鎌倉殿の13人

伝源頼朝像は頼朝ではないのか、頼朝なのか

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国宝。

 後白河法皇(ごしらかわほうおう)崩御後、仙洞院の室内に掛けられていたという絵たち。

源頼朝(みなもとのよりとも)、平重盛(たいらのしげもり)、藤原光能(ふじわらのみつよし)の肖像画だとされている。

平重盛は平清盛(たいらのきよもり)の長男。他の兄弟に比べて相当優秀だったとされる後継者だったが、惜しまれつつ父・平清盛より先に死んでしまった。後に残った無能中の無能・平宗盛(たいらのむねもり)のせいで平家はやたらスピーディに滅んでしまったとまで言われているが、逆に言えばもし彼がもっと長生きしていたら平家は、壇ノ浦に追い詰められて撃沈されるというような無惨な流れにはならなかったのかも知れない。

藤原光能は優秀な公家。後白河院の側近だった。この人が源平合戦の直接的きっかけとなるような院宣を出してもらうよう、後白河法皇に働きかけたとも言われている。

源頼朝ではない!?

「伝源頼朝像(でんみなもとのよりともぞう)」が、実は足利直義(あしかがただよし)を描いたものだった、という説が美術史学者・米倉迪夫氏から出されて波紋を呼んだ。

神護寺はその説をにべもなく否定している。

現時点では、伝源頼朝像の表記を変更する必要はない。

と言い切っている。

絵に「源頼朝像」と書いてある(画賛)わけではないので客観的には「伝、としか言いようがない」のだが、源頼朝→足利直義の比定は、いささか強引すぎるだろうということらしい。

神護寺 寺宝紹介
http://www.jingoji.or.jp/treasure16.html

さらに「源頼朝→足利直義」だけでなく、「平重盛→足利尊氏(あしかがたかうじ)」、「藤原光能→足利義詮(あしかがよしあきら)」だという説も提示されていたりする。足利義詮は鎌倉攻めにも参陣した、足利将軍の二代目だ。

 

源頼朝の地位

源頼朝は、位階としては最終的に「正二位(しょうにい)」にまで昇った。
もう上には従一位/正一位しかないわけだから、武士としてはほぼトップの出世である(平清盛は従一位)。位階というのは現在もあるが、この当時は「人間の価値」そのものだ。この位階が高くなれば、この世での存在価値が自動的に高くなり、言ってみれば「神にどれくらい近いか」というような意味を持つ。一説によれば高級貴族の残り湯を飲めば万病に効く、とかそのレベルである。

長らく佐殿(すけどの)と呼ばれていたが、それは彼が13歳の時に右兵衛権佐(うひょうえごんのすけ)に任じられたからだ。
ところがすぐに平治の乱が起き、源氏は負けたので解任されてしまった。
たった15日間しか任官しておらず、すぐに「前」右兵衛権佐(「さきの」うひょうえごんのすけ)となった。位階は「従五位上(じゅごいのじょう)」だった。

伊豆での流人生活中、源頼朝周辺の人々はとりあえずの敬意を持って、かなり前の彼の役職から「佐殿」と呼んでいたようだ。通常、名前で呼んだり出来るのは親しい人だけなので、ドラマや映画のように「頼朝殿!」などと呼ばれたりはしない。

都の宮殿を守る「兵衛府(ひょうえふ)」という役所には左右あり、右兵衛府と左兵衛府に分かれる。

王宮を守護する役所には他に近衛府(このえふ)と衛門府(えもんふ)があり、これらもそれぞれ左右がある。

つまり

右兵衛府
左兵衛府
右近衛府
左近衛府
右衛門府
左衛門府

があるのだ。
これを「六衛府」と呼ぶ。

「南斗六聖拳」のアイデアはここから来てるんじゃないかな…などと思う。違うかな。

衣装のかたち

肖像画のモデルが着ているのは、強装束(こわしょうぞく)と呼ばれる、糊付けされた衣装。
秀吉像も家康像も、同じようにパリッと肩が張った衣装で描かれているのが印象的だ。

平安末期、それまで「柔(なえ)装束」と呼ばれた柔らかな衣装が常識だったのだが、パリッとした固く、生地も分厚い衣装が流行した。

菅原道真くらいの時には中国風に、ドレンと柔らかに垂れた感じだったのが、平安末期からは肩がトガってるくらいの、バキバキに固いのを着るのこそがかっちょいい、となったのだという。

確か1980年代にも肩パッドを入れてないとカッコ悪い、くらいのブームがあったような気がするが(トレンディドラマとか)、今それを「リバイバルか、ワザと以外で」やってる人はいない。
ほんと、流行って恐ろしい。

日本服飾史
強(こわ)装束と柔(なえ)装束
https://costume.iz2.or.jp/column/40.html

 

これは源頼朝か!?

源頼朝はそもそも清和源氏なので、清和天皇の血を引いている。
臣籍降下した血筋とはいえ「貴種」と言っていい。
よくわからない地方の豪族とは違う。
しかも母親の血筋も歴としたものなので、その気位はそのそも高かったのだろうと思う。

前掲の書の中で米倉迪夫氏は、冠の形式が鎌倉時代末期以降のものであったり、太刀が13~14世紀のものであることなどを考慮し、描かれているのは源頼朝より後代の人がモデルだと主張した。

しかし京都国立博物館の説明では

相好に見られる微妙な立体感の表現には、鎌倉前期の写実の精神がみられる。

と書いてある。

京都国立博物館
伝源頼朝像
https://www.kyohaku.go.jp/jp/collection/meihin/shouzouga/item01/

が、源頼朝と同時に掲げられていたとされる平重盛像が足利尊氏で、源頼朝像とされていた絵は足利直義、つまり「源平二大巨頭」ではなく「室町幕府創立兄弟」だ、というのには一定の信憑性がある。

康永四(1345)年の、足利直義による文書(『直義願文』)に「神護寺に、阿含経内一軸と共にわが兄弟の画を奉納する」と書かれた部分があるそうだ。だがその「画」が「この2つだ」とは書いていないのだからややこしい。時間が経って、誰も本人らの顔は見たことがないんだし仕方がない。写真もない。

時代が後になっても昔の人を描くことはできるわけだから、室町期に描かれたとしてもそれが「これはあの、源頼朝です。」という可能性はあるだろう。どちらにしても、本人に座ってもらって描いたというわけではないのだし。

逆に、鎌倉時代に足利兄弟を描くことは不可能だから、重要なのは「いつ描かれたかの測定」ということになってくる。

仮に足利直義が死んだ年に書かれたとしたら1352(正平7)年だ。源頼朝の死んだ年は1199(建久10)年。150年くらい開いてる。この差異は、何か科学的な方法で分かったりしないんだろうか、国宝だからもうそうそう調査したりできないんだろうか。

模写の存在

「源頼朝像」には模写があり、それは大英帝国博物館にあるらしい。

その模写絵(南北朝時代の作)に、画賛(絵画を賞賛する意味のことを絵の余白に書き記したもの)が書かれており、そこに「征夷大将軍」などといろいろ書いてある。
そしてその文章は信憑性が薄く、もしかすると明治以降に適当に書かれたものだとしたら、模写の文を読んで本体を「そうだ」と決めつけてしまっている可能性は、ある。

源頼朝像(大英博物館所蔵)
https://www.museumanote.com/creations/view/57f3f1f9-1248-4d2a-b373-65a631d49af6

右上の「画賛」部分

征夷大将軍源頼朝
養和辛丑年初 白旗於蛭嶋
遂撃沈専横平族壇浦、文治
丙午歳開幕府于鎌倉、以総六
十余州之兵権、而能○ ○広
元政策守 天皇撫万民、
可謂発武門之光輝、尽武士
之本能也、讃曰
深沈大度喜怒不形、能清
○土勤護 朝廷、一天無事
四海安寧、○俊行実○徳
長磐

テレビ番組などでも「源頼朝・鎌倉」と言えば必ずと言っていいほど出てくるこの肖像画だが、「足利直義なのか…」と思って眺めると、これまたそう思えてくるから不思議だ。

先述の通り、本物を所蔵する神護寺はその説に猛反発している。
なにせ「国宝」だから。
もう「ヨリトモ」でよろしおへんか!?とキレ気味である。

これは、「セット」で考える必要がある、と思った。

行ってまいりました。

特別展
「やまと絵 -受け継がれる王朝の美-」

https://yamatoe2023.jp/

 

正直な感想

実物を見て、はっきり思った。
あれは「源頼朝」だ。

あの威厳、凛々しさ、美しさ。

そしてあの「重盛」が、尊氏なわけがない。
あれが尊氏なわけがない。
室町幕府将軍を、あんな感じで描くわけがない。

例えばあれが「頼朝→直義」で、「重盛→尊氏」であるならば、どう考えても「弟の直義の方がはるかに立派で、厳格で流麗、繊細で高貴な雰囲気を纏っていることになる。

観応の擾乱の渦中で殺されたとされる直義を、尊氏より立派に描きそれを受け継いでいく、などということがあるだろうか。

個人個人、顔の特徴はあれどこの当時の肖像画は「当代、似せた方の勝ち」というような、ビッグコミックの表紙を手がける金子ナンペイさんのような脅威の技術とその業績をもって評価するのとはまったく違い、故人の供養のために描かれることが多かった。

足利直義が「この絵を奉納します」と存命中に言っている絵の存在は理解できるが、わざわざ室町時代にその幕府の創始者である足利尊氏を、あんな感じの顔に描く必要性が感じられない。

別に「平家の首魁だった重盛を貶める」という意図まであろうとは思わないが、足利直義(伝源頼朝)の肖像画があんな感じの気品と威厳に満ちた姿なら、足利尊氏(伝平重盛)はもっと荘厳な、厳(いかめ)しい、武士の棟梁としてNO流麗で、品格の高さとオーラを備えていなければ辻褄が合わない。

「だって足利尊氏ってこんな感じなんですもん!」と正直に相貌を描く必要性がまるでない、ということだ。

わざと死後、なんらかの意図を持って(伝聞を元に)、それなりの差異をつけて描いたとしか思えないのだ。

 

伝源頼朝坐像

ちなみに東京国立博物館、常設展がとんでもなくすごい。

ここに、源頼朝の木像がある。

伝源頼朝坐像
https://www.tnm.jp/modules/r_collection/index.php?controller=dtl&colid=C1526&t=type&id=8

鎌倉鶴岡八幡宮で伝えられてきたものだそうがが、こちらの方が、実際の源頼朝に近いんじゃないかという感じがする。あの絵のように、そこまで神格化された閑雅さはない。

下半身どうなってるの?なんで足ほり出してるの?という疑問はあるが、この坐像の顔はなんだかふっくらとしていて、彼の中に流れる鷹揚とした貴族の血それでいて源氏の怜悧で酷薄な性格をすら感じさせる、妙な説得力がある。

「拝領の 頭巾梶原 縫い縮め」

という川柳があるくらいに、「梶原景時(かじわらかげとき)がもらった頭巾を縫わないといけなかった」レベルに源頼朝は頭が大きかった、という伝説の信憑性すら感じられるので、ぜひ両方見ていただきたい(やまと絵展は平成館、この坐像は本館にある)。

これらの国宝の絵のうちの2つ(源頼朝・平重衡)の「本物」は、毎年5月1日〜5月5日、曝涼(虫干し)のために京都国立博物館から神護寺に引き渡され、一般に公開される(有料)。

 

 







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