新皇・平将門ッッ!

ここにも…?将門さんの首級はここにあるin京都(画像12・動画1)

京都ぎらい (朝日新書)

なんとなく、やんわりと平将門を追いかけている私。

以前、

京都市下京区新釜座町に、「天慶年間平将門ノ首ヲ晒シタ所也」と由緒書きされた、小さな祠があるそうです。

とここに書きました。↓

平将門の首は本当にここにあるのか?(画像26・動画1)

将門は勢力を拡大し暴れに暴れ、関東を平定しつつ活躍したのですけれどもけっきょく朝廷による討伐隊に殺され、首を奪られます。

その首(頭部)は、京都で首実検査するために関東から運ばれ、河原で晒されました。
天下の大罪人に死後、そうやって恥をかかすことで、帝の威光を示す意図があったのでしょう。見せしめですね。「梟首(きょうしゅ)」と言いうこともあるようですが、梟首は厳密には首を、木にかけることなんだそうです。

なんで梟(フクロウ)なのかというと、なぜか古代の中国ではフクロウは「親鳥を殺して食う」と信じられている地域があって、親不孝の象徴だったんですね。「親に孝」が最大の徳目とされた頃の中国では、もう「見つけたら殺して首切って木に吊るせ」というくらいの悪鳥だったのです。だから漢字すら「木に鳥」って書いてしまうほどの憎しみがこもってるわけです。吊るすなら木と鳥の上下は逆のような気もしますが、そこから「首を木に吊るす、首を晒す、首を切る」ことを、「梟」で表現するようになった、と。蝙蝠、じゃなくてね。

…ところが前傾の記事に出てきた「十九首」では、「将門の首はこの地で留められ、ここに埋められた」とされています。

 

京での晒し首はなかった、ということなんでしょうか。

よくわからない。
京都にあるのは「首はここに祀られた」という場所。

将門首塚(東京)
十九首(静岡)
京都神田明神と、合計で3つ頭部があることになる。キングなギドラが想起されます。

いや、必ずしも完全体のヘッド部分が常にひとかたまりになっていたとは限りません。祀るには一部あればいいし、「仏舎利」みたいなあつかいで全国に散らばって…いや、京都から遠く関東へ飛来した…その途中で…と伝わる「将門首塚」は、やっぱり完全なる頭部状態でないと成立しない気がしますね。

ほんとに晒し首になった説なら、やはりそのまま京都に埋められたというのが一番しっくりくる。
そう言ってしまうと東京の「首が飛んできた」になんでそんなに祟りだの呪いだのと信憑性が高まってるのか謎だわ、っていうことになってしまいます。祀る心にイチャモンつけてるわけではないですよ。

朝敵であろうが政敵であろうが、「負けて死んだ」ということは「怨念を持っている」と自動的に日本人は考えます。なのでどうにかして鎮魂しておかないと、自動的に祟ります。

折しも、将門討伐から10年をさかのぼる延長8年(930年)、「清涼殿落雷事件」が起こります。会議をしていた御所の清涼殿・紫宸殿に落雷し、大納言民部卿の藤原清貫(ふじわらのきよつら)が衣服に引火し即死。他にも公卿や警護の者が死傷しました。時の醍醐天皇はそれにショックを受けたのか、3ヶ月後に崩御。

皆はすぐに思ったのです、「あ、これは菅原道真の怨念だ」と。

天災・疫病があると「あ、これはあの人の怨念だ」と光の速さで結びつけるのが平安貴族の思考回路ですから、ビシッと全員の脳裏に、30年ほど前に左遷され、太宰府で死ぬしかなかった菅原道真が浮かんだのです。

すでに延喜6年(906年)〜延喜13年(913年)の間に、政争で濡れ衣を彼に着せた藤原一派が次々に病死し、その時も光の速さで「あ、これは道真公の怨念だ」と皆が震え上がったのです。

落雷で帝まで崩御させた恨みのパワーを信じる人たちは、平将門の怨念もとうぜん、恐れました。まだあの驚愕の落雷からそんなに時間も経ってない。敵すらもちゃんと祀らないと、荒ぶる怨念は絶対に災厄となって降りかかるからちゃんとしよう…というのは、大国主神を祀る出雲大社から続く、伝統と言っても良いでしょう。

それだけでなく、平将門は「マジもんのソルジャー」である武士、だったわけですから。
勉学の神となる貴族ですら疫病と落雷で攻撃してくるのに、恨みを持った武力を有するウォリアーなんぞはどうやって波状攻撃してくるのかわかったもんじゃないですよね。

なんとか鎮魂を…と言いつつ、けっきょくどうして良いかわからないので「首は関東へ向けて飛んで行ったんス」ってことにしたんじゃないのか…と、思うのであります。首の丸投げ。

だけどやっぱり「祀ってあげましょう」ってことになったんですかね京都人。
「朝廷に逆らった」レッテルは、明治期にはそれはそれはひどい扱いのシンボルになったでしょうし(神田明神でさえ祭神から将門を外してた)、今は良い時代になったってことですよね。

というわけで、やってきました夜の京都。

ここは西洞院(にしのとういん)。そして四条通なので、見えるお店は「四条西洞院食堂」なんですね。地名を冠したこのタイプの食堂、関西に多いなぁという印象でしたが全国に409店舗もあるんですね。北海道にも台湾にもある。

株式会社フジオフードサービス
http://www.fujiofood.com/shop_search/shokudo/

 

観光客はあまり、立ち入らないよな…と思うような路地に、それはひっそりとあります。
場所はここ。

この奥にあります。

お店がありました。「秀」。
秀、と言われれば平将門を倒したのは藤原秀郷(ふじわらのひでさと。ゴッドサイダー)。その「秀」ではないですよね…。

この感じ、外国人観光客でなくても、情緒爆発で鼻血出そうではないですか。

京都神田明神、ありました。

 

こういう感じで、町屋と並んでいました。

例祭の案内。奥に、祠が見えてますね。

例祭のご案内

京都神田明神 春季例祭

令和二年三月十八日 水曜日
午後一時より斎行

神田神社社務所

奥を覗くと…

おおお、立派だ…天井には彩雲が描かれていました。

 

来た道を振り返ると、こんな感じ。
奥の光ってるところは、四条通です。

落ち着いた感じですよね。完全に溶け込んでる。

立て札を、読みましょう。

「京都神田明神」
御祭神 平将門命・大己貴命・少彦名命

平将門公は桓武天皇五代の後衛で、東国において武士の先駆者「兵(つわもの)」として名を馳せた人物です。この地は天慶の乱に敗れた将門公の首級が京都に運ばれ晒されたと伝わる場所です。古来よりこの地に小祠が祀られておりましたが、このたび将門公を祀る東京の神田明神より御祭神をお迎えいたしました。
皇居のほとり、千代田区大手町の「将門塚」は、京の都で晒された首級が胴体を求めて関東に飛び、力尽きて落ちた場所として今なお都心の霊所として、将門公の「強気を挫き、弱気を助くる」精神を慕い、参拝がたえません。

東京に鎮座する神田明神は、大己貴命・少彦名命とともに、平将門命を祀る神社です。
天平二年(七三〇)に大手町・将門塚周辺に創建され、その後、延慶二年(一三〇九)に将門公が合祀されました。
元和二年(一六一六)に江戸幕府より江戸城(現在の皇居)から見て表鬼門守護の地へ鎮座しました。江戸幕府より「江戸総鎮守」の称号をいただき、徳川将軍をはじめ江戸の町人たちにより崇敬されてまいりました。
神田明神の大祭「神田祭」は「天下祭」「御用祭」とも称され、江戸城内において徳川将軍が上覧しました。明治七年(一八七四)には明治天皇も親しくご参拝されました。
現在は「祇園祭」「天神祭」とともいに日本三代祭の一つに数えられ、二年に一度、五月中旬に行われ、二百基に及ぶ神輿が賑やかに担がれております。

尚、この土地・建物は、神田神社責任役員氏子総代・遠藤達藏氏のご遺志を継ぎ、娘の平野德子様により寄贈されたものです。

ちょっと待ってください。

先ほど出てきた食堂、「西洞院食堂」でしたよね。

西洞院というのは公家の名前なんですが、西洞院家は、桓武平氏なんだそうです。家紋は揚羽蝶。
桓武天皇の第三皇子・葛原親王が桓武平氏の祖。その子、平高棟(たいらのたかむね)から始まったのが西洞院家、なのだそうです。

言ってみれば、将門公の親戚ではないですか。
偶然なのかなんなのか、なんだか縁のある場所に、祀られているんですねえ…。

 

けっきょく、首はどこにあるのか。

骨が残っているわけでもないし、DNAが採取できることもない今となっては、「祟りが〜」って言う声がでかい方が正解、みたいな空気になってる感じもしないではないですよね。その意味では東京・千代田区の首塚が強い。新聞に事故とか載っちゃって、全国的に「祟りが強いのは将門よ!」みたいなイメージが広がってる。その前にまず神田明神が強いし。

だけど、ストーリー的には「足止めされた」という静岡の十九首も強い。前掲の記事に書きましたが、十九首は「今は」将門だけど、ほんとは井伊直親の塚なんだぜ…みたいな話もあったんだっけ。

実際に検分されたとしてもその後、どうせ犯罪人なので打ち捨てられた首。
それを仁の心で供養したであろう京都人の優しさ、みたいなのを信じるとすれば、この京都府京都市下京区新釜座町にある祠も、なかなかに強いですよね。

全国にある「将門の塚」とか「碑」とかって、平将門の首は結局どこにあるかわからない、という事実をもとにして、「勝手に建ててる」感をどうも感じるですよね。地元なら絶対に首は欲しいし、ゆかりの地ならやっぱり首塚は欲しい。なんだか名所みたいなのを作りたいので有名人の逸話が欲しい場合も、「将門の首」は絶好のターゲットとなってる気がする。

彼は神出鬼没!うねる怨!舞う恨!神通力をともなって、いまだ戦い続ける「つはもの」の霊は、ここに祀られているだッ!が通用してしまいますからね。

死後、しばらくはかなり適当な扱いをされてたんでしょうし、伝説化するにはじゅうぶんな時間を経て顕彰しなおされたら、もはや収集つかない名所メーカーになっていた…という。偉大です。

 

京都神田明神、でした。

京都観光の際はぜひ、行ってみてください。

 

この路地を歩いている動画です(62秒)。

 

 







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