自論構築過程

メリークリスマス!「無宗教」の、何が悪いのか?

投稿日:2024年12月24日 更新日:

日本人無宗教説――その歴史から見えるもの

上掲の書は示唆に富んだものだった。

しかし著者の意図とは別の感慨も生まれた。
調査法が主に明治時代からの新聞に依拠しているため、昨今の「新聞はオールドメディアであり、真実性が担保できる媒体とは言えない」という風潮や意見が、いみじくもリアリティを持って立ち上がってくる印象を受けた。
つまり「読者は愚昧な情報弱者であるからして、高邁な新聞社によっていかようにも思想までをも操作できる、あるいは導くべきである」という傲慢で高飛車な、上流階級然とした態度が垣間見えてしまうのだ。
おそらく当時の文化人たちは「noblesse oblige」を合言葉にしていたのだと思われる。

実際に「上層階級は無宗教であり、下層階級は迷信めいた宗教を必要としている」という認識が明治〜大正には雰囲気としてあったとも『日本人無宗教説』には記されており、誌面における「新聞を読む層」による「無知蒙昧な庶民を啓く」という文脈で登場する知識人・文化人の言は、今となっては少なからず鼻白む響きをも帯びている。

日本人は「無宗教」なのか?

この問いは、結局のところ「神道は宗教なのか?」という問題意識に行き着く。
どんな経緯を辿っても、どんな寄り道をしても、結局はそれに帰結する。

神道が宗教であるかどうか、という「認識」によってこの問いは、YesにもNoにもなり得ると考えられる。

「クリスマスを祝い、その数日後に初詣をする日本人。」

何度聞いたことか。

繰り返し繰り返し、揶揄と自嘲を混えて語られる、日本人の無節操さ。
いい加減、その誤謬に気づくべきではないか。
日本人は、宗教行事としてクリスマスを楽しんでいるわけではない。
おしゃれでかわいいイベントとして消化しているだけだ。

日本人は、宗教行事として初詣に行っているわけではない。
「年の初め」のイベントとして、消化しているだけだ。

クリスマスがキリスト教発祥の宗教行事であることは知っているとしても、日本人はその様式やアイコンやプレゼントの風習だけど取り出し、「行動」として利用している。

神社への参拝が宗教行為であることは知っているとしても、日本人は「初」であることに重点のほぼすべてを置いている。

日本人が「無宗教かどうか」という問いには、もう一つポイントがある。
無宗教」と言う時の「宗教」が、「主にキリスト教」を想定しているというところだ。

日本人は「無宗教」なのか?という問いは、言い換えれば

日本人はキリスト教のような宗教を持っているか?
日本人はキリスト教徒のような信仰心を持っているか?

という意味だと考えるとわかりやすい。

この設問なら「No」と言わざるを得ないが、それでも欧米人は納得しないだろう。
「宗教(信仰)を持っていない」という意味にしか捉えられないからだ。

だが、日本人は知っている。

宗教ってそういうもんじゃないよね、という感覚で、全体を捉えているからだ。
お寺の数・神社の数・祭りの数・弔い・鎮魂。

それら、日常風景に溶け込んでいる伝統と慣習。それらを「宗教」と呼ぶことすら大袈裟に感じるような、「行動」と一体化した自然なものと考えている節がある。

1つめのポイント、クリスマスも初詣も「行動」として捉えているというところ。
日本人の多くは「行動」さえしてしまえば気が済んでいるのではないだろうか。
神道には本尊もない。
神社には神像もなければ根本経典もない。

神として祀られた、場合によっては実在の人物を、祈願の対象として参拝するだけだ。それによる神からの恩恵も期待はしていないし(ご利益はおまけみたいなものか)、そもそも祈りを捧げる理由に「罪」があるわけでもないし、(キリスト教的な、という意味の)宗教としては甚だ頼りないのだ。そこには、「行動」だけがある。

参拝する、お祓いを受ける、絵馬に願いを書く。
潔(きよ)めを受けたような気分になる。

それで、日本人にとってはじゅうぶんなのだと思う。

なんだそれ…と思われるかも知れないが、この「これでじゅうぶん。」という状態が、一神教を大々的に受け入れるに至らなかった一番大きな理由のような気がするのだ。

そして日本人はそれらの「行動」を、宗教行事だと感じていない。
日本人にとって「行動」は心の反映とは限らない。ハロウィンに騒ぎクリスマスを祝いながらも数日後には初詣に行き喪中ハガキが届く、そんな無節操に見える行いも、「ただの行動」なので、宗教は無関係なのだ。

神社で、事足りている。
神様周りのことは、神社で気が済んでいるである。

仏教はどうか?

「葬式仏教だって立派な仏教だ」と言うことも出来る。

日本において仏教が、冠婚葬祭のうちの「葬」を主に司らなかったら、いったいどんな概念がそれを肩代わりしていたのだろう。

日本式に発達した仏教が「葬式仏教」と批判されながらも滅びていないのには意味があると言える。

食前の挨拶「いただきます」の起源は定かではない。
戦前の教育で取り入れられた、という推測もあるようだがそもそも、それを「躾」として導入しようとするにはその前に前提として「正しきこと」だという認識があったということだろう。

その認識がいつ生まれて醸成されてきたのか。やはり日本独時の、「自然への尊崇」が元になっていると考えるべきだと思う。

宗教は日本人にとって無意識の「行動」として身についているものであり、教育で受け継がれてきたものだった。もちろん、時代が変わって、昔のようにはいかなくなっている。

宗教的教育は政教分離が闇雲に叫ばれる中では、やりにくくなっていくのだろう。

大まかに言えば宗教的教育とは、「畏怖するものを感じろ」と躾けることである。
悪いことをしてはいけない大前提として、人間にはどうしようもない存在の怖さを教えることである。

得体の知れない奥深さを持つ対象を自分と比べて思い浮かべることで、内なる規範を生むことである。

これを、宗教抜きでやることは不可能ではないだろうか。

何千年も前に生まれて洗練されてきた宗教が持つ、無駄のない人間への洞察の結果が、宗教的教育には生かされる。

例えは悪いがヤクザの元で修行するのと、禅寺で修行するのとでは、精神の質に大きな違いが出ると想像できてしまうと考えるのが当たり前だろう。

そして宗教は須く、「死」について語っている。

死があるから宗教が生まれた、と言っても良いと思う。

誰しもに遍く訪れるのに、誰も体験したことのない「死」という現実について、社会において飛び抜けた解像度を持っているのが宗教だと言える。正解かどうかはわからないが、納得のレベルくらいは与えてくれるのが宗教なのだ。

だからインド発祥の仏教も、形を変えて葬式仏教として日本に根付いた。

いくら科学が発達しても、人が死ぬことは変わらない。
寿命は伸びたが、死ぬプログラムは変更されていない。

ただ、医学が未発達な時代には、自分がまだ精神的に成長しきっていない頃に親が死ぬ、という「世代感」があった。50代が平均寿命だった頃には、否が応でも「若い自分」で近親の死に直面せざるをえず、ダイレクトな畏怖と儚さを感じるしかなかった。

だからこそ宗教はそれを支えた。

長寿の時代になって、死は以前より、受け入れられやすくなったと言ってもいいのかも知れない。
かつて太平洋戦争で大量の死を感じた日本人は、宗教を肌身で感じなくなった。
救いを求める無意味さを、痛烈に感じただろう。
それなら現実世界の、現世的な利益だけを追い求めた方が幸せだろう、という感覚も広まった。
既存の宗教が頼りにされなくなり、都会化した街では寂しさも手伝って、新興宗教が盛んになった。

そんな中、オウム真理教の事件があった。

あの時、「宗教は怖い」という認識が強く広がったことは確かだ。
おもしろがっていたオカルトが、突き詰めれば大量殺人につながるのではないかという恐怖も生まれた。

その萌芽は今でもあるわけだが、現代ではストレートにオカルトは言わず、都市伝説とか陰謀論とかホラーとかいう形で、茎を伸ばすタイミングを静かに待っているようにすら思える。

冒頭に掲げた書籍に書いてあったが、この時代、「無宗教です」と宣言することは「私は普通の人間ですよ」と宣言することに等しかった。

日本人は「無宗教」なのか?という問いは、言い換えれば

日本人はキリスト教のような宗教を持っているか?
日本人はキリスト教徒のような信仰心を持っているか?

と先ほど書いたが、オウム真理教の事件以来、

日本人は「無宗教」なのか?という問いは、言い換えれば

あなたはオウム真理教のような宗教を持っているのか?
あなたはオウム真理教のような信仰を持っているのか?

という詰問のニュアンスを帯びた。

こうなると誰だって、否定するしかない。

かくして日本人には、「無宗教で何が悪いんだ」という達観じみた感覚と、「無宗教とは言え、無宗教ではないよ」という、敬虔なキリスト教徒やイスラム教徒からするとまるで意味不明な心情(口に出しては言わないから)が生まれることになった。

常に日本人の多くは、そんなダブルスタンダードとも言える宗教観を、宗教観だと思わずに抱いている。

ずっとそうなのか

上掲の書『日本人無宗教説――その歴史から見えるもの』には興味深い箇所があった。

仏教は困る、全体西洋は宗教などを信ずるけれど、我々はそんなことまでは是(これ)まで信じない、[…] 儒教は宗教ではない、是は一種の政治機関のようなものと言う。[…] 神道と言っても世界が宗教とは認めないから仕方が無い。こんな議論で神儒仏共にどれと言う事も出来ないから、寧(いっ)そ宗教は無いと言おうと言ったところが、[…] 西洋では無宗教な人間はどう映ると思うか、[…] 獰悪で、知恵を持った虎狼のようなものは、黙って置くとどんな悪い事をするか判らぬものとされている、それで宗教を問うのである。[…] 基督の福音を聞かない者は先ず人間では無いと西洋人は思うて居る。[…] もし其の虎狼のように思われる無宗教の人間と聞いたなら、どんな事をするか判らぬと云う言葉になるから、無宗教はいけない、段々斯(こ)う云う話になって皆困った。
これは1871(明治4)年に岩倉使節団に記録係として随行していた久米邦武という人が、のちに回想した文章だそうだ。
この頃すでに、「われわれ日本人のこの感じ、どう言ったらいいんだろう?」と、かなり悩んでいた様子がうかがえる。
そしてすでに、「いわゆる彼らが言う宗教って、キリスト教のことだろ?」という前提が共有されていたというのもおもしろい。
結局、「この時は聞かれなかった」らしい。
今も海外へ赴く時はやたらめったに無宗教を名乗らない方がいい、と言われている。
よほど信仰する宗教が別にあるならそれでいいが、特に無いなら「仏教と書いておくのが無難」なのだそうだ。
150年以上経っても、あまり変わっていないのは良いことなのか、どうか。

 

おしまい。

何にしても「私は無宗教ではなく、この宗教を信仰しています」と宣言するからには、その宗教についての知識がなければならない。
先述のように「行動」しかしない日本人の多くは、宗教についての知識も好奇心も欠落しすぎている。
だから「無宗教です」と言うしかなくなっている。

もちろんそれには、先の大戦争やオウム真理教の事件の影響が大きいが、いつまでもそうは言っていられないだろう。

潔癖主義的な政教分離の観点にのみ配慮して、地鎮祭や慰霊祭、国宝指定までもが「パーフェクト無宗教」で執り行われるようになってしまったら、それこそ「新しい宗教の誕生の瞬間」ではないか。

国の伝統には歴史が伴い、歴史を知るためには宗教的要素が不可欠である。
その意味でも、歴史経由の宗教的教育に、もしかすると光明が隠れているのかも知れない。
今日も沢庵が美味い。







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