新皇・平将門ッッ!

平将門の首は本当にここにあるのか?(画像26・動画1)

平将門について、ゆる〜く、なが〜く追いかけている私。

※関連記事は、一番下に並べてあります。

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平将門は、平安時代中期、関東で朝廷に対する反乱行為を起こし、「新皇」を名乗ったとも言われる豪の者。坂東武者の頂点。
平一族の内紛から派生した戦いにおいて、荘園制度などの地方政治を武力をもって改革しようとしたけれど、けっきょく「乱」として鎮圧されてしまいます。
反乱鎮圧軍の主将は従兄弟・平貞盛(たいらのさだもり)。
将門討伐のヒーローは俵藤太秀郷(たわらのとうたひでさと。ゴッドサイダー)。

当時の日本は、京都で公的な役所を牛耳る高級貴族が、地方に自分の手下となる代官を派遣し、なかば私有地として「荘園」で私腹を肥やしていた時代。その用心棒と馬の世話、くらいの役割しか持たされていなかった「武士」という階級は、やがて天下を取ることになるのですが、まだ平安の世ではそんなこと、考えもつかない時代。田舎の武士は京都へ師弟を遣わし、地方での官職を得られるかどうか、賄賂を送ってただただ平身低頭、うかがっているような状況。
貴族の屋敷には、ご機嫌伺いの行列ができていたそうです。

そんな中、地方の困窮を目の当たりにした平将門は、あまりにひどい親戚のおっさんとの争いに武力で勝った勢いで、地方政治改革を断行してしまうのです。
ほぼ革命。
できた作物のほとんどを京都への年貢として取られ、残りを地方に派遣されてきた代官の私腹として奪われる地方民。

武士は、台頭すべくして出てきた階級、と言っていいでしょう。

平将門はかなり頑張ったのですけれど、時代的に、感覚的に、そんなことができると思っていたのは将門だけで、周りの武士たちは、いや全国のほとんどの武士たちは、貴族、ましてや朝廷に逆らうなどはゼウスに矢を放つようなもの、上下が逆さまになることはあり得ない。米櫃ならばコメがこぼれる。水瓶ならば水が落ちる。転覆などはあり得ない。全国規模で言えば、反乱鎮圧軍に加担した方が得だ、という計算が成り立ってしまったのですね。

もし、平将門の乱(天慶の乱)が成功して、乱ではなく改革とか維新とか呼ばれるような展開になっていたら、関東、それも茨城県に900年代前半に幕府が置かれて武士政権が成立し、そうなると源氏はもう傍流も傍流に押しやられてしまったでしょうから頼朝も義経もどうなっていたことやら。のび太さんエッチのしずかちゃんも名字は「平」になっていたかもしれません。そうするとこのカニは「源氏ガニ」と呼ばれていたのか。いや、そうとは限らぬけれども…。

退治されてしまった平将門は、その首を斬られ、さらし首にされた。

一番有名な場所といえば、やはり東京の「将門塚」でしょう。

朝廷に逆らったかどで討たれ、首を京都・七条の河原に晒されたものの、「わが体はどこじゃ、もう一度、一戦を交えん!!」という意味で「躯つけて一戦させん!俺の胴はどこだ!」と叫んだというのです。首が、ですよ。

その後、白く光ってはるか東へ飛び去ったのだそうです。動力は何。エンジンは怨念。その辺の手ごろな首なし死体を探した方が合理的なのに。同じ平の一族の身体なら、よくなじむはず。

古来最初の獄門、「さらし首第一号」としても平将門は有名、と巷間言われます。
だから将門公の無念の首が、京に運ばれたのは周知の事実…だと思いきや、ちょっと待ってください。

京都から、坂東へ飛行して戻る途中だったであろうところ、芝崎(今の東京都千代田区大手町一丁目)で落ち、その場所に祀られている。

 

別の場所にも首が!?

静岡県掛川(かけがわ)市にその名も「十九首」という地名があります。

ここに、「平将門と、郎党・18人の首」が祀られているのです。

え、京都に行ったんじゃないの??
で、東京へ飛んできたんじゃないの?

先ほど出てきたゴッドサイダー・俵藤太秀郷(たわらのとうたひでさと)は、将門らの首を持って、首実検にかけるべく、京都へ運んでおりました。
逆に、乱の収束・平定を聞きつけた朝廷は、メッセンジャーでもある勅使(ちょくし)を、関東に向かわせておりました。

両者は掛川で出くわしました。
勅使は、どんなメッセージを運んでいたか。
「京・朝廷に逆らった穢らわしい存在であるそいつらの首、京都へ持って行くことは許されない。そんなものはどっかへ捨ててしまえ」。

これを聞いた俵藤太秀郷は、それはあんまりである。せめてこの場所で葬らせていただきたい、ということで19の首を、丁重に葬って、東光寺というお寺に納めた。

この首実験の時に、ここを流れる川に首をかけたからこの地を「掛川」と呼ぶようになったとも言います。
実際は、流れる逆川(さかがわ)の流れが強く、水害が出まくっていた昔、水勢で堤が欠ける(決壊する)ことから、「かけがわ」(欠川→掛川)になった、とも。

 

行ってまいりました。

ほら、書いてある。「十九首塚」って。
特にこの季節、地元の人はおそらく「何もない」と断言するであろう、田舎です。ちょっと行けばいろいろお店もたくさんありましたけど。

誰も歩いてません。
観光客、とかそういうレベルではなく。

路地を入っていくと…

公園になっております。
この奥が、東光寺。

「十九首花の会」の皆さんによる手厚い花壇運営が見て取れます。
奥が、その「塚」です。

由来ドーーーン。

十九首塚(じゅうくしょづか)の由来

()内、※は当ブログによる

ここは「平将門」の首級(※みしるし)を祀る十九首塚です。
人皇六十一代朱雀天皇の御代、関東下総の国(茨城県)相馬郡猿島に、桓武天皇の五代の孫で、相馬小太郎将門という武将がおりました。
承平五年(西暦九三五年)、一族の内訌(※ないこう。内輪もめ)を契機として、将門は、常陸を始め関東一円を占拠、自ら新皇と称し律令国家に対抗する国家を企てた。
この叛乱に、朝廷から大規模な将門征討が興され、平貞盛、藤原秀郷(※ゴッドサイダー)らにより、将門は天慶三年(西暦九四〇年)二月十四日滅ぼされました(天慶の乱)。秀郷(※ゴッドサイダー)は将門をはじめ一門の家臣十九人の首級(※みしるし)を持って京に上る途中掛川の宿まで来ました。一方、京からは検視の勅使が派遣されこの地(現在の十九首町)の小川(東光寺南血洗川)で首を洗い、橋に架け検視を受けました。首実検の後、秀郷(※ゴッドサイダー)は『将門は逆臣なりとも、名門の出である。その罪重しといえども、今や滅びて亡し。その死屍に鞭打つは礼に非ず。』と十九の首を別々に埋葬し、懇(※ねんご)ろに供養しました。時は天慶三年八月15日でありました。
 この後、歳月の流れと土地開発等の為、移動し現在に移りました。ここ十九首塚には、葬られた十九人の詳細な名前が残されています。
地名の由来も十九の首塚があったところから十九首町と呼ぶようになりました。
町民は、首塚を町の守り神として春秋二季の彼岸と八月十五日の命日には供養祭を行い、今日まで続いております。

平成十四年三月

 

首塚ドーーーン

真ん中が平将門ですね。
周りに郎党・18人。

01、相馬小太郎将門(本人)
02、御厨三郎将頼(みくりやさぶろうよりまさ。弟)
03、大葦原四郎将平(おおあしはらしろうまさひら。弟)
04、大葦原五郎将為(おおあしはらしろうまさため。弟)
05、大葦原六郎将武(おおあしはらしろうまさたけ。弟)

ここまでが一族。
「平(たいらの)」って言い出したらみんな平なので、別称が書いてあるのですね。

01、鷲沼庄司光則
02、武藤五郎貞世
03、鷲沼太郎光武
04、堀江入道周金
05、御厨別当多治経明
06、御厨別当文屋好兼
07、隅田忠次直文
08、東三郎氏敦
09、隅田九郎将貞
10、藤原玄茂
11、藤原玄明
12、大須賀平内時茂
13、長橋七郎保時
14、坂上逐高

以上が、将門に付き従っていた人たち(郎党)。

中には、将門から授けられた「常陸介」という肩書きのあった藤原玄茂(ふじわらのはるもち)など、まさに朝廷からすれば「将門と同罪」つまり「最高刑すなわち打首」に値する人たち。

平将門らは「朝廷=天皇にたてついた」という罪で、明治維新以降、第二次世界大戦終了まで、逆賊扱いにされていました。
その期間は、神田明神の祭神からも外されていたそうです。この辺りはどうなっていたんでしょうね。

ちゃんとお供物もしてあるし、見事に祀られています。よかったね。

かたわらにはしっかりとした銘碑があり…

 

その横に、「芳名帳BOX」がありました。

◯資料ご自由にどうぞ。
◯記念に芳名帳に氏名を、又、その後にご感想でもその他でも
(日本各地からおいで下さってます)

とのこと。

ほんとに?

 

 

ほんまや。

入ってました。

ノートを開くと。
うおお、本当に書いてある…!
いや、これ、清書されてるぞ…??
好き勝手にスペースを使って書かれたものを、世話役の方がまとめて書き写してくれているのですね。
しばらく読みましたが、ほんとに全国からたくさんの来てる。
私も記して来ましたので、もしこの地に行かれることがあれば、私の名前を探してみてください。

 

この公園、あの階段を上がると、川です。

 

階段へ近づこうとしたら、右手にこんなものが。

「おにわ ふみいし ミニ」。
し、資生堂が作ってる??

ミニ、っていうことはビッグとかジャンボとかナノとかもあるのか?Proもあったりするのかな。

サイズ感などはさておき、この資生堂開発という会社による屋外健康施設、掛川市の「徳育保健センター」とか、複数の場所にあるみたいですね。「おにわふみいし」は、掛川民にとっては耳馴染みのあるものなんでしょうね。

「くつ」も「ぬいで」もひらがななのに、「揉み」という難易度だけはキープしてたり、「START」だけ毅然と英語なところとか、わりと好きです。

殺傷度(?)の違う石がコースとなって待ち構えます。
私は1秒も参加しませんでした。

 

昇った階段からの公園の眺め。奥が「十九首塚」です。振り返ると…

川があり、橋があります。

なんと橋の名前は、「将門橋(まさかどばし)」です。
川の名前は「逆川(さかがわ)」
まーーーー誰も歩いてませんね。静か。いいんですけど。

そう言えば、首実験をするために、首を洗ったと言われていた川の名前は「南血洗川」でしたよね。

おそらく、逆川の支流、東光寺の南側に流れるところ、なんでしょう。それにしてもなんでそんな名前をつけるんですかねチアライガワって。血を洗うのに北も南もないだろう。

再度、十九首塚の写真をば。
思いっきり私の指が写ってますね。
奥は民家です。

綺麗にお掃除もされているし、地域でしっかり祀られ、守られている様子がわかります。
大切にされている「十九首」。
全国から人が訪れる「十九首」。

 

上に書き写しました「由来」に関しても、どう考えたって「将門塚」より、こちらの方が信憑性あるでしょう。

京都から!?
首が飛んで!?
落ちた????
マジで言ってんの??

それに対する「祟りだ」「怨霊だ」と、現代人が掘ったり埋めたりする都合の過程で起こった銭ゲバ事故を、荒唐無稽な怨霊化で身勝手に怖がってるだけなんじゃないの???東京の将門塚って。

どう考えても、「空を飛んで落ちた」よりは、こちらを手厚く祀るべきでしょう。

「ヘッド部分だけが500kmを飛んできた(ジェット機でも50分くらいかかるよ)」と、
「乱の直後、勅使と出会って葬らざるを得なくなった」と、
どっちを信じるんです???

その意味では、オカルトとして歴史の扱いはすごく雑だし、関東総鎮守府として祀られたのは別に「首塚」がメインの理由ではなかったんじゃないの、という気がしてきます。

 

なんとお隣、浜松市も、ちゃんと観光地として紹介してくれてますよ。

十九首塚(じゅうくしゅづか)

井伊直虎の許嫁であった井伊直親が殺害された場所と伝えられる十九首塚。現在は、平将門の首塚として祀られている。

今から450年程前の戦国時代後半、掛川城下において、とある武将が殺害される事件が起きました。その武将の名は井伊直親。井伊直虎の許嫁で、後に徳川幕府開幕の礎となった徳川四天王の一人、井伊直政の父親です。

https://www.city.hamamatsu.shizuoka.jp/miryoku/iike/kakegawa/jyukusyu.html

 

現在は!!!????

ンンンン!???

どういうこと????
この場所、実はあの徳川四天王、井伊直政の父・直親(なおちか)が暗殺された場所であり、そもそもこの塚がは「直親の塚」だったというんです。

確かに「由来」には

この後、歳月の流れと土地開発等の為、移動し現在に移りました。

と書いてあった…けど…。

浜松市としては、ここは「井伊直親の塚」である!
現在はッ!
平将門に譲ってはいるが、現在は、であって、将来は!未来は…いや近未来にはッッ!!!

捲土重来ッッ!!!臥薪嘗胆ンンンッッ!!!

っていうことなんでしょうか…。

直親の暗殺は永禄5年(1563年)。
なんと620年以上経って、平氏の源流(桓武平氏)である将門が、藤原氏の末裔(という説がある)・井伊の当主に徒(あだ)なしたのか…。
しかしその子・直政は源氏の棟梁となった徳川家康の将となってるわけだから…よくわからん。

だけど「将門/直親どっちでもかまわない」っていうことはないでしょうし、「たまたま両方」だったとしても公園内には井伊の「イ」の字もありませんでしたけどね…見落としたのかな…。

 

あんなに一生懸命見ていた「おんな城主 直虎」ですが、十二話の最後「直虎紀行」において、たしか、紹介されていました。

おんな城主 直虎第十二回「おんな城主 直虎」

でも、番組内では「直親が殺されたとされている」という表現に止めていました。
19個の首は、直親と井伊家の家臣だったということか…彼らの名前は残っていないのか…?
…というか実は、直親はその実在すら危ぶまれている存在なのだそうな…なんだそりゃ…。

NHK大河ドラマ「おんな城主 直虎」の放映時には、十九首塚のところに、大河ドラマののぼりが立てられていたそうですよ。のぼりだけでは、無理がある気がするが。

 

将門の首はどこにある??

十九首塚は、「平将門&弟らwith仲間」説と「井伊直親」説がバッティングしております(現在、将門有利)。

だけどこうなると、「将門の首」は、「京都から飛ぶ」くらいの勢いを持っているのですから、可能性は、別の場所にも見出すことができるはず…。

京都市下京区新釜座町に、「天慶年間平将門ノ首ヲ晒シタ所也」と由緒書きされた、小さな祠があるそうです。

または、岐阜県大垣市にある「御首(みくび)神社」
京都から関東平野へ怨念ジェットで立ち戻ろうと飛んでいる将門ヘッドが、南宮大社(岐阜県不破郡垂井町)に祀られている祭神・隼人神が矢を放ち、見事に射落した。落ちた場所を「御首(みくび)神社」として祀った…と。

どれが本当なんだ…!?

またこの2つ(京都・岐阜)、いつか行きます。
地味にライフワーク的な。
なぜか惹かれる平将門。

「風と雲と虹と(1976年)」以来、また大河ドラマにならないかな…。

 

そうそう、せっかく静岡を訪れたので、「さわやか」に行ってまいりました。

これがあの「さわやか」か…。

30分待ちでした。

 

 

 

帰りは突然山中湖に!
雪残ってました。

 

 

 

 

究極の怨霊、その続き。

平将門を祀る場所、へ来た。(写真40枚)

実は行ってた「平将門公像」(画像23枚)

 

 

 

 







-新皇・平将門ッッ!
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実は行ってた「平将門公像」(画像23枚)

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平将門を祀る場所、へ来た。(写真40枚)

とにかく「最強の武将にも弱点があり、かなりの偶然さえなければ、負けることはなかったんだ!」という気持ちが込められているような、そんな気がしますね。

究極の怨霊、その続き。

そしてやはり問題は、「なぜ日本人は、そう考えるのか」なんですよ。

ここにも…?将門さんの首級はここにあるin京都(画像12・動画1)

死後、しばらくはかなり適当な扱いをされてたんでしょうし、伝説化するにはじゅうぶんな時間を経て顕彰しなおされたら、もはや収集つかない名所メーカーになっていた…という。偉大です。

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