鎌倉に鎮座する、鶴岡八幡宮。
東側に、「実朝桜」がありました。
奉献
実朝桜
Sanetomo-zakura
平成23年6月吉日
古都鎌倉を愛する会
秦野市実朝まつり実行委員会
風さわぐをちの外山に雲晴れて
桜にくもる春の夜の月源実朝
詠
なぜ、鎌倉将軍(三代目)を顕彰する桜を、秦野市の人らが奉献してるんでしょう。
同じ神奈川県とは言え、秦野(はだの)って、相模川を超えて、かなり西側ですよ。
「実朝まつり」も行われているとか。
秦野市観光協会-イベント情報「実朝まつり」
https://www.kankou-hadano.org/hadano_event/sanetomomatsuri.html金剛寺から田原ふるさと公園まで、きらびやかな衣装をまとった子供たちが行列する稚児武者行列や、源実朝公御首塚では法要も行われます。
首塚…!がある!?
源実朝公首塚
源実朝は鶴岡八幡宮で殺され、武常晴(たけつねはる)によって首は持ち去られ、現在の神奈川県秦野市大聖山金剛寺(源実朝が再興した)の、五輪塔に葬ったと。
武常晴は三浦義村(みうらよしむら)の家臣であり、主君・三浦義村は、実行犯であり主犯である公暁が頼った実力者であったがゆえに、源実朝暗殺は三浦一族が後ろで計画していたのだ…という説も、有力だったりします。
だけど、ですよ。
無残に切り殺された…とは言え、被害者は三代目・征夷大将軍ですよ。
犯人は捕まり、事件は一件落着した。
源実朝が殺された日、鶴岡八幡宮にいた理由は「拝賀」のためです。
自身が「右大臣」に叙されたことを報告し、祈りを捧げ、お披露目をし、権威を示す、重要な儀式です。
「右大臣」。
これは武士として史上もっとも高い位、でした。
武士が支配する社会になっているとは言え、その権威は朝廷から下される「官位」によってもたらされているのはその当時、常識中の常識。
官位で出世する以外の出世は、この宇宙には存在しない。
唯一無二のルールの中で源実朝は、父・源頼朝を遥かにしのぐ官位「右大臣」に昇った。
その首が、別の場所にあるなんて。
「胴体の墓」は寿福寺、母・北条政子の横にあります。
やっぱり、不思議です。
波多野氏(相模の豪族)を頼って武常晴(たけつねはる)が首を持ってきて、そこに埋葬した、と。
いや、それがわかってるならもう、わかった時点で首は鎌倉へお帰りいただいて、改めて胴体と一緒に追悼すればいいじゃないですか。首がそこにあると分かった時点で「秦野市にあるんです!」って言ってる場合じゃねえだろ、っていう感じがするんですが、どうなんですかね。
逆に秦野市は、なんで返さないの?
なぜ800年以上、「右大臣」にまでなった人の、首と胴体が離れたままなんでしょう。
もしかして「鎌倉」は、なんらかの理由で首を、取り戻せなかったのか。
やっぱり、どう考えても不思議だし、謎ですよね。
作家・葉室麟氏はそこに思いっきり引っかかって、小説『実朝の首』を上梓されています。
あの和田義秀(わだよしひで。朝比奈義秀/朝夷名三郎義秀)が生きていた…!
和田義秀は源実朝暗殺より6年前、あの「和田合戦」でも猛勇を振るった豪傑。
そして船で逃げた、とされています。
なので秦野(波多野)で生きていても、おかしくはない。
そして源実朝の寵臣であり、和田義盛の孫・和田朝盛(わだとももり)現れて…。
フィクションですけど、やはり「実朝の首」はかなりのミステリーというか、別に良好ではない三浦氏と波多野氏との関係性…それにやっぱり、なぜ時代が進んでも「取り返さないのか」という、謎。
首って、大事ですからね。
台湾故宮から歩いていける台湾原住民博物館には「世界の首狩り族の分布地図」があって、日本も首狩り族認定されていたのはちょっと衝撃的でしたねー。「言われてみれば、、、ホンマや」って感じで。
— 河東竹緒 (@rivereastbamboo) April 13, 2021
そうなんですよね、戦があると首級(みしるし)と呼んで、運んで、実検(たしかめ)して、晒すんですからね。立派な首狩族だと思います。
※参考
首狩りの風習があった10の首狩り族
https://karapaia.com/archives/52242956.html
やっぱりどこかに「首と胴を切り離さないと生き返る」という信仰があったのだと思われます。
なので「敵の首」なんですよね、切るのは。
身内を埋葬するのに、首を切って土葬…とかはしない。
敵だから、首を切り離すんでしょう。
それが宗教と関係なく、もっと古い人類闘争の歴史から来ている風習だとしたら、考えてみれば当然の帰結、と言えなくもないですよね。
だって首がつながった敵はなんらかの拍子に生き返ったところを見たことがあるけど、首を切っておいた死体は生き返ったことがない、っていう経験則があるんだから。
しかも「これくらい倒しました!」っていう軍功を示すのに、体ごとは持っていけないし、顔さえ分かればそれが武将なのか、兵士なのかも一目瞭然になる。
首すら持って帰れない激戦&遠距離だった豊臣秀吉による朝鮮出兵では、敵の耳や鼻を塩漬けにして送ったりしたのだとか。鼻狩り族。耳狩り族。
個人の判別はできないけどどうせ外国人だからいいだろうっていう大ざっぱ。
日本も、鎌倉時代ともなれば「首が大事」はかなり浸透してたはずです。
平将門は首と胴を離したから京都から飛んできて怨念をまき散らし続けたんだし。
首の恐怖、怨念の強さは、歴代将軍を祀る際にも疑念として残り続けたはず…なんですけどね。
ということは、「実朝の首は鎌倉にない方が良い」っていうなんらかの事情があったことになりますよね。
「まぁまぁ、実際はどこに埋葬されてるかはもういいじゃないですか、鎌倉にはなくて、今は波多野にあるんですってよ」としておくと、丸くおさまる事情が。
実朝は、殺されました。
武士として、驚異の出世で「右大臣」にまでなったのに。
その晴れやかで厳かな儀式の最中に。
犯人は、公暁。
兄であり、二代目将軍だった源頼家の子供です。
この公暁、「くぎょう」と読むのが通例で、多くの作品は書籍でもそう書かれている(振り仮名されている)のですけれど、ほんとに「くぎょう」なんでしょうか。
「暁」の方は「ぎょう」で良いんですよね。
同じく出家した弟には「禅暁(ぜんぎょう)」、叔父には「貞暁(じょうぎょう/ていぎょう)」がいます。
出家したとき、鶴岡八幡宮の別当・定暁(じょうぎょう)から法名を授かったので「暁(ぎょう)」の字を受け継いだんですね。
その後、阿闍梨である高僧・公胤(こういん)の門弟になります。
そうなると、公胤の「公」と定暁の「暁」で、「こうぎょう」と読みたくなりますけれど、どうなんでしょう。
とにかく公暁を「くぎょう」と読むというのは、「公卿」との区別的もめんどくさい。
「公卿(くぎょう)」は、とりわけ偉い貴族、すなわち「太政大臣・左大臣・右大臣・大納言・中納言・参議ら、もしくは従三位以上の高官」のことを言います。
つまり殺した方は公暁(くぎょう)で、殺された源実朝は右大臣になったから「公卿(くぎょう)」なのですよ。
クギョーがクギョーに殺された、ということに…ややこしい。
wikipediaには
名前の読みは「くぎょう」とされてきたが、近年は「こうきょう」である可能性が高いとされている。
と書いてありました。
江戸期以前の史料には「コウキョウ」と記されていたりするそうです。
だけど基本的に「濁りは書かない」んでしょうし、『承久軍物語』には「こうげう」と書いてあるそうですから、やっぱり「こうぎょう」が正しいんじゃないでしょうか。
黒幕は誰だ
このまま鎌倉幕府は安定していく…と、思い始めた人も多かったであろう、三代目将軍・源実朝の右大臣昇進。
だけどその本人が、組織のトップオブトップが、若干26歳(満年齢)で殺されてしまう衝撃。
殺したのは甥。
自分の手で切って刺して殺して、首を掻き切り…しかも神聖なる神社の境内で…そのまま自分が次の将軍にスライド…そんな感じで、うまいこと進むと思ってたのは公暁(こうぎょう)、流石に甘すぎるでしょう。
そう考えると「やれ。腹くくれば将軍でござるぞ。」とそそのかしたヤツが必ずいる、ということになりますね。
・後鳥羽上皇説
・北条政子説
・北条ヨシトキ説
・三浦義村説
後鳥羽上皇説と北条政子説は、あり得ないと思うんですよね。
源実朝と後鳥羽上皇は、利害が一致してた。
和歌でも通じ合ってたし、お互いに努力してた感じがある。
北条政子が、孫に「おじさんを殺しておいで」と言うとも、考えられないですよね。
二代目・源頼家の遺児であるとは言え、やっと「比企の乱」で比企氏を追い落とし、北条寄りの源実朝を将軍に据えたんですから、そこに犯行動機は存在し得ない。
北条政子も後鳥羽上皇も、「親王将軍の実現」に動いていました。
なぜか源実朝には子供がおらず、これが鎌倉幕府存続の、大きなネックになってたんですね。
どんなドラマも映画もフィクションも、そこは原因をはっきり描いてません。
そりゃそうですよね、わからないんだから。
子供をたくさん作り、男子によって家を嗣ぐ、が武士や貴族にとっては最大の命題であった時代、「子供がいない」にはそれなりの理由が、あったのでしょう。
とにかく「ここで源氏の、源頼朝直系の男子は途絶える」ことは確定してたんです。
なので、それを超える権威、誰もが担ぐしかない存在を迎えるしかないという決断を、幕府としてはしたんですね。
そしてその計画は、北条政子が京都へ出向く…などの工作として、勧められていました。
で、北条ヨシトキ説
もう、史料だけ見るとめちゃくちゃ怪しい。
北条ヨシトキは、源実朝の、鶴岡八幡宮の儀式には当然出席しています。
だけど突然「気分が悪い」と、列を離れるんです。
自分の役割(太刀持ち)をふわっと離れて、源仲章(みなもとのなかあきら)に「替わってくれ」と言い出します。
で、替わってあげたその源仲章が、ピンポイントで殺されてるんです。
殺害現場は、雪が積もる日の夜。
見えているなら間違えるわけがない人物を間違えて殺してしまったのは、暗くても「その位置にいる人を殺すと決められていたから」でしょう。
いわば身代わりとなって、優秀な文官・源仲章は殺されてしまいます。
鎌倉幕府の御家人でありながら、後鳥羽上皇のスパイとして情報を得ていたという源仲章は、しっかり狙われて殺されたのだという説もあるようですが、なにもこの時に殺さなくてもいいでしょう。
確かに後鳥羽上皇ー源仲章ライン、さらに源実朝を潰せば、朝幕の親密度は一気に下がります(実際にそうなった)。
後鳥羽上皇を有利に、どころの意図ではなく、ふたたびゼロベースに戻す、争乱の世を招来する野望…。
そうなると、やっぱり北条ヨシトキ説は消えるんですよね。
北条ヨシトキは、そんなことを考えて、進めるメリットが一つもない。
姉・北条政子とともに、後鳥羽院との蜜月によって親王将軍を招来し、鎌倉幕府を安定させて、それを元手に北条氏を繁栄に導く…というくらいの野心はあったでしょうけれど。
鎌倉幕府なくして北条氏はない、という認識が、他の関東武士団とは違って北条には強かったはずなんですよね。弱小豪族から源氏の棟梁を担いで、幕府運営をする過程でのし上がってきた家柄、ですから。
三浦や畠山や波多野のように、後ろ盾になる武力も権力もない。
なので、源実朝を殺すメリット・動機・未来への展望、が北条ヨシトキにはまったくない。
源氏をそこで滅亡させたら、また弱小一家に戻ってしまうだけです。
「北条幕府」とか「北条時代」を作る正当性を、そもそも持ち合わせていない。
そうなるとやっぱり、怪しいのは三浦義村(はじめ三浦党)だっていうことになるんですよね。
公暁が実朝を殺した後、一番に目指したのは三浦義村の屋敷だそうです。
これって、「約束してた」ってことでしょう。
そうでなくても、源実朝殺害を擁護してくれる立場は、三浦しかいないという常識があった。
だけど三浦義村は、いっさい擁護はせず、公暁をその場で討ち取ります。
この感じ…似ている…。
「和田合戦」の時と似ているぞ…。
同族であるはずの和田氏・三浦氏。
なのに北条・幕府側につき、和田を討った(売った)三浦氏。
あの時は、「それが幕府・鎌倉のため」という大義名分が通った…のはわかるような気がします。
和田義盛は「北条ヨシトキ討つべし」で挙兵して鎌倉市街を大戦乱に巻き込んだわけですが、治安維持・騒乱鎮圧の功績があれば、以後の幕府内での地位は良くなる、という冷静な判断だったのかもしれません。そう考えれば、鎮圧するなら同族の方がやりやすい…みたいなの計算が、あったのかも。
いちおう三浦には、将軍暗殺によるメリットはある。
目的として、三代目将軍を殺すと、ライバル・北条は、抱えるべき将軍がいなくなる。
朝廷、後鳥羽上皇に対する面目も失う。
幕府内での権力が失墜する…その可能性はあったはずです。
だけど、また「誰がどっち側につくんだ」という、血みどろの内乱・大戦争に突入する可能性も高い。
三浦義村にはその戦争に勝つ自信はあるけれど、なぜかそれ(公暁を担ぎ上げて新将軍に据えて、執権となる)をしなかった。
もしかすると鎌倉時代前半、最も謎で、最も難解で、最も意味不明な人って三浦義村なんじゃないの…??と思わされます。
関係的に、濃厚な人らの動機アリバイが次々に明らかにされる中、動機じゅうぶん、準備じゅうぶん、なのに何もしない三浦義村、気持ち悪くないですか。
ちなみに、源実朝を殺した甥っ子の公暁の墓は、どこにも無いのだそうです。