ある、テレビショッピングで有名な会社の社長が語っているのを聞いた。
「テレビショッピングを見ている人たちは、自分が何を欲しがっているかわかっていない。何か欲しいものないかな〜と思って見ている」と。
意訳だが、これは初めて聞いた時、とても驚いた。
それを意識して見てみるとその通り、確かにテレビショッピングの(上記の社長の会社とは別だが)惹句には「欲しいもの、見つかる」というものもあるy。
今までは、自分の買い物傾向や懐具合・季節感や経年劣化などから勝手に考えて、このコピーには「欲しくて探しているものが、ここにくればある!」という意味しかないと思っていたが、それだけではないということだ。
「何が欲しいかわからない人」が、眺めているうちに「これ、欲しいかも…!」という願望を芽吹かせる、という意味なのだ。
なんということだ。
自分を含め全ての人にとって、「まず絶対的な必要性があり、それを包含した“欲しい”という欲求があり、だからこそその欲求をスムースに満たすために、最適な商品をサーチする。合致すれば買う」のが買い物だと思い込んでいた。
もちろん、前掲の社長の言い分には「そのジャンルにおいて」という意味が含まれているとも取れる。
つまり「春に、ちょっと羽織る程度のジャケットが欲しい。軽くて丈夫、デザインも派手すぎず高価すぎないスニーカーが、どこかにあれば欲しい」という、ある程度絞ったジャンルがあって、ネットショップを駆使できずお出かけするには億劫だったりする人たちにとっては、見てみれば「買ってもいいかも」と思える商品がテレビさえ見ていれば紹介される期待値がある、ということだ。
だけど、やっぱり、ジャンルを横断して脈絡なく次々に紹介される商品たちを眺めていると、紹介され始めてから「うーん、これは…欲しいか…?欲しくないか…?」を決めてるような気分になる。
つまり「どうせ要らないからテレビ自体見ない」ではなく、「紹介されたものの中から、欲しいと思うものを探し出したい」という、極めて二次的な欲求に従おうとしているかのような現象が起こる。
そんな、副次的な願望の穴を埋めるためには、24時間、ハイテンションで利点をまくし立てるスタイルのテレビショッピングは合理的だと言えるのかも知れない。
とにかく「これは良い!良い!素晴らしい!メリットある!売れてる!」と間断なく言い続けているメディアが無料で流れ続けていることは、「買い物をしたい」という漠たる欲求を滲ませている視聴者にとっては、安心感となる。「こちらが休んでいようが見ていなかろうが、安定してなんらかの商品を紹介し続けてくれている人らがいる」という事実が、安心感を呼んでいる。安心感は親近感になり、親近感は購買意欲の下支えとなる。なぜか「買うならあそこから買ってあげよう」という依頼心まで生んでしまうのだ。
「何が欲しいかわからない」という現象は、「必要性」のたどり着く、終着駅なのか。
必要であるものはもう把握しており、大体持ってる。
だけど所有欲+購買欲という、必要性を超えた部分の満たされない欲望は「そんなに売り込んでくるなら買ってあげましょうか」という立場の強制的な移動(物理的には微動だにしていないが)によって掻き立てられる。
だから静かではいけない。
テレビショッピングの中の人は、大袈裟に金切り声をあげないといけない。
効果音を使って注意を引き付け、ハイテンションで大袈裟に振る舞わないといけない。
それはいわば「礼儀」であり「儀礼」でもある。
ハイテンションな大声でメリットのみを並べ立てる、その激しいセレモニーを通過することで、「購入」は個人の物語の一部となる。