永福寺。
源頼朝(みなもとのよりとも)は文治5(1189年)末、鎌倉に巨大な寺院の建設を始めた。
同年の「奥州征伐(奥州合戦)」で犠牲になった自軍の兵士たちの供養、そして敵方や巻き込まれた人々の供養・鎮魂のための施設だ。
しっかり鎮魂・慰霊をしておかないと無念を飲んで死んだ人は怨霊になるよ?という恐怖が菅原道真(すがわらみちざね)の昔より日本人には抜き難くあり、とりわけ陰陽道にすら右往左往している貴族社会の常識では、逆に鎮魂さえしっかりしておけば因果応報は発動しない、という考えもあったように思う。
なんだよ、自分のやったこと…弟の源義経(みなもとのよしつね)を追い込んで殺したこと、もしかしてちょっと悪いと思ってるんじゃないの?
平安貴族が都でやってた浄土信仰が、大きく影響している。
なにせお釈迦さまが死んで2000年を経ると正しい世界が消滅し、「末法の世(とんでもない終わりの世界)」が始まってしまうという考えが貴族の間で流行し、なんとか「この世の終わり」から逃れ、あの世で阿弥陀如来に救ってもらうのだというオカルト思想に取り憑かれた貴族たちは、「この世にある浄土」を作って「まぁこういう感じよ…いける!これでいける!」という妄想に浸った。もちろんこれはトップクラスの超高級貴族だけの話で、庶民には関係のない世界観だったと思う。10円玉の裏に刻まれている平等院鳳凰堂が京都の宇治に完成したのが永承7(1052)年だ。
そして、奥州征伐で訪れた平泉で見た「毛越寺(もうつうじ)」、「無量光院(むりょうこういん)」の壮大さを見て源頼朝は「これ、鎌倉でもやろう」と思いついた。
帰ってきてすぐ着手した。
それが永福寺だ。
永福寺と書いて「ようふくじ」と読む。
なぜ「ようふくじ」なの?
東京の杉並区に永福町という地名が(京王線の駅も)があるが、これは「えいふくちょう」としか読まない。平安・鎌倉時代に漢字をどう発音してたかなんて誰にもわかっていないはずなのに、なぜ「えいふくじ」ではなく「ようふくじ」だと言えてしまうんだろうか。謎だ。
「永」を「よう」なんて読むのか?
「永永(ようよう)」という単語がある。
永久に、とこしえに、永遠に、というような意味だ。
読み方に「えいえい、とも」と書いてあるので、どちらでも良いようだ。
もしかすると当時から「えい」と「よう」は同じ部類に入る発音法だったのかも知れない。
モンゴルのホーミー、っぽく口を狭めて「ぃえ〜〜〜」と言ってみると「よぇ〜〜」と聞こえなくもない。
「ヤ行」で言えば「やいゆえよ」というやつで、確かに「え」と「よ」は近い。
どちらかと言うとこの辺りは「ぃぇ」みたいなところから始まる発音だったのだろうか。
わからない。
ウィキペディアをみると、「鎌倉幕府時代の当時は河内国の叡福寺に習って「えいふくじ」と読んだ。」と書いてあるえええええ!?
「えいふくじ」っていう発音も普通にあるのかよ。
そりゃあるだろう。
「比叡山」はたぶん「ひようざん」と発音することは許されなかったのだろうし、当たり前に「ヒエイ」としか読めないということか。
ここでさらに、臨済宗の開祖「栄西」の存在が出てくる。
お茶の文化を日本で広めたとも呼ばれる鎌倉時代初期の高僧だ。
この人のことを「えいさい」だけでなく「ようさい」とも言うというのだ。
ということは、「エイでもヨウでも」という範囲が漢字にはあり(永・栄)、比叡山の「叡」ように「エイとしか読まない」漢字もあったということなのだろうか。偶然だろうか「永」も「栄」も「叡」も、すごく良い意味が込められている。
その時代の発音は現代からは窺い知ることが出来ないが、今とはまったく違う論理で発音が区分けされていたというのなら、それもまたロマンの一つだなぁと思う。
寡聞ながら「なぜ永福時のことをえいふくじでなくようふくじと呼ぶのか」が書かれた文章にはまだぶち当たっていない。
どこかの史料にルビが振ってあったんだろうけど、「ヨウ」ともし書いてあったとしても我々のように「よう(YO-U)」と発音していたかはわからない。
ちなみに奈良県北葛城郡王寺町に「永福寺」というお寺があるが、特に注記もないのでおそらく普通に「えいふくじ」と読むのだろうと思う。
永福寺は、再建されなかった。
だから現在では「永福寺跡」として史跡として保存され、公園として市民の憩いの場になっている。
永福寺は「サロンとして機能していた」と紹介されることが多い。
鎌倉は武士の街として作られていったが、その中でも将軍や高級御家人、招待された京の貴族などが、雅な遊びをする場、として利用されたようだ。
応永12(1405)年の大火災で焼失したあと、究極の貴族文化・贅沢と権力の象徴であった永福寺は、室町時代になって鎌倉じたいが以前ほど顧みられなくなっていたこともあり、「維持するには無理がある」ということで廃寺になったのだろうと思われる。鶴岡八幡宮や建長寺などが今でも栄えていることと比べると、やはり永福寺の「使用目的」が時代に合わなくなっていったのかも知れないなぁ、という思いに至る。
それにしても作り出された「この世の極楽」は、その跡地を見るだけでも「そうだったのかも、なぁ…」という規模でこちらに迫ってくる。
行ってまいりました。
永福寺舊旧蹟
永福寺世二二階堂ト称ス今二二階堂ナル地名
アルハ是ガタメナリ文治五年頼朝奥州ヨリ凱
旋スルヤ彼ノ地大長寿院ノ二階堂二擬シテ之
ヲ建立ス輪奐荘厳洵二無双ノ大伽藍タリキト云
フ亨徳年間関東官領ノ没セル頃ヨリ後全
ク頽廃ス大正九年三月建之
鎌倉町青年会
当時では「凄すぎる」と度肝を抜くクラスの建築物だった永福寺、「な、なんと二階建て!!!!」という、日本国中探しても数えるほどしかない超豪華セレブビルディングだったので、その特徴「なんと二階建て」が「二階堂」という地名にまでなった。
京都からやってきた藤原行政(ふじわらゆきまさ)は、鎌倉に文官としてやってきて幕府の要職に就き、この永福寺あたりに邸宅を構えたので「二階堂行政(にかいどうゆきまさ)」と呼ばれることになった。例えばたまたま「田中さん」がイオンモールの近所に引越ししてきたらいつの間にか「ショッピングセンター田中」と呼ばれてしまう様になった様なものだ。
彼の母親は熱田大宮司・藤原季範(ふじわらのすえのり)の妹で、この藤原季範の娘の由良御前は源頼朝の母親だから、割と近い筋の親戚だと言える。
その縁で、下級官吏だった彼は鎌倉に招聘されたのだろう。
なんとまぁ良いパーク
当時の境内は当然、もっと広大だったのだろうけれど現在は整備され、ご近所にお住まいの方々もたくさん訪れておられる。
小道を抜けて行かないと辿り着けない場所にあるので、観光客はほぼいない。
「行っても何もないよ?」と半ばバカにされるように形容されている可能性すらある。
なんと丁寧な看板が。
永福寺跡
洋服地は頼朝が建立した寺院で、源義経や藤原泰衡をはじめ奥州合戦の戦没者の慰霊のため、荘厳なさまに感激した平泉の二階大堂大長寿院を模して建久3年(1192年)に、工事に着手しました。
鎌倉市では、史跡の整備に向けて昭和56年(1981年)から発掘調査を行い、中心部の堂と大きな池を配した庭園の跡を確認しました。堂は二階堂を中心に左右対称で、北側に薬師堂、南側に阿弥陀堂の両脇堂が配され、東を正面にした全長が南北130メートルに及ぶ伽藍で、前面には南北100メートル以上ある池が造られていました。
鎌倉市では、昭和42年(1967年)度から土地の買収を行っており、現在史跡公園として整備事業を進めています。平成24年(2012年)3月
鎌倉市教育委員会
こんなに見事な場所だったのだ。
しかし廃絶してから何百年、荒地だったのだろうしいつの間にか個人の所有する土地になっていたのだろうし、史料どおりに発掘で遺跡が出てきたからと言って「はいそうですか」と「先祖代々の土地」になっている場所をやすやすと引き渡してくれる人ばかりだとは思えない。上の案内板の後段からは「役所が公的な理由だからと、分散する地権者から予算の範囲内で個人の土地を取得するのは並大抵の大変さじゃないんですよ」という苦労が偲ばれる。
CGにより復元された永福寺
http://www.bukenokoto-kamakura.com/yofuku-ji/cg.html
ちなみに、Googleマップでこの永福寺跡を見てみると…
5.png
右下の方に「どう考えてもそこはまだ境内の範疇だろう」という場所に赤い屋根の立派なお屋敷がある。
これは個人がお住まいの住宅だ。
鎌倉市の中でも屈指の閑静な、住みやすい場所である。他意はない。
ARで楽しむ極楽浄土
ARとは「Augmented Reality」の略。
拡張現実と訳される。
目の前の現実の風景の中に、位置を合わせてコンピュータで作った画像や映像を「そこにあるかのように表示できる」技術だ。
流石に永福寺を再建するほどの予算までは鎌倉市には無い様子で、最新の技術を使った「復元」がなされている。
※ダウンロードはできるけど現地に行かないと意味はない。
アプリを起動し、案内板にはるQRコードを読み込むと…
肉眼の視野にはないが、スマホを覗くと「二階堂」がドドーンと現れるのである。
かなり近づける。
※ダウンロードはできるけど現地に行かないと意味はない。
鎌倉時代には庶民は近寄ることすら叶わなかったであろうセレブサロン永福寺、朱塗りの絢爛豪華なお堂が目の前にあるかのようだ。
というか、もうこれでいいんじゃないか。
日本全国すべての神社仏閣、宮殿・城郭でこれを実施してほしい。
何も実際に、巨額の資金を投じてまで、建てることはないんじゃないの、という気もしてくる。
よみがえる第一次大極殿院
https://www.heijo-park.jp/about/fukugen/
いや、それはそれで現代の公共事業として成立しているのかも知れないから良いのだけれど。他意はない。
3つのお堂はその柱の位置が再現されており、AR画像の通り、それぞれに圧倒されるほどの立派さだったのだろうなぁと思わせてくれる。
二階堂
三堂の中心の仏堂で、大きさは正面約19.4m、奥行約17.6m、周囲に幅2.4mの裳階(もこし:差掛の庇)を付けた本瓦葺であったと考えられます。基壇は全国的に珍しい木製で化粧されており、大きさは正面が約22.5m、奥行が約20.6m、推定の高さは70cmでした。正面と両側面に階段がありました。堂の本尊は釈迦如来と考えられています。
真ん中の「二階堂」に釈迦如来、左側の阿弥陀堂にその名の通り阿弥陀如来、右の薬師堂には薬師如来が安置されていた。
京都・宇治の平等院鳳凰堂では中心は阿弥陀如来。
浄土信仰は阿弥陀信仰でもあるからそれはわかるが、永福寺では阿弥陀如来が脇侍(わきじ)に回っている。
京の平等院鳳凰堂を模して作ったという平泉の無量光院にも阿弥陀堂があり、当然センターは阿弥陀如来。
ポケモンセンターではポケモンを扱うのだ。当たり前だ。
源頼朝がさらにその見事さに驚いてコピペしようと決めた中尊寺の大長寿院には、中心に阿弥陀如来がいて、その周りにさらに9体の阿弥陀如来が祀られていたらしい。計10体!
東京にはそのまま「九品仏」と呼ばれ親しまれている9体の阿弥陀如来がいらっしゃる浄真寺があるが、平泉ではプラス1の10体である。
いかに阿弥陀信仰がすさまじく、末法思想がリアルに感じられていたかがわかるようではないか。
そして平泉という奥州の都は、鎌倉より前、京都の次に栄えたメガロポリスだった。
阿弥陀如来が中心の場合、脇侍は観音菩薩・勢至菩薩が勤めるのが通例らしい(「阿弥陀三尊」という)。
なぜなら観音菩薩は「慈悲」をあらわす化身であり、勢至菩薩は「智慧」をあらわす化身だからだ。
元は阿弥陀如来なのだ。
「釈迦三尊」となると
中心が釈迦如来、脇侍は文殊菩薩と普賢菩薩だそうだ。
どちらにしても如来がドンといて、そのサイドに菩薩が陣取る。
如来の方が偉いのだ。
じゃあ永福寺の中心・釈迦如来/脇侍・阿弥陀如来&薬師如来という、3如来フォーメーションは一体なんなのだ。強い。強すぎる。
山口組6代目が中心にいるなら、若頭や舎弟頭がその両脇を固めるのは当たり前だろう。
「山口寺」なのに、山口組組長の両脇に稲川会会長と共政会会長が並んでるのはおかしいではないか。
源頼朝が参考にしたという平泉の中尊寺ではどうか…中央が阿弥陀如来で、左が薬師如来、右も薬師如来(!!!)。
もうわからん。
今やのどかな公園でしかない永福寺(ようふくじ)。
そして鎌倉幕府絶頂期の象徴でもある永福寺。
観光スポットとしての鎌倉に疲れたら、少し足を伸ばしてボーッとするのも良いだろう。
運が良ければ源頼家(みなもとのよりいえ)や源実朝(みなもとのさねとも)の亡霊が、蹴鞠をしている様子が見えるかも知れない。