ずーっと、文句言ってる人って、いますよね。
しかも、自分自身は、それを文句だと思ってない。
人の姿を見たら即座に「痩せた!?(太った!?)」
どんな店を見ても「高そう」
高そうな店を見たら「そんなお金ない」
美人を見れば「頭わるそう」
金持ちを見れば「悪いことしてそう」
予定を思い出せば「忙しい」「時間がない」
食事をしては「辛い」「熱い」「嫌い」「たいしたことない」
これらの言葉たち、いやそれくらいは普通だろ、と思いますか?
これらにはごくナチュラルに「否定」の感情が乗ってるので気づきにくいのかも。
しまいには服屋とかブランドに対して「似合うのがない!」。
決して普通ではないんですが、それが普通になってる。
「否定するのは、満たされていない自分が口にする権利があるから」という、意識があるからなんですよね。
たとえば「お金がない!」は、「お金がたくさんあったらそんなこと言わねえぜ!」っていう意味なんですよ。
つまり愚痴、ですね。
愚かで、痴れた言葉です。
そしてそういう人たちは「オレ(アタシ)は今、恵まれていない。とにかく不遇だ。あの人らのように贅沢なことや幸せなことはできない。だから自分の判断でダメと決めつけられることに対しては、強く否定してもまったく構わないのだ」と無意識に、論理展開している。
見下せる、と判断したモノに対しては強い。
だからどんどん、否定的な言葉が出て来ます。
「まず否定する」と言った方がいいかもしれません。
いや、「ダメ出ししてやってる」くらいは思っている気がする。
料理の「辛い」とか「熱い」とか、これは良い面でもあるわけですよね。
なにもソフトクリームに間違ってハバネロ大量に間違って練りこんじゃった!とかじゃないんだし。辛いからこそ美味い、熱いうちに召し上がれ、っていう料理はあるし。
なんでもまず「あっ、美味しい!」って言ってから感想に入っていけよ、と思います。
これですね。
私たちは一般に「自分はたいていにおいて、的確な批評ができる、そう、自分の感覚に忠実に従えば。」と思い込んでいるフシがあって、それらの主張をうまく引っ込めたり出し合ったりして、他人とぶつかり合わないように調整しながら生きているわけです。
それらをあまり考慮せず「自分の意見=正しい意見 ∵ 自分の主張だから」を毎日疑いなく続けて、とうぜん他人とぶつかることもあったりして、それをひっこめるか押し通すかは、正しい・正しくないではなく、相手との力関係で決めている。
懐かしいですね、「 ∵ 」は「なぜならば」と読んでください。
たとえぶつかったとしても、「ぶつかってもかまわない相手」だと、そのまま平気で放置したりする。
つまり「あんな自分よりレベルの低いものは、正論で踏みつければいいのだ」という態度。いや、その正論ってただのあなたの感情だから。
しまいには「合ってようが間違ってようが私はそう思ったってことだから!!」で切り抜けようとするんですから怖い。エビデンスは私、っていうやつ。
こんな会話、よくある。
「あの店、たいしたことないですね。ぜんぜんダメ」と、ある人がとある車中で、バシッッと「★一つ宣言」をかました。
車内はああ…おお…と微妙な空気に。
なぜかというとその店は、ほかの乗員3名がつい2日ほど前に「あそこの店、いいよね〜」と語り合っていたお店だったからです。
そこに「調整役」の達人がいると「ほう、たとえばどんなところがダメだったんですか」と情報収集に乗り出してくれ、緩和策を探そうとしてくれます。
すると喜んで「自分の経験と情報と分析力を披露できる!」と勘違いしてどんどん欠点だと感じる部分を論(あげつら)います。
ちゃんとした人は、そこで「なるほど、この(レベルの)人にとっては、あれは許せないことの範疇に入るのだな。たまたまあまり良くない店員さんのいるときに当たったのかも…」などと、その欠点を時限的に考えたりして、全員の悪意が膨らまないように処理できるんですよね。
欠点をどんどん積んでいって悪印象を巨大化させても、自分にはなんのプラスもないことが、わかっているから。
そう、そんな欠点や悪い印象なんて、指摘したって別にえらくもなんともないんですよ。
それが全部オマエにできるならオマエが店やって繁盛させろ、っていうかその店、オマエがいくらクサしても、欠点を出しても、ちゃんと繁盛してるしな!…というのをぐっと飲み込んで、ほかの人は「批評家」の暴言に耐えている。
そういうの、よくあります。
もし、欠点を論って大声で言うなら、そこで笑えないといけません。
反対者ですら笑うような状況を言葉の羅列で作れるなら、言う意味はあります。
つまり「批評の内容はともかく、お前の怒るその様子はおもしろいよ!」という感じになればいい。上手な道化役、ですね。
そうやれば、自分の意見が通る可能性はある。
ことほど左様に、否定的な言葉はよくない、と言われます。
なんでダメなのか。
単純に、「時間がもったいない」からじゃないかと思うんです。
なんらかの改善に向かうためのチェック項目、を出していくという作業でもない限り、自分にとってもマイナスなはずの「否定的な言葉」をどんどん口に出すって、秒数にすれば0.5秒もかからないかも知れません。
でもこれ、1日に、言う人は100回くらい言うでしょう?すると50秒。
1日に1分近く、不平不満、マイナスなことを言ってることになる。居酒屋で上司の愚痴を…なんてことになると、90分くらい言い続ける。1日1分だって、1年経つと365分です。
1年に6時間以上、「不平不満、愚痴、マイナスイメージのためだけに」使用しているということになる。10年で60時間。
10年に一度、2泊3日で「愚痴オンリー旅行」をしてるようなものです。
悪い言葉を使うと悪いことが起こるよ!という恐ろしいことでなくても、やっぱり「そんなことのために時間を割いてる感」がアホくさいなぁ、と思う次第です。
マイナスにマイナスをかけるとプラスになる、という理屈(数学)がありますが、「ダメ方向の言葉」はそれだけでは通常、意味が固定してしまっているものなので、レンガを積むように「否定が高くなって行くだけ」で、なかなか肯定には転じません。
もちろん、最初から「この否定の言葉にはプラスの意味もある」と、別の意味を内含している場合は別、です。
我々は言葉でしかものを考えられないので、言葉はなによりも大切です。
その言葉から複数の意味や空気感、時代感を読み取れない限り、やはり言葉通りそのままの意味が浸透します。
「この否定的な言葉を解釈し、意味付けを新しくし、今後に利用する」という再ユニット化ができない限り、肯定に転じさせるのは難しい。
ほら、イジメられてた時に投げつけられた言葉が、のちに「あ、これは自分の、大切にすべき個性だったんだ!」と気づける、とかそういうイメージですね。
上の方に書いた、常に文句と罵倒語を口から出るにまかせてしゃべっているような人らは、たいてい言葉に対する意味付けユニットは、生まれた時からついてるデフォルトの1個しか持っていないので、どんどん悪い言葉を積んでいっちゃう。
しかもまき散らす方向で。
ははは、と受け流すスキルと、これ自分ならどう言い換えるかな…というプラクティスが今後は絶対に必要です。
まずは「悪い感情というのはほうっておくと湧いてくるものなのだな!」という自覚を持つことが、大切かも知れませんね。
本日は以上です。