「運慶展/運慶と三浦一族の信仰」に行って来た。
横須賀美術館。
とんでもない立地にある。
まさに東京湾の玄関口、沖にうっすら海堡(かいほ。明治中期から大正にかけて海上に建造された、人工的に造成した島に砲台を配置した要塞。戦前に陸軍、のちに海軍が東京湾防衛の要として駐留してた)が見える。
東京湾海堡ツーリズム機構
https://daini-kaiho.jp/
まさに「三浦」の一族。
三浦氏とはその名の通り、三浦半島を拠点にした武士の血統だ。
この一族は坂東八平氏のひとつだが、前九年の役(1051・永承5年〜)の際、源頼義(みなもとのよりよし)に従った功績から、三浦半島が所領になったと言われている。
陸奥へ赴く際、源頼義は関東でも兵を募った。
関東の兵たちは、清和源氏の戦力に組み込まれた。
後に三浦氏が、挙兵した源頼朝(みなもとのよりとも)に従うことになったのも、この時の主従関係があったからだ。
源頼義は関東の実力者・平直方(たいらのなおかた)の婿になり、この両者の間に生まれたのが源義家(みなもとのよしいえ・八幡太郎)である。
息子の源義家もまた、父に続いて奥羽の紛争に介入する役回りを演じ(後三年の役。1083・永保3年〜)ている。
源頼義が鎌倉に居を構えたのは、平直方が所有していた屋敷が譲渡されたからだ。
鎌倉はこの頃より、源氏の本拠地となり、伝統の場所となった。
源頼朝の父・源義朝(みなもとのよしとも)の屋敷も「亀ヶ谷(かめがやつ)」と呼ばれる辺りにあり、源頼朝はその辺に幕府の本拠を置こうとしたそうだがさすがに狭すぎる、ということで大蔵(おおくら)付近に変更されたという。
鎌倉幕府を開いたとは言え、源氏の棟梁として鎌倉を拠点にし続けられたのも、実は紛糾していた源氏の長者争いを制して反対勢力を排して権力を獲得できたのも、自前の武力(源氏軍)を持っていなかった源頼朝にとっては、近隣で一番強く、一番距離も近かった三浦氏がいたからこそ、と言えるだろう。
三浦一族は常に、権力側に味方して、政権を支えた。
梶原景時(かじわらかげとき)の変(1199・正治元年)の時も。
畠山重忠(はたけやましげただ)の乱(1205・元久2年)の時も。
三浦氏は常に実行部隊・主力戦力として出動した。
三代将軍・源実朝(みなもとのさねとも)の暗殺時には、黒幕とも目された三浦義村(みうらよしむら)だったが、おそらく違うと思う。
作家・永井路子氏が『炎環(直木賞受賞作)』で取り上げた説だけに、なんだか定説の一つみたいになっているが、違うと思う。
三浦義村の行動が不気味すぎて「黒幕っぽい」雰囲気を800年間醸し続けているだけで、源実朝を排するメリットが、三浦氏にはない。
実行犯・公暁(こうぎょう。2代・源頼家の息子)の乳母夫であった三浦義村だが、こんな実行犯の後ろ盾をして、4代目に彼を担いだとて、北条氏だけじゃない、周りの御家人を皆殺しにでもしないと「三浦執権体制」など築けるわけがない。
いろんな著名な小説家の先生にも「やはり怪しい」と北条ヨシトキを黒幕と見做す方がおられるが、違うと思う。
承久の乱(1221・承久3年)では、これまた身内の三浦胤義(みうらたねよし)の要請には答えず、幕府側として戦っている。
もしも後鳥羽上皇の命に従い、西で三浦胤義、東で三浦義村が同時に蜂起していたら、北条ヨシトキとて無事ではいられなかったと思う。
一気に権力を欲しいままにできるチャンスでもあったが、なぜかそれをしなかった。
和田合戦(1213・建暦3年)では身内であるはずの和田義盛(わだよしもり)側にはつかず、幕府側として戦って、その地位をキープした。
そう、この時点で、この戦いにすら加勢しないのに、「血筋一発・公暁のテロリズム作戦」の黒幕になど、なるわけがない。
三浦義村をナメてもらっては困るのだ。
1246(寛元4)年にも事件はあった。
鎌倉では「あの」三寅(みとら)が成人して、4代めの将軍に就任していた。
源実朝が死に、親王将軍は叶わなかったものの貴族の子として三寅は、いわば最初から傀儡として将軍の座に座るためだけに連れてこられていた。
しかし長じて九条頼経(くじょうよりつね)となった彼は、それなりに主張を始める。
権力の座にあることを認識し、それなりの力をふるおうとし始めた。
彼を担いで、執権に対抗しようとする北条氏傍流の勢力が出てくる。
すでに北条氏内部では、主流と傍流の権力争いが起こっており、これを制した北条時頼(ほうじょうときより)は、クーデターを逆に利用して九条頼経を追放し、結果的に得宗家として専制政治を強化することに成功した。この事件は「宮騒動」と呼ばれる。
なぜこの政変がそう呼ばれているのかは謎だ。
なぜなら九条頼経は「宮」ではないからだ。
宮ではないが、周辺がそう呼んでたのか、どうなのか。
首謀者の屋敷が名越(なごえ。北条時政の屋敷もあった)だったことから「名越の乱」という呼び方もある。
この時も三浦一族は執権側、権力側についた。
その次の年、1247(寛元5)年。
「宮騒動」では北条側であった三浦氏だが、穏健な当主・三浦泰村(みうらやすむら)と違って弟の三浦光村(みうらみつむら)は、北条氏打倒の野望を捨てきれていなかったらしい。
「なぜ兄者は北条の下に甘んじておられるのだッッ」みたいな感じか。
1月の終わり、鎌倉には羽蟻の大群がやってきた。まぁそういうこともあるのだろう。
光る物体が空を飛んだ。なんだこれは。天体ショー。
由比ヶ浜の潮が赤く血のように染まった。赤潮だ。
大流星が東北より西南に流れた。綺麗。
黄色い蝶が大挙して乱れ飛んだ。まぁそういうこともあるのだろう。
青森の方で、人間の死体のような大きな魚が漂着した。UMAだ。
日暈(ひがさ)と呼ばれるハロー現象も目撃された。天体ショー。
これらは鎌倉時代の人をして「こりゃきっと、とんでもないことが起こるぞ…」という予兆を感じさせるにじゅうぶんだったろう。
不穏な雰囲気が充満した。
幕府内の序列において、三浦氏の下に甘んじることをよしとしない安達氏の存在。
なんとか三浦氏を蹴落とし、上位につきたい安達氏。
この画策に三浦光村が乗せられてしまった形で、抑えは効かず、鎌倉市中で大戦争になってしまった。
その結果、三浦氏は滅亡した。
わりと残虐な、熾烈な死に方で滅んだ。
宝治合戦。
源頼朝が天下を統一したと言われてしばらく経つのに、まだこんな「身内」とも思える幕府内で凄絶な殺し合いが展開されている。嗚呼、鎌倉時代。
代々穏健で、権力の安定と平和の維持を一番に考えていた三浦氏の当主たち。
地の利と武力で圧倒していた三浦氏は、北条氏などを討とうと思えば、寝首をかこうと思えば、幕府内の最高権力を手にしようと思えば、この100年間、いつでもできたはずなのだ。
だけど、しなかった。
領地の安定と一族の繁栄をしっかりと見据えた、叡慮を引き継いでいたと言えるだろう。
源頼義以来の源氏への忠義を守る中、源頼朝の系譜は途絶えたとは言え平和と安寧の意味を誰よりも、理解していたと言えるのかもしれない。
それなのに、たった一度の、血気盛んな若者のハネっ返りを利用され、あっけなく滅亡してしまった。
とても残念だ。
今も地元の人々が、三浦市を敬愛する気持ちはよくわかる。
毎年、笠懸(かさがけ)という、古式ゆかしい古弓馬術を披露する祭りが催されている。
【本年度の事業は終了しました】道寸祭り~笠懸(かさがけ)
https://www.city.miura.kanagawa.jp/soshiki/motenashika/motenashika_kanko/chiikikankougyouji/10271.html
図録を手に入れた。
今回、横須賀美術館で展示されているメインは「阿弥陀如来坐像および両脇侍立像」。
そして「不動明王立像」「毘沙門天立像」。
和田義盛が1189年、奈良から運慶に、三浦半島まで来てもらって作ったというものだ。
1189年というと、源義経(みなもとのよしつね)が奥州・衣川で、自死に追い込まれ殺された年。
その後、「奥州征伐」につながってゆく。
そういえば討ち取られた義経の首実験をしたのも和田義盛だと言われている。
これらの仏像からは「月輪型銘札(がちりんがためいさつ)」というのがその胎内から出てきて、それにこの仏像の由来が書いてあったそうだ。
不動明王立像から出てきた札(フダ)にはこうある。
文治五年巳酉 三月廿日庚戌
ぶんじごねんつちのととり さんがつはつかかのえいぬ
大願主平義盛芳縁小野氏
たいがんしゅたいらのよしもりほうえんおのし
大仏師興福寺内相応院勾当運慶小仏師十人
だいぶっしこうふくじないそうおういんこうとううんけいしょうぶっしじゅうにん
執筆金剛仏子尋西浄花房
しっぴつこんごうぶつしじんせいじょうかぼう
ここに出てくる「芳縁」というのは、配偶者のことを指す言葉だそうだ。
奥さんが小野氏の人だったってことになる。
女性の名前(本名)は記されない、それが当時の常識。
…あれ?
和田義盛の奥さんて「巴御前(ともえごぜん)」じゃないの?って思うけど、あれは『平家物語』と『源平盛衰記』にしか出てこない、創作のようだ。
そこはもう、巴御前を母とでも想定しないと、息子である朝比奈義秀(あさひなよしひで)の豪傑っぷりが説明つかない…っていうところがあったのだろうか(朝比奈義秀の母は史実では誰だかわかっていない)。
鎌倉時代初期の謎の一つは、「朝比奈義秀は…?」というものだ。
朝比奈の切り通しを一人で作ったという伝説すらある彼(バケモノやないか)、和田義盛の息子で母は不祥、しかも和田合戦での猛勇ぶりはきっちり記されているのに、最終的には逃げてその後どこへ行ったかまったくわからない。誰も知らない。朝鮮半島へ渡ったという伝説すらある。
彼の後半生、一切不明の不思議さ。
あの豪傑がその後、なんの活躍も先祖の復讐もせずに…?
とにかく「月輪型銘札」には和田義盛が、偉い仏師とその弟子10人を奈良から呼んでこれらの仏像を作ってもらって完成したのが3月、ってことが記されてある。
平家滅亡の戦いで源氏側として活躍した和田義盛は、まぁそれはそれはたくさん敵兵を殺したんだろう。
源平双方に大勢の死者が出た供養として、阿弥陀仏の奉納を考えたというのは自然なことだと言える。
でもまさか同じ年の7月に、奥州藤原氏を滅ぼす戦いが始まるなんて思ってなかったと思う。
それでも彼は活躍し、藤原国衡を討ち取っている。
この展覧会では他に、中国からやってきた南宋時代の「観音菩薩坐像」。
そして、和田義盛の屋敷の鬼門よけに建てられた「安楽寺」というお寺にあったという「薬師如来坐像」があった。
どれも見事なものだった。
時代を生き残ってきたものだけが持つ、迫力がある。
和田義盛は、三浦一族当主の三浦義明(みうらよしあき)の孫にあたる。
「義盛」の「義」は三浦氏の通字(とおりじ)。
北条ヨシトキの「義」も、烏帽子親が三浦義澄(みうらよしずみ)であろうことから考えて、同じ感じだと思う。
ヨシトキの「時」は父・北条時政(ほうじょうときまさ)の「時」だ。
ちなみに北条政子(ほうじょうまさこ)の「政」は父・北条時政の「政」であり、これは彼女の本名ではないらしい。
「北条時政のところの女子」みたいな意味でしかない。
女性の名前(本名)は記されない、それが当時の常識。
和田義盛は三浦家の嫡男の血統なので、順当に行けば三浦氏の長者になるはずだったが、父・義宗(杉本義宗・よしむね)が39歳で亡くなってしまったので、三浦氏当主は叔父(次男)の三浦義澄が継ぐことになった。
だけど時を経て、三浦義村の世代になったら和田義盛の一族内での発言権は強く、武力にも優ってたんだろう。「頼りになるがうるさいおじさん」みたいな。
ああ、そうか…だから傍流の和田義盛が幕府内で強くなりすぎてることに危機感を感じて、和田合戦で三浦義村は、一族なのに力を貸さなかったのか…。
うん、お前ら鎌倉武士ってやつはよ…なんで仲良く出来ねえんだよ…。
横須賀美術館、とんでもないロケーションだ。
目の前は海。心地よい浜風。
遠くに霞む、はるか彼方の国までゆくのであろう超大型タンカー。
普段あんまり見れないタイプの、旋回する米軍の輸送機。
山本理顕(やまもと・りけん)氏による優美で機能的な建築。
ここへ行くだけでも価値がある、素晴らしい美術館だった。
展覧会を見ると駐車場1時間無料…これが嬉しい。
グッズ売り場も、とても魅力的で充実していた。
横須賀美術館
運慶展
運慶と三浦一族の信仰https://www.yokosuka-moa.jp/archive/exhibition/2024/20241026-864.html