2018年3月、勝手に将門さんに集中的に少しだけ詳しくなった私。
上の記事では、大都会、東京の大手町にある「首塚」へ行きました。
京都でさらし首にされた将門さんは、死して捲土重来を期し「ぐぬぬぬ」と飛び、関東へ向かいました(首だけでの飛翔)。
途中、力尽きて「芝崎」というところへ落下。
それが江戸城になり皇居になった場所のほど近く、大手町のビジネス街になっている場所なのです。
そして胴体は…実は坂東の地、まさに茨城県坂東市にある。
将門さんが殺されてから、朝廷側による残党狩りは凄まじかったそうでとても「残りの胴体をここに埋葬しまーす」などはできるはずのないことだったんでしょうけれど、相馬御厨(そうまみくりや)の神領であったがゆえに犯されず、今に至っている、のだそうです。
「御厨(みくりや)」というのは皇室とか伊勢神宮などの、当時から絶対不可侵であった権力の持つ荘園のこと。
いかに勢いがあっても「調べさせてもらうぞ!」とはいかなかったんでしょう。
それが、延命院。
ここにあります。
この地名「神田山」は別名「将門山」。
広大な境内は、空気も澄明で清々しい。
桜は過ぎてしまいましたが、空気の良いところです。ここは田舎だ。
中に入ると、幾つものお堂が。
もうちょっと早かったら、桜、綺麗だったでしょうねえ。
歩き回ると…
書いてありました。矢印はどっち向きかわからん。いえ、右、だとすぐわかりました。
これかな?
「大威徳将門明王」と書いてあります。
「南無阿弥陀佛」もある。
おや、左の奥にお地蔵さんが何かを取り囲んでいるぞ…?
ここが「胴塚」のようです。
後ろには巨木が。
立派な「顕彰碑」が建てられてあり、
傍らにあった掲示板には顕彰碑の由来が書いてありました。
延命院の将門山(神田山)
平将門は天慶三年(九四〇)二月一四日の夕、戦に敗れて本陣に帰る途中で矢に射られて三十八歳の生涯を閉じた。首は京都に送られたが、後に武蔵国柴崎村に葬られた。胴体はこの延命院境内の一隅に埋められて将門山と呼ばれた。この地は相馬御厨の神領なので将門山はあばかれることなく今に及んでいる、
昭和五十年に「南無阿弥陀佛」の碑は東京都の「将門塚保存会」からの寄贈、「大威徳将門明王」の碑は延命院住職倉持照最氏の寄進、顕彰碑は岩井市民の浄財によって建設された。昭和五七年二月
岩井市
岩井市観光協会
なるほど、先ほど出て来た、将門さんの首が落ちたという「芝崎」は、「柴崎」とも書くんですね。
もちろん、当時は「将門山」なんて名前はつけてなかったでしょう。
「ここだけは絶対探すなよ!」って花紀京やがな。
「将門記」によると、将門さんは優勢に戦を運んでいたのに風向きが変わり、矢を受けて死にました。
なにせ将門さんは体が鋼鉄でできていて、矢が通じなかったんですが、体のうち一箇所だけ、弱い部分があった。
「コメカミ」だとも「片目」だとも「首の後ろ」だとも言われていますが、そこを射抜かれて死んでしまった。
その弱点を敵に漏らしたのが「桔梗」という女だったので、この地域の人たちはいまでも桔梗という花を飾ったりはしない、んだとか。
おや、花、桔梗?「ここだけは絶対に探すなよ」?
そしてまた、将門の紋である「九曜紋」が、キュウリを輪切った時の感じに似ているから、この地域の人はいまでもキュウリを食べないんだとか…まさかぁ。
とにかく「最強の武将にも弱点があり、かなりの偶然さえなければ、負けることはなかったんだ!」という気持ちが込められているような、そんな気がしますね。
九曜紋。
いま、私たちのスケジュールは月〜日の「七曜」にしたがって動いていますが、これに「計都」と「羅睺」を足したのが「九曜」。
「九曜」というとインドからの伝承なんですが、「九星」というとこれは中国伝来のものになる。
いわゆる「一白・二黒・三碧・四緑・五黄・六白・七赤・八白・九紫」っていうやつ。
この紋どころの騎馬隊が現れたら震え上がる…そんな最強の軍団をかって、平将門はこの地域の支配を強めていったんですね。
いよいよ「国王神社」へ。
「胴塚」を参拝しまして、次はいよいよ「国王神社」へ。
だいたい「国王」なんていう名前は、おいそれとつけられるものじゃないでしょう。
ここにあります。
つきました。
なんかこう、オープンというか誰でも入っていい感じというかただの森林公園ぽいというか、神社って基本、どこもそうですけどなんか閑散というか誰もいない感じ…。ここは裏手か。
正面に回ってみました。
ずーっと奥に、拝殿が見えますね。
やはり桜は散っていた。
(武家時代文化ライン)
国王神社祭神は平将門である。将門は平安時代の中期、この地方を本拠として関東一円を平定し、剛勇の武将として知られた平家の一族である。天慶三年(九四〇)二月、平貞盛、藤原秀郷の連合軍と北山で激戦中、流れ矢にあたり、三十八才の若さで戦死したと伝えられる。
その後長い間叛臣の汚名をきせられたが、民衆の心に残る英雄として、地方民の崇敬の気持ちは変わらなかった。本社が長く地方民に侵攻されてきたのも、その現れの一つであろう。
本社に秘蔵される将門の木造は将門の三女如蔵尼が刻んだという伝説があるが、神像として珍しく、本殿とともに茨城県文化財に指定されている。
坂東市
近づいてきました。
なんだか厳かで清明で、かつ異様な雰囲気。
茅葺きの拝殿、圧倒される威風があります。誰もいません。
参拝をし、覗かせてもらうと…
おお、将門さんの神像が飾ってある。見た事ある!どなたが描かれたものなんでしょうね。かなり大きいです。迫力ある。
奥には本殿が。
御神像はさらにその奥に祀ってあるんでしょうか。
参拝を終え、拝殿を右手へ回り込んでみました。
ほら、拝殿(左側)と本殿が連結してますね。
真裏。
なんでしょう、故事を表した見事な彫刻が施してあります。よく見ると人物に顔がツルッとなくなってるんですけどなんでなの。
境内には、様々な祠、石碑、お堂がありました。
お地蔵…さんじゃない!強そう。
ここは宝物庫、なのかな。
それにしてもお供えしてあるお酒がぜんぶ「鬼ころし」なのはなんか決まりでもあるわけ??
ここは「神札授與所」と書いてあります。
そういう時には、賑わうんでしょうねえ。
「将門まつり」は11月、なのかな?
坂東市「岩井将門まつり」
http://www.city.bando.lg.jp/sp/page/page001796.html
…というわけで、「国王神社」「将門の胴塚」来訪は以上で終わりです。
ここ、夜に来たらめちゃくちゃ怖いだろうなという感じ。
朝に来た私も、あまりに誰もおらず管理者の気配すらせず、鳥の声と木々のさざめきしかない中に立っていた数分間、ちょっと「あ、怖い」と思ってしまいました。
それは、もちろん恐怖ではなく畏怖。ここのところ私は将門さんの偉業と足跡を知るにあたり、ただならぬ親近感と崇敬の念を持っておりまして、同時に「あ、ここ、また来るな…」と再訪を直感したのも事実であります。
東京のビジネス街にある「首塚」は、怨霊だの災いだのという方面から「祟らないでね〜」という低レベルの感傷が偏見として固着しているように感じていたのですが、本拠地・岩井(昔は石井と表記していたらしい)へ来てみると、「当たり前の尊崇」があって「古いけど大事」な伝統があって、だけど田舎だなぁオイ!っていう喜びも同時にあります。
平安の世の中心・近畿圏、都のちまちました「山・川・町・喧騒」っていう感じと比べると、今でさえ「ずっどーーーーーんん!」みたいな平野が広がってる。どこまでも続く漠たる平地。その割に沼沢あり河川あり、その肥沃さは「我、立てり」と言いたくなるほどの力を蓄えるのにじゅうぶんだった、という事なのでしょう。
この地域の人らからしたら、東京や京都の人が言う将門イメージに対して「誰が怨霊やねん」という怒りもあると思います。
悪いのは中央、貴族、エリート、お高く止まってる連中、なんですから!
あっ、「将門煎餅」、探すの忘れてた!
次回、買いたいと思います。
都心からも常磐道で、割とすぐにいけます。1時間半とか。
ぜひどうぞ。皆様にも将門公のご加護がありますように。