「機動戦士ガンダム 鉄血のオルフェンズ」第45話『これが最後なら』先行カット紹介です。マクギリスと共にアリアンロッド艦隊と対峙する鉄華団。オルガの言葉どおり「あと、一回」となるか?(制作P) #g_tekketsu pic.twitter.com/OFq0O9KRij
— 機動戦士ガンダム 鉄血のオルフェンズ (@g_tekketsu) February 24, 2017
とうとう「最後」の戦いに突入しましたね。
世界の歴史が示す通り、「最後」というのは「死んだ者にとって最後」である場合がほとんどですよね。
「最後、はい和平、それからずーっと恒久に平和」なんていうのは、全世界を見ても江戸時代だけなんじゃないでしょうか。
でもそれもまた、武力による天下統一(つまり敵は皆殺す)が成し遂げたことであったわけで、クーデターが成功するとその成り立ちを正当化しなければならなくなり、それはつまり「暴力の正当性」を維持しなければならないということになります。
そうなると「クーデターで権力を奪取した者は、常にクーデターの恐怖に怯える」ということになり、それを抑えるためには圧政・暴政にならざるを得ない。
マクギリスがいくらブロンドの貴公子でも、クーデターが完全に成功しても、そこはどうやったって免れ得ない宿命です。
しかし禁忌兵器として封印されていた「ダインスレイヴ」をバカスカ撃ってくる敵。
この兵器については前にも書いた気がしますが、これに対抗してノルバ・シノが死んでしまいます。
命を賭した「ギャラクシーキャノン」も、的を外してしまいます。
絶望的な状況に徐々に追い込まれる鉄華団。
これまた何度も書いてると思うんですが、我らが鉄華団メンバーの死は悲しい。
でも、アリアンロッド艦隊とか、他の戦死なんかはバルバトスとかにけちょん!と一発で爆破させられたりしてゴミムシみたいに殺されてるんですよ。同じ戦士だったのに。
強いとか弱いとかじゃなく、戦争だから。
でもそこには1秒の感傷もわかない。
私はこうして、ほんの少しだけ感傷してるわけですけど、普通は「シノーーー!」とか言いながら、名もなき敵の死は、もう「箱を片付けた」みたいな感覚で命を無視している。
物語への感情移入というのは、それくらいに恐ろしいものです。
ストーリーは、命の平等や権利の公平など、大きな信義とされる概念すらも無視させる効力を持っているということですね。
「どうやったら戦争を止めることができるのか」や「根本的な問題はどのあたりにあるのか」を探るのではなく「よくもやりやがったな」が最優先する。
戦争もの・戦いもののストーリーで、割と重要な人物が死んでしまうのも、ストーリーに観客を巻き込むためです。
そして、怒りを共有するのが最も感情移入させるには早い。
いろんな物語を見ていると、「怒れ!」という信号(それは誰かが死ぬこと)が出ると、確かに物語は「復讐」とか「戦い」とか「修行」とか「諦め」へ、グイッッと進むし、観ているものは引っ張られて行きます。
「怒信号」は、本当は「不正」とか「不義」とか「裏切り」でも起こるんだけど、やっぱり時間短縮するには「死なせる」のが一番です。
「怒信号」はお話によっては「悲信号」でもあったりして、日本テレビの「愛は地球を救う」で毎年やってるドラマの主題は、「まず、難病であること」からスタートしますよね。
やっぱり「病気」とか「死」を扱うと、「怒悲信号」を発射しやすいので観ている人は引き込まれてしまう、ってことでしょうね。
ほんとに最後なら。
今回のタイトル「これが最後なら」、「なら」がついてるところはやはり、悲しい結末を予想させます。
マクギリスが乗る伝説の機体、ガンダム・バエルは、色彩があっさりしてますね。
バルバトスと何が違うかよく見ると…
なるほど、「差し色」としての「赤」が無いんですね。
これを入れると急にちょっと「主人公感」が出る。勝手に、バエルに赤い色を足してみましょう。
…あんまり変わりませんかね。
そう考えると、バルバトスルプスレクスはやけに派手ですね。
目立ちすぎでしょう。
こういう塗装を、いろいろ考えて塗り分けるっていうのが、ガンプラの楽しみなのかもしれません。