皆さん、井上陽水の「少年時代」ってご存知ですよね。
名曲です。
サブスクなどを駆使して改めてどこかで聴いてきてください。
歌詞の中に
夢はつまり 想い出のあとさき
という部分が出て来きますよね。
この「想い出のあとさき」。
この部分、日本歌詞界における、文学的試行の最高峰に位置するのではないかと勝手に思ってるんですがいかがでしょう。
なぜ、そう思うのか。
それは「想い出のあとさき、って一体いつのことを指しているのか」ということに関わってきます。
そうそう、この「想い出のあとさき」に触発されたと思いわれる歌詞が、GLAYの曲の中に。
「BE WITH YOU」という曲の中に、
あなたに会えた事…幸せの後先
という感じで、いきなり出てまいります。
この歌では「後先」と、漢字になっていますね。
1998年…。
おそらくこの「少年時代」の言葉の力を考えれば、いろんなアーティストに「○○の後先」という形で影響を及ぼしているであろうと思われます。
私は寡聞にして知りませんので、ご存知の方がおられたら教えてください。
さて、ここからは「あとさきってなんのこと?」ということを考えて参りましょう。
まず、「想い出」って、過去のことですよね。
過去のことである「想い出」の「あと」と言えば、思い出す時を含めて、時間的に「後ろ」ですよね。
「先」というのは、その「想い出」となる出来事より、前のことでしょう。
さぁ、ここからがややこしい時間です。
「あとさき」を、「想い出となる出来事が発生した時間の前後」と考えると、「あと」とは結果であり、「さき」とは原因だと言うことができます。
時間的に「さき」が早くて、「あと」は後ろ、という感じですからね。
例えば、ある出来事が12:00に起こったとしましょう。
「さき」はそれより過去ですから、11:30。
「あと」はそれより未来ですから、12:30。
では、「さき」を、「前」と認識していいんでしょうか?
11:30は、ある出来事が起こった12:00よりは、「前」ですよね。
ですから12:00、またはそれ以降の地点から、11:30を指して「前」と呼ぶのは差し支えない。
では「さき」って、過去を刺すだけの言葉なんでしょうか??
ああ、俺たち、この先どうなるんだろう…
もうこれ、完全に「未来」を指してませんか??
確か「さき」は、「過去」のことだったはず…。
過去のことだったのに、未来のことを指す言葉になってしまってます。
ややこしい、というのはこのことです。
「さき」はそれより前、と言いましたが、例えば「すいません、武道館ってどう行けばいいんですかね?」と尋ねられたら…どう言います?
「ええ、この先ずーっと真っ直ぐ行って…」って言いません???
この場合の「この先」っていうのは、空間的に「前方」のことですよね。
今いる地点より、「前」ですよね。
でも時間的には「未来」、「このあと」のことを言っている。
空間的には「前」ですけど、時間は武道館に着く頃、時間は経過して「後ろ(未来)」になってるんです。
どうも、「さき」には、「過去と未来」、両方の意味があるらしい。
「先日はお世話になりました」は過去について話しているけれど、「この先はどうなる?」は、未来について話している。
では「あと」はどうでしょう。
このあとどうなる??
は、この先どうなる??
と同じような意味になります。
これは「さき」の不思議とも言っていいんでしょうが、「あと」も「さき」も、意味に差がない。
井上陽水のすごいところは、これを「想い出のあとさき」としているところです。
「想い出」がすでに、時間経過を味わっている段階でしょう。
「あと」も「さき」も同じ意味、あるいは交換可能な意味だったとして、「想い出のあとさき」という詩句が、記憶の時間軸を縦横無尽に行き来しているイメージを呼び起こします。
その上、その「想い出のあとさき」が、何について説明しているかというと、「夢」。
夢はつまり 想い出のあとさき
想い出の過去・未来を自由に行き来する記憶の旅・その感情の揺れ・薄れ行く情景、それがつまり「夢」なのだ、と言っているのでしょうか。
さて、「さき」という言葉には、空間的には「前」という意味、時間的には「未来」、または「過去」という2つの意味があるとわかりました。
なんと中世には、「さき」には過去を指す意味しかなく、「あと」には未来の意味しかなかったんだそうです。
日本で、中世に何が起こったのか。
今の我々は「未来はどこにある?」と尋ねられたら、抽象的ですけどなんとなく、やっぱり指差して、前の方を見ますよね。
でもその時代、未来は、背中側にあったと。
ちょうど、電車の最後尾に乗って、視界から消えていく線路を見ている、という感じでしょうか。
決して先頭車両で、現れる線路を期待する、という感じではなかったと。
それぞれの頭でイメージしていただきたいんですが、確かに「未来」は「未だ来ない」ものです。
だから、見えない。
見えないという意味では、背中側で問題ない。
時間の感覚として、目の前に現れるというのは「見えない段階から、見える段階にくる」という順番でしょうから、ずーっと前の方から見えてくる、というのは「未来」ではないと考えることができる。
背中から進んでいるイメージ。
過去は、起こったことだから、後ろから来て、目の前に広がる。
時間と空間を指し示す感覚が、その言葉が、ある時点をもって大きく変革する。
それには文化の熟成や、ひょっとしたら何か文学的な、先駆け的なきっかけがあったのかもしれません。
この「さき」「あと」問題についてはこの本に書かれていて、
…というか「アト」「サキ」について書いてあったこの本を紀伊国屋書店でパラパラ立ち読みして発見して「なんじゃこれワァアア」と思って買ったんですけどね。
もう二ヶ月くらい前です。
なぜ、未来は見えないのか
なにかここからヒントを得ようと思ってずーっと考えてるんですけどね、やっぱり、「未来は見えない」っていうのは「不安要素」ではないんですよ。
不安要素としてとらえてはいけないっていうか。
人間、確かに中世までは「未来というのは見えないから未来」という認識を持ってたわけですよ。
つまり、「見えないことは不安につながることではない」という認識だったってことでしょう。
そのぶん、過去にこだわりすぎて冷や汗出る、とかはあったかもしれないけど、少なくとも未来は、背中側にあるんだから。
そもそも「未来は見えない」んです。
「未来」、まぁ将来っていうとちょっとニュアンス変わりますけど、見えないものに不安を感じるっていうのは、これはあまりにも「余計な心配」っていうやつなんじゃないかな…と思わないでもないですよね。
たぶん、中世以前の人は、目に見えるもの(つまり過去)に責任とか意味づけというものを重大に感じていて、未来というのは、たぶん(未来という言葉はないにしても)そんなに深く考えることはなかったんじゃないでしょうかね。
自分が自分で自分をどうしていくかに無頓着というよりも、自分でやることは精一杯、今やるけれど、それによって本当にどうなるかなんていうことは、もうこれ見えないんだし知らんがな、っていう。
結果にはコミットしない、に似てる感覚かもしれませんね。
「あと」は、「さき」でもある。
「未来」は、「後ろ」からやってくる。
つまり「バック・トゥ・ザ・フューチャー」ってことですね。
実は1も2も3も、まだ観たことない…観るか…これをきっかけに…。