保七年(一二一九年)正月二十七日、右大臣拝賀のため鶴岡八幡宮に参詣した際に、二代将軍頼家の子、公暁により命を奪われた。『吾妻鏡』には、首のないまま埋葬されたと記されており、首を持ち去った公暁が討たれたのちの首の行方については一切触れられていない。
多くの謎の残る事件であるが『新編相模国風土記稿』(一八四一年)の東田原村の項に「源実朝墓 村の中程に在 塚上に五輪塔建り 承久元年(一二一九年)武常晴 実朝の首級を当所に持来り」という記述がある。この武常晴は、三浦半島地域を本拠地とした御家人、三浦氏の家臣であり、のちに一族は現在の当市寺山に移り住んだといわれている。なお、ここからほど近い金剛寺には、源実朝像が安置されている。
実朝はまた歌人としても名高く、私家集に『金塊和歌集』がある。歌碑に刻まれた和歌にはそれに収められた一首であり、近代を代表する歌人のひとりである佐佐木信綱の筆によるものである。ものいはぬ 四方のけだもの すらだにも
あはれなるかなや 親の子をおもふ秦野市教育委員会
この説明では、やはりこの秦野の地に源実朝の首はあったのだと伝承されていたということですよね。
『新編相模国風土記稿』が1841年に書かれたものだとしたら、天保12年ですから、その時点で言い伝えとしては確定事項として扱われてたんでしょう。だけどいろんな噂や憶測が入り乱れて、事件後600年以上経ってますから、それは事実認定の素材にはなり得ないと言えますよね。
「そう言われてるからそうだ」っていうだけで。
「首の行方については一切触れられていない。」のであるならば、他の場所にも「ここに、源実朝の首があります!」という塚が、関東のどこかにあっても良さそうなものだ…とも思うんですよね。
ほら、平将門の首塚、というのは割とあるんですよ。
ここは有名ですね。「将門塚」。
ここには行きました。「十九首」。
ああ、京都にもあったんだった。
ここにもあるそうです。
「将門の首塚」
この「首はここにあるそうで」というのは、「願望の現れ」なんですよね。
無念を飲んで死んだ英雄を、讃えたい。弔いたい。鎮魂したい。という人々の願望が「行方不明の首はここに埋められていたのです!」という伝説を作る。
源実朝の場合、それがない。
胴と首は離れたまま、「身体は鎌倉、そして首はここ、秦野(はだの)にあります。」っていう感じ。
あっさりしとんなぁオイ。
ここが、供養されたという金剛寺。
おそらく「源実朝の首はどうやら波多野氏に持ち込まれ、秦野にあるらしい」というのがわかったのは、室町時代になってからなんじゃないでしょうか。
もう鎌倉時代のことがけっこうよくわからない感じになってきて、昔そういうのあったんですね〜的な「お話」として聞けるようになってきた、というか。
源氏の棟梁である鎌倉幕府創始者・源頼朝が、父を供養するために作った勝長寿院ですら、1400年代の中頃にはほったらかしにされ、「まぁ、もうどうでもいいや」っていう感じになって、廃寺になっちゃうくらいですから。
鎌倉時代には「首はほんとにどこにあるかわからない」っていうことになってたんでしょう。
鎌倉という都市が政治的に重要視されなくなって、鎌倉から古河(茨城県古河市)に拠点が移ってしまったあたりで、もう源氏がどうとか幕府の血筋がとかはどうでもいいという、戦国時代の空気が流れ始めて、初めて「実は200年前に、首はここに運ばれていたのです!」という、伝説を語ることができるようになったのかもしれません。
暗殺直後は行方不明になった征夷大将軍・源実朝の首ですけれど、それを契機に北条氏の政治力が格段にアップしたことも事実ですし(だから北条氏黒幕説がある)、「殺されてどっか行った首なんかどうでもいいだろうが…!?そうだろう!?探す必要なんかあるか?」という意思表明になっていたと想像してみると、首と胴が離れた状態のままだで放置されていたというのは「北条に逆らうのか?意見する気?後が怖いよ?」という、脅しになってた様な気もしますね。
けっきょく、「なんでここにあるか」の謎は、いまだにわかりません。
あの朝比奈義秀が生きていた…!?
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