左大臣 純米酒 720ml 【群馬県 大利根酒造】さだいじん 四合瓶
現代において、ことに日本において、「あの人は“右”らしいよ」と囁かれたら、それは「右翼的な思想を持っている」ということを指す。
右翼=保守
左翼=リベラル
という式はそもそもおかしいとも思うが「右」「左」はそれぞれ「翼」を省略した、思想信条を表す文字として認識されがちだ。
SNSなどの簡易言論空間においては、そこから派生した「ネトウヨ」や「パヨク」などの別称(蔑称)が飛び交い、それぞれの主張はそれぞれ、「ぶっ叩くべきあからさまに間違った意見」とのみ認識される罵倒対象とされているかのようである。
右と左はどちらがえらいのか
朝廷から任命される官位・役職には、序列がある。
まず冠位。
一番えらいのは「正一位」。
その次が「従一位」。
その次が「正二位」。
次が「従二位」。
二位より一位がえらいのはスポーツの世界ですら当たり前だとして、貴族社会では一、二、三の数字について、それぞれ「正」と「従」がある。
「従」は今なら「副」という感じか。
これが言わば、人間としての地位。
現在は通常、お稲荷さんとか、神様の位として耳にすることしかないが。
数字によって、できる事が違う(三位にならないと政所を開けない、など)
で、役職。
山城守とか武蔵守とか、役職。
人臣位(じんしんくらい)を極(きわ)める、なんていう言葉があるように、帝は別格で、人として朝臣(ちょうしん・あそん)として、最高位に登ったらそれはもう天子以外ではこの世の頂点、っていう状態になれるのだ。
官位だけで役職なし、というパターンもある(散位という)。
大臣には、左大臣と右大臣がある。
大将には、左大将と右大将がある。
中将には、左中将と右中将がある。
どっちが偉いんでしょう???
左大臣だ。
左の方が偉い。
役職として、右→左は昇進。
左→右なら降格だ。
この左右は、将棋の駒のように、左右同格ではないのだ。
あきらかに、はっきりと、厳然と、わかりやすく上下関係だったりするようだ。
左と言っても、それは「帝から見て左」。
帝の左側に座ることが許されるから左大臣、っていう感じ。
では、なぜ左の方が偉いのだろう。
単なる理屈と言えば理屈なんだけれども。
まず、「君子は南面す」という言葉がある。
これは、「皇帝は南を向いて座る」という意味だ。
太陽に向かって座る、ということを言う。
南に向かっている皇帝にとって、左方向は「東」だから、「陽が沈む方より昇る側の方が偉い」ということなのだそうだ。
なんだそりゃっていう感じもするけれど、古代の中国では方位はかなり大事な基準であるわけで、陰陽道も相まってそれはもう「科学的根拠」と呼んで良いものだったのだろう。
北条義時はどっちだったか
前置きが長くなったが、1218(健保6)年、鎌倉幕府三代将軍・源実朝はなんと「右大臣」に昇進。
まさに「人臣位(じんしんくらい)を極(きわ)める」地位に昇った。
官位を与えた後鳥羽上皇が「官打ち」をしようとしたという説も後世、出てきてしまうくらいの、貴族界も総出で烏帽子飛ばしてひっくり返るほどの、びっくり大出世(「官打ち」とは、身に余るほどの位を授かってしまうと逆に不幸になってしまう呪詛のこと)。
翌1219(健保7。4月には承久に改元)年1月に、右大臣拝賀の儀が執り行われ、式典の最中に源実朝は、なんと惨たらしく、殺されてしまう。
鶴岡八幡宮で行われた式典に向かう行列は、とにかく格式ばった豪奢なものでした。
居飼・舎人などの下級役人、
その後ろに10人の殿上人(左右2列)、
その後ろに前駆20人(左右2列)、
官人2人、
将軍の乗った牛車、
随兵10人(左右2列)、
雑色20人、
検非違使1人、
御調度掛1人、
下臈の御随身6人、
公卿5人(坊門忠信・西園寺実氏・藤原国道・平光盛・難波宗長)、
随兵30人(左右2列)、
路次随兵1,000騎
というくらいのすごい行列だった。
北条義時は将軍(官位は正二位)源実朝の牛車の直前に並ぶ、「前駆20人」の最後尾にいたようです。
この順番も位階に従い、それはそれは厳格に決まっているようで、北条義時は「最後尾の右側」。
彼のこの時点での官位は「従四位下」。
官位にはそれぞれ「正」と「従」があると書いたが、まだそこに「上」と「下」の区別がある。
「右」にいた北条義時が「従四位下」。
その「左」にいる「大内惟義(おおうちこれよし)」は、左にいるんだからそれ以上でないとおかしい。
「正四位下」だったようですね。
年齢は北条義時よりかなり上のはずですが将軍暗殺事件の後、大内惟義についてはよくわかっていない。翌年くらいに死んでる。
この二人の左右、将軍が少し前に「左大将」に就任した際の行列の時とは、位置が逆になっていた。
もしかすると将軍・実朝は、「人臣位(じんしんくらい)を極(きわ)める」これ以上ない晴れやかな式典の行列に限って、古老とも言える源頼朝以来の重臣に、花を持たせたのかも知れない。最後だから官位が上がるように朝廷に働きかけてたんだろうか。もしそうでないとしたら(「正四位下」でなかったとしたら)、北条義時の左側にいるのは不自然だ。
でも不思議なことに、北条義時も、モメてない。
この日起こるのは天下の将軍が、源氏の棟梁が、晴れやかで荘厳な格式高い儀式の中で豪快に暗殺されてしまうというショッキングすぎる事件だが、犯行グループが狙いすましたのは将軍その人だけでなく、実はもう一人いた。
「源仲章(みなもとのなかあきら)」も殺されました。
なぜ、文人であり学者であり、将軍の後継者争いにはなんの関係もない「源仲章」が、殺されなければならなかったのだろう。
ナカアキラくんには悪いけど、この人が殺されたって、幕府の体制には変化がない。
いわば「将軍の座を狙う犯人」が殺す必要のない人だ。
だけど、狙いすましてブチ殺されています。
なんとも不思議なことに、この日の儀式で、「源仲章(ちなみに従四位上)」が負っていた役は、当日、急に、
なんとも不思議なことに、
北条義時が「代わってくれ」と言い出し、代わってあげた役だったのだ。
つまり
なんとも不思議なことに、
急に「体調を崩して」退席した北条義時に間違われて、彼は殺されてしまったということになる。
将軍が殺されて、その流れで、狙いうちで巻き添えを食った。
つまり犯行グループは「将軍と北条義時」を狙っていた…。
源氏の将軍の血統がダイレクトに絶えてしまうこの凄惨で激烈な事件は、その後、北条家が執権となって鎌倉幕府を独裁していくきっかけになるわけだから、暗殺に「北条義時黒幕説」が出るのも当然、だとは思う。
もしかするとあの、行列で、左右をモメずに譲ったというのも「どうせ途中で退席するから、序列なんぞはどうでもいい」と、北条義時は思っていたのかも知れない。
「右より左の方が偉い」をその時々で柔軟に使い分けたのは、げに恐ろしい計画があったからだ…と考えると、行列にケチがつかないように印象を薄くした策略に見えてくる。恐るべしヨシトキ。
いや、だけど若い実朝を盛り立て、その後、京都から親王を迎えて将軍に据えるという「幕府存続・北条繁栄同時計画」を推し進めていたのも彼なのだ。安易に、黒幕などとは言い切れない。
ちなみに、役所や企業で、降格されたり閑職に回されたりすることを「左遷」と言うが、あれは失態を犯した人が「すいません!」と謝罪する音を簡略した「さーせん!」が元になっている、などということはなく、縦書きで書かれる文章は右から順に進んでいくので、その、行が移っていく様と、降格される(あるいは一段下げて書かれる)ことから来るのだそうだ。