文化にも良し悪しがあるかもしれない
移民は難民とは違う。
移民は自らの意思によって、生まれ育ったのとは違う地域に移り住み、その国の国民となる人のことをいう。
それを受け容れることを国として制定した国家でのみ、それが可能になる。
移民は、いつまで移民なのだろう。
その国に別の国からやってきた、という家族の歴史は誇りとして消えないとしても4代目、5代目となり100年を経過し150年を過ぎても、その家族は「移民系」のレッテルを貼られたままなのだろうか。
どこまで同化することを義務づければ移民は、その国の国民として完全に同等の扱いを受けられるのかを少し想像してみるだけで「ああ、移民、無理かも…」と考えてしまうポイントがいくつもでてくる。
日本に移民が入ってきたら?
1億3千万人の日本に、1億4千万人の移民がやってきて、その人たちのほとんどすべてがイスラム教徒だったとしたら、その国は「イスラムの国である」と国際的に説明されても否定はできない。左側通行や性別による雇用機会の均等など、法律で整備できることはたくさんあるが、「箸を使う」や「祈りの時間」までもを「日本と同じに」と強制することは難しそうだ。日本人も、交際の便宜上、イスラム教に合わせた方が楽、というケースも多々出てくるだろう。
だからと言ってそうなるのを防ぐため(現在の国の感じを維持するため)、「イスラム教徒の移民は禁ずる」と宣言することはできなさそうだ。「イスラム教徒・○千人、キリスト教徒・○千人」などと、信じる宗教で人数を制限することにも正当性は見つけられない。
2050年の日本の人口は9,500万人ていどになり、平均寿命・健康寿命が伸びたことにより生産年齢人口(15〜64歳)は3,500万人くらいになるらしい。現在のような社会インフラは余程の効率化がないと維持できないまま、2100年には日本の人口は6,000万人まで減ってしまう。
その6,000万人のうち、生産年齢人口の割合はいったいどれくらいなのだろうか。
人口が半分になるということは、単純に考えれば「お店に並ぶ商品は半分でいい」ということを指す。
それらを流通させる搬送車も半分でいい。
「道路を走る車の数が1/2になる。渋滞はしないが事故したら呼ぶ警官も救急隊員も、半分しかいない」ということを指す。「新幹線の運行数も半分」である。
6,000万人になった人々が現在同様の豊かさを享受するには「1億2千万人相当の状態」を維持する必要がある。とりわけ生産年齢人口は、せめて8,000万人くらいいないとキツい。
移民によって、それは成し遂げられる可能性は高いと思う。
移民賛成派の人は全世界共通しておそらくそれを賛成の理由にしているのだろう。
上に出てきた例そのままを当てはめれば「6,000万人の日本人+6,000万人のイスラム教徒」だ。
お寺の数は当然、今の半分以下になる。
現在は77,000寺以上あり、それでも後継者不在で無住寺になっている寺院が増えている。
神社の数はもっと多い。80,000社以上ある。
管理する人がいなくなり破却され解体された寺社は、建て替えられイスラム教のモスクになり全国各地にその数が格段に増え、イスラム式の食事や作法が当たり前になる。そうなったらそれはもう「イスラム教国家」と呼んで差し支えなし、ということになるだろう。インドネシアはヒンドゥー教、ならびに仏教の影響を強く受けた王国がいくつもあった地域だったが、やがてイスラム国家になり、現在では2億人の人口のうち9割がイスラム教徒だ。
彼の国は民主国家になってから法的に移民を認めイスラム教徒がやってきたというわけではないが、長い歴史を持つ地域では、その国がいつしかまったく違う宗教の国に変わってしまうというのもよくあることだし、地球規模でモノを考えられる人にとっては「そんなのどうってことない」ことだったりもする。
差別は永久に不滅か
そして現在、「人種差別」によって移民や行動を制限し、それを暴力で進めることはもうなくなった。
人種による優劣(DNAや遺伝子による差異)にはなんの根拠もないことがもう、科学的に証明されてしまったのだ。
一生懸命信じている人も多かった、富の独占の理由になっていた「人種による優劣」は、完全に嘘だったのである。
そうなると今度は「文化」による差別をするしかなくなり、現在はそれがどうやら主流になっている。
そしてその差別は「権利でもある」という見方さえされる。
「文化」には「習慣」や「宗教」もとうぜん含まれる。
論点を明確にするには、移民を三つの基本的な条件を伴う取り決めと見なすといいかも知れない。
条件1 受け容れ国は移民を入国させる。
条件2 移民はその見返りとして、たとえ自分の伝統的な規範や価値観の一部を捨てることになっても、受け入れ国の少なくとも基本的規範と価値観だけは採用する。
条件3 移民は十分同化したら、やがて受け容れ国の、対等で歴とした成員となる。「彼ら」は「私たち」になる。これら三つの条件は、それぞれの条件の厳密な意味に関する三つの別個の議論につながる。そして、これらの条件を満たすことに通ての、さらにもう一つの別個の議論も出てくる。人々は、移民の是非を論じるときに、この四つの議論を混同することが多く、本当は何を論じているのか誰も理解できていない状態に陥る。(p.189)
移民を、自分の国に認めるか。
たいてい日本では「日本に受け容れるのかどうか」という視点で移民問題が語られるが、「自分が移民になる」ならどうするかという視点もかなり大切なのではないかと思う。できれば文化的に今より上位の国に移住したいと思うし(それはどこなんだ)、だけどそれは「大金持ちが生まれ故郷のアイデンティティを完全に維持しながら現地の労働者を使役しつつ安穏と逃げる用意を十全にした状態で暮らす」のとは異なる、自分と家族を、まったく未知の地域に同化させていく作業として、である。
優しさとおもてなしではどうにもならない、まず「文化」による差別をたっぷり受けるところから始まる移民を、いずれ24時間のうち毎日3時間くらいは考えなければいけない時が来る。
ついに次回は第3部、「絶望と希望」。
10章、「テロ」。