鎌倉殿の13人

源義経はどこで自害した?

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ギケイキ

今いる場所は先日、突き止めたわけだが…。

今、義経がいる場所を突き止めた!

屠る気マンマン鎌倉殿

文治5(1189)年、源義経(みなもとのよしつね)は追い詰められた。

異母兄・源頼朝(みなもとのよりとも)は奥州に対し「天下の大罪人たる源義経をなんとかしろ」と迫った。
院宣をもって正式に国家の代表として追捕(ついぶ)する風を装ってはいたが、源頼朝にとってそんなものはどうでも良かった。まずは「どうしようもない条件を突きつける」ことで戦端を開こうとしたのだ。源義経を隠し通しても攻める、そうでなくても攻める。

源頼朝は平家を滅亡に追い込む過程で、西日本における「惣追捕使(そうついぶし)」、つまり総合軍事検察権を朝廷に認めさせ、任命されていた。4年前の1185(文治元)年11月には、それを全国に適用させ任に当たることを承認させていた。この1185年を持って「鎌倉幕府成立」とみなす説が現在は採られている。直属の地頭職(じとうしき)をくまなく置くことが認められたことをもって「「1185(いいはこ)つくろう鎌倉幕府」というわけである。

朝廷の論理や源平の合戦から距離を置き、中央からも武力衝突からも実質上独立し、オリジナルの論理と経済で繁栄して来た奥州は、全国規模の武士政権に飲み込まれようとしていた。

三代目・藤原秀衡(ふじわらひでひら)によって「匿われている」立場で平泉(現在の岩手県西磐井郡平泉町。世界遺産)に暮らしていた源義経だったが、やがてボスが亡くなってしまう。しばらく寝たきりだったようだが、跡目を継ぐ藤原泰衡(ふじわらやすひら)には「源義経を大将軍に立てて戦え」と遺訓を残していたという。

ところが源頼朝の圧力を恐れた四代目・藤原泰衡は、たった一年半ほどで源義経の首を、差し出すことにした。

藤原泰衡は500を超える軍勢を組織し、わずかの郎党しか従えていない源義経を襲った。

匿ってくれてた人たちが、今度は槍を並べて殺しにくる側になったのだから備えも反抗もろくにできるものではない。31歳の源義経は、まず我が子を殺し、我が妻も殺し、自分も果てた。

それにより「ほら。殺したでしょヨシツネ。私悪くないでしょ?」と罪一等を免れようとした四代目・藤原泰衡だったが、源頼朝は許さなかった。そもそも最初から奥州藤原氏を滅ぼすつもりだったからだ。

源頼朝軍はさらに北上し、藤原泰衡を追い詰めて行ったが裏切りは同じように、藤原泰衡を襲った。

側近・河田次郎(かわだじろう)が、主君である藤原泰衡を殺し、首を持参して源頼朝のところへやって来たのだ。

「ほら。殺したでしょヤスヒラ。私悪くないでしょ?」。

こちらも同じように罪一等を免れようと手柄を立てたつもりだったが源頼朝は激怒。

「泰衡などはすでに追い詰め、我が掌中にあったのだ。お前ごときの助けなど要るものか。貴様は、恩ある主君を裏切ったのだ。」と、河田次郎を極刑に処した。

思えば源頼朝の父・源義朝も、平治の乱で敗れて逃走中「ここなら安全」と立ち寄った知多半島で、同行していた鎌田政清(かまたまさきよ)の妻の父・長田忠致(おさだただむね)に裏切られ、殺されていた。

家人(けにん)であった者を信用して身を寄せたのに自分の利益のためだけに裏切るという行為、敵とは言えその浅ましい様子(とたぶんムカつくツラ構え)に、源頼朝はそうとうアタマに血がのぼったと思われる。

源頼朝の、恨みの根源。「野間大坊」

行ってまいりました

坂を登ると、案内板があった。

 

高館義経堂

ここ高館(たかだち)は、義経最期の地として伝えられてきた。
藤原秀衡は、兄頼朝に追われて逃れてきた義経を平
泉にかくまう。しかし秀衡の死後、頼朝の圧力に耐
えかねた四代泰衡は、父の遺命に背いて義経を襲っ
た。文治五年(一一八九年)閏四月三十日、一代の
英雄義経はここに妻子を道連れに自刃した。
時に義経三十一歳。
吾妻鏡によると、義経は「衣河の館(ころもがわのたち)」に滞在して
いたところを襲われた。今は「判官館(はんがんだて)」とも呼ばれ
るこの地は、「衣河館」だったのだろうか。
ここには、天和三年(一六八三年)伊達綱村の建
立した義経堂があり、甲冑姿の義経 の像が祀られ
ている。
頂上からの眺望は随一で、西に遠く奥州山脈、眼下
に北上川をへだてて東に束稲(たばしね)の山なみが眺められる。
束稲山は往時、桜山とも呼ばれ、西行(さいぎょう)が山家集で
「ききもせず 束稲山の桜花 吉野の他にかかる
べしとは」と詠じた。
また、元禄二年、俳聖松尾芭蕉が「おくのほそ道」
で詠んだ「夏草や 兵(つわもの)どもが 夢の跡」は、
この場所といわれている。

平成六年四月

平泉観光協会

高館義経堂
https://www.motsuji.or.jp/gikeido/

場所はここ。

確かに眺望は抜群。
高台の上にあり、見事な風景が東西に広がっている(現在は西側は木々で見えないが)。

位置的にも、ここから南東に見下ろす形で平泉の政務官庁「柳之御所」があり、三代藤原秀衡が計画していた「源氏の御曹司を総大将に戴く」という方針を、パッと見た目でわかりやすく現す場所でもある。
平泉、そして奥羽のトップである藤原秀衡様がさらに上に推し戴く人の「館(たち)」として、絶好のポジションにある。

さらに階段を登った先に立っている。

凛々しい上に白塗りなのね、顔。

義経堂の横にはさらに供養塔が建てられていた。

宝篋印塔造立の銘

藤原秀衡公
源 義経公  八百年御遠忌
武蔵坊弁慶

追薦善法○厳修 於義経堂宝前

至心発願 一山衆徒 宝塔造立
将軍判官 他界主従 祥忌追福
滅罪生善 威徳顕揚 哀愍納受
経説に、人此の宝塔を拝すれば
先亡類親、極楽慾生 其身富貴
と、遊士 一偏の回向を請う
敬白

昭和六十一年 四月二十九日
造立功徳主 毛越寺貫主
大僧正○○○中
○一山○○
銘文撰書 毛越寺○事長
僧正○里○亮

石工 平泉 泉城

○西文治

この「宝篋印塔(ほうきょういんとう)」というのは、内部に『一切如来心秘密全身舎利宝篋印陀羅尼経(いっさいにょらいしんひみつぜんしんしゃりほうきょういんだらにきょう)』を納めるために建てられるものだそうだ。

上の義経堂の案内サイト内に書かれている通り、

運命に翻弄され、この平泉で31歳という短い人生を終えた義経公、そして、義経公を信じ戦い抜いた弁慶。それぞれの生涯に思いを馳せ、心からの供養を行うのに、この高館はふさわしい場所だと思われます。

というのはまったくよく理解できる。
その気持ちでここに、平泉を見下ろす形で義経堂を建立し供養したくなる気持ちは、すごくわかる。

800年経ってもまだ、「源義経はかわいそう」という気持ちが日本人の中には色濃く残っており、例えそれが『平家物語』『平治物語』『義経記」』などの創作物で造成・増幅されたイメージであったとしても、日本人にそれを受け入れる素地がそもそもあったからこそだ、であることは間違いがない。

まさに「高い館」である高館に登ると、ここから源義経は晩年(と言っても30歳ごろ)、どんな思いでここに立っていたのだろうか…と思わずにはいられない。

ほんとにここだったのか!?

ただ、案内板にあるように、

吾妻鏡によると、義経は「衣河の館」に滞在して
いたところを襲われた。今は「判官館」とも呼ばれ
るこの地は、「衣河館」だったのだろうか。

という疑問が出てくる。

『吾妻鏡』は鎌倉幕府の公式記録として書かれたもので、その成立年代は1300年ごろだ。
すでに源頼朝の血筋は断絶し、北条氏が実権を握っている。
北条氏に都合の悪いことはほぼ書いておらず、源頼朝存命期のことなどもなかなかにいい加減だったりする部分もある。

「平泉における、源義経の居館の位置」などは、100年以上経った鎌倉武士にとってはそう興味がある(調査すべき)事項ではなかったのだろうと思われる。
どうでもいいので「衣川館ってここでしょ?ここでいいでしょ?」と決めてしまった感がある。

そう、この場所、義経堂のある場所が「衣河館なわけがない」のだ。

まず「衣川」という川は、高館のもっと北にある。
すぐ横に北上川が南北に流れており、どちらかというと「北上舘」と読んでしまいたいくらいの場所にある。当時の川筋は現在とは異なるが、蝦夷(えみし)と呼ばれ、重厚な意味合いと歴史観を持って平泉に本拠地を置いた初代・藤原清衡(ふじわらのきよひら)、そして平泉の人々が、この高館のある場所を「衣河館」などと呼ぶわけがないのだ。

 

源義経の居館は、その名の通り、衣川以北、にあったと考えるのが妥当だ。

もちろん、高館にいたこともあっただろう。
しかし、最期はもっと北側だったろうと思う。

現在の発掘調査などでは、衣川の北川、「接待館遺跡」と呼ばれているところが、源義経最期の場所だったのではないかと言われている。

こういう史跡がある。

武蔵坊弁慶立往生旧跡

有名な「弁慶の立ち往生」の場所だ。

弁慶は数多の矢を全身に受け、それでも立ったまま、主君を守って死んだ。

「立ち往生」が「にっちもさっちもつかなくなって留まる」みたいな意味で使われているが、「往生」はそのまま「死ぬ」という意味だから、「立ったまま死んでる」のインパクトは何百年も通用するのだ。それくらいの豪傑。

もちろん弁慶にまつわるエピソードはほぼすべて創作である。

実は「立ち往生」も、モデルがある。
それは三国志の時代、中国。
悪来典韋(あくらいてんい)という豪傑が、
曹操(そうそう)の家来だ。
ものすごい怪力・巨漢で、忠義に厚く武力に優れていた。
ちょっと間抜けなところもあり憎めない。

曹操に見出されたとき、「お前、典韋(てんい)っていうのか。まるで悪来(あくらい)の再来だな」と言われた。
悪来というのは、殷の末期の豪傑。
「強いやつ」の代名詞になっており、典韋はそれをあだ名としてつけられたということだろう。

日本では家でだけ大きな口を聞く子供などのことを「うち弁慶」と読んだりするが、「強い者」はそうやって、いつまでも続く歴史上、日常生活にも顔を出す。

この悪来典韋、宛城の戦いで、張繡(ちょうしゅう)軍から放たれた無数の矢を浴び、立ったまま死んだ。

この故事、「義経記」などが成立する室町時代には伝わって来てたのだろう。

そして、永福寺

『吾妻鏡』には「源頼朝が永福寺の修繕を急かされる霊夢を見た」とあり、義経や泰衡を討ち滅したが彼らも朝敵ではなく、永福寺(ようふくじ)は奥州征伐の戦没者すべてを弔い、慰霊するという目的が綴られている。

二階建てのお堂だから二階堂!【永福寺】

先述の通り、『吾妻鏡』は100年以上経った後、北条得宗家によって書かれた政治史なので「もう彼らの名誉は回復したとしてもよろしい」と当時の幕府関係者が考えたと言えるのだと思う。もうええやん、と。

その方が、全員に功徳を施したとしておいた方が幕府・源頼朝としても聞こえがええやん、ということだ。

でも存命中、源頼朝は絶対許してなかったと思う。

源義経には「北行伝説」が残る(弁慶も同行か)。

だがそのためには腰越(こしごえ。神奈川県)で行われた首実験にも耐えなければならず、源義経の顔をよく知る梶原景時(かじわらかげとき)らの目を誤魔化せたとはとうてい思えない。もし彼らが「判官贔屓」でスルーしてくれてたら…などと考えたりもするが、それこそが判官贔屓というものだろう。

いくら追われて生き延びたからと言って、源義経がそのまま北海道に渡りましてや大陸へ…チンギスハーンに…などという、気宇壮大なプロジェクトを遂行できたとはとても思えない。源頼朝が持っていた「武家政権」のヴィジョンすら理解できていなかった彼である。汚名を着たまま本朝から逃げることはそのまま、死に値する。だから潔く死を選んだのだ。

一緒に殺された妻子はたまったものではないが、彼女らの墓が金鶏山(きんけいざん)にあった。

源義経公妻子の墓
源頼朝の威圧に依って藤原泰衡が
高館に義経公を襲った。義経公は
北の方と幼児を殺害し、自害した
と伝えられる。時は平安時代の文
治五年(西紀一、一八九)閏四月三十
日、三十一歳で最期を遂げられた。
このお墓は、高館で悲しくも露と
消えた妻子の墓と伝えられている
が、元は千手院境内で、ここから
約三百米程の西北金鶏山の山麓
あったが、ここに墓石を遷し供養
を怠らない。

急に強い口調で終わってドキッとする感はあるが、地元の有志の皆さんの手によって、しっかり祀られていた。

「西北金鶏山の山麓」と書いてあったのでこの、左の山道を登っていけば…というところなのだが、金鶏山は低い山とは言えこの場所、すでに人の気配は皆無(観光客はまず来ない)で、風に靡く木々の音がするだけである。

「これを進むとクマちゃんとエンカウントしそう」というムードがムンムンにしており、風の速さで引き返した。

 

源義経は平泉で旅を終えた。

平泉は「東北のちょうど真ん中」である。
たとえば中尊寺(ちゅうそんじ)はその「中心」を司る「関寺」の機能を有していた。

衣川が軍事境界線であった時代もあるがゆえ、それを南に超えた…というところに、初代・藤原清衡は、見た目でわかる重大な意味を持たせたのだ。
三代目・藤原秀衡は、衣川以北に源氏の御曹司に居館を設けていていただくことで、奥羽の守りの要になっていただく、という意味合いを含めたのかも知れない。

奥州・鎌倉・京都の鼎立政権。

藤原秀衡がそこまで描いていたかはわからないが、東北の皇帝・三代目の死後わずか1年半で、100年続いた奥州藤原氏の栄華は衰滅する。

源頼朝は最初からやる気だった。
源義経が後戻りできるポイントは、もっともっと前だった。

富士川の戦いの後、初めて兄弟は見(まみ)えた。
だが弟への・源家一族としての思いとはまったく別で、「奥州滅亡」は源頼朝の脳内にずっと描かれ続けていたのだ。

逆に言えば、源義経を支援している風な奥州藤原氏は、源義経が手の内にいる間は東北からは出ず、攻めてこない。

大天狗・後白河法皇が「源頼朝追討」の院宣(いんぜん)を出していたらことはどう運んだかわからないが、それが出る前に源頼朝は、実質的な軍事力の拡大に成功し、それを背景に「奥州征伐」の大義名分を得た。

その生贄として、源義経が必要だった。

一ノ谷→八島→志度→壇ノ浦と、彼がどんな戦果を上げようと、京からどんな勲(いさおし)が聞こえてこようと、東北侵略・奥州制圧・全国統一の野望の前には、源義経の命が犠牲として、捧げられなければならなかった。







-鎌倉殿の13人
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