あれを見て「破廉恥だ!エロだ!」と、どうして住民訴訟が起こらないのでしょうか。猥褻物陳列罪に、どうして問われないのでしょう。
あれは、「裸を、芸術としてとらえ直してある」という象徴なんだと思います。
芸術という文化を理解しているという証拠、として裸婦像は置いてあるんだと思います。
女性の裸を再度とらえ直すというのは、一瞬「なんのことやねんお前」と言われてしまいそうですが。
例えば、好きな人にキーホルダーもらうとしましょう。
キーホルダー。
プラスチックとか、真鍮とかメッキとか。
まぁ、そんなに何十年もつけていられる物ではないかもしれない。
600円くらいですかね、高くて。
買わない。
自分では買いません、サービスエリアの、ご当地キャラをさらに被り物としてかぶっているキティちゃんとかキューピーとか。
そういうものは、「単なるキーホルダー」なんですけど、「好きな人からもらう」と、意味が変わるでしょう?
位置付けが変わるんです、自分の中で。
逆から言えば、「好きな人からもらうならば、なんでもいい」んです。
この感覚、無理やり思い出してでも理解してくださいw
「とらえ直す」っていうのはそういう意味です。複数の意味をつけていく、という言い方もできますかね。
裸なんですけど、青銅とかで作られた像は、もう「女性」であって「女性ではない」。それを「うわぁあああ裸じゃ!エロい!猥褻!!」という以外の観点で見ることができるかどうか。
これは、文化レベル、知識ゾーン、教養の高低を計られる、ものすごい踏み絵です。
小学校低学年なら、「なんだなんだ…裸だぞ…?服着てないぞ…??やばくない?」くらいにしか感じないでしょう。でもそこに「自由」とか「飛翔」みたいなタイトルが付けられて、眺めながら、そのタイトルとの関連性を想像していくと、おぼろげながらストーリーというか、この人(モデル)はなんだろうな、どこかから、何かから自由になったのか、これからなるのか…精神的な飛躍を願っているのか、それを全身で表してるのか…など、色々考えていくわけですよね。その「考えていく」の部分が芸術であり文化なんでしょう。
例えば日給払って生身の女性に全裸で駅前で立っててもらったって、それは芸術であり文化です。でもちょっと距離が近すぎますよね、肌感・リアル感と、自分・生活感との距離が。あまりに「よく知る肌感」だと、夢想が入り込みにくくて生活臭がする。なまなましい。いえ、そういう芸術もあると思うんです、芸術ってそういうものでもあるでしょうから。
でもそれこそ現行法とバッティングし続けてしまうような芸術は、駅前には向かないっていうだけ。「公衆に向く」っていうのも、広く文化レベルを押し上げていくには必要な考慮ポイントでしょう。だからボディペイントとか銀粉金粉とかを塗りたくると、距離感出るんですね。物体の現実感と、精神的な思考の跡との間に。
芸術作品としての裸婦は、エロくないんです。
いえ、エロく見ようとすればいくらでもできるでしょう、フェティシズムの領域かもしれません。が、青銅の、割とスラッとは言えない体格の物が多い気がする駅前の裸婦像に、いちいち劣情を催すというのはもう、10年くらい南極のシェルターに閉じ込められてた人とかくらいじゃないですかね。
あまりにわざと艶かしくしたものは、選ばれてないような気もします。
古代ギリシャ/ローマに作られた像には、「裸だったら神」という感じのルールがあるようで(そんな言い方おかしいけど)、歴代の皇帝も、「あっ、服着てない!神格化されたんだな」という見方ができるそうです。神だから、裸で良い。神に対して、羞恥や猥褻などという概念は適用しない。それも、「置き直し」「とらえ直し」の一つでしょうし、神への尊崇から芸術が生まれてきた、と考えると、素人ながら納得がいく方向性だな、と思えたりします。
というわけで、「意味の置き直し」をしてある証拠としての「駅前の裸婦」ということで、納得しております。
もちろん、行政に強制されることではないですけれど「芸術、つまり文化的な教養として物事を進歩的に見ることができる市民が居住しております!」というシンボル、なんですね。
ついでに思い出すのは「二宮金次郎像」のことですね。
小学校にあった。
今は、割と撤去されてたり?するそうじゃないですか。
なんで?
その理由として「歩きながら本を読むのは危ない」。
アホなの?
文化レベルヒックーーーー!!
そんな小学校、こちらから辞めていいと思いますよ。
そんな野蛮な地域に住むの、やめたら?
確かに現在「歩きスマホ」は社会問題になってますよ、それは大人が、ですけどね。
二宮金次郎(尊徳)のあの像って、「薪を背負って歩きながら本を読みましょう!」っていう意味を模(かたど)った像じゃないですからね。
クレームつけてるアホは、そう言ってるんですよ。
つまり「駅前にハレンチな裸の女性を置くな!」と。
そういう風にしか見えないんです、そういう人らには。
つまりそれはどういうこと?
そう、文化レベルが?思考能力が?教養ゲージが?
ヒックーーーーーーーーーーイ!!
直接は関係ないですが、最近知った、二宮尊徳のすごい名言を一つ。
奪うに益なく、譲るに益あり。
こういうことを言う人の遺徳を讃えた像が、「前を見ないと危ない」だと!?
まさかと思って検索してみますと、「座って本を読む二宮尊徳像」、あった…。
いえ、割とある…。
すごいですね、薪を横に置いて、座って書見をしている。
それを「サボっている」という風には、見なさないんですね。
その説明って、「薪を背負って本を読みながら歩いている最初の像」がまず無いと成立しないじゃないですか。
どうかなぁと思うのは、どっちにしても説明しなきゃわからないのに「わかりやすくなった!」と思い込んでいる、その短絡さです。
一見して何をしているか、何を表しているかわからない像に意味を感じ背景を調べ、故事来歴を知り偉業に感嘆する。
偉そうに言えばそれを伝達するのが「教育」というものだと思うのですが、「パッと見たらわかる」って、それはポスターとか広告とか、そういうものでやればいいんじゃないでしょうかね。
その思索の過程にこそ意味があるのであって、それこそが二宮尊徳が伝えたかったことなんじゃないのかなぁなどとも勝手に思ったりする次第です。
尊徳が用いた「分度」。
荒々しく稚拙に分解すれば「分別」と「節度」の合成語と言えなくもないでしょう。
「公衆の面前にある、作品としての像」は、どこかに「意図」「意味」がないと設置されたりしないので、やはりじゅうぶんな理解と、そこに設置する社会的な意味との接点を、見出していくべきなのですね。
※参考にさせていただきました