平清盛は、平治の乱に敗れて死んだ源義朝の嫡男・源頼朝(14歳)を、殺しませんでした。
伊豆に流刑、にしたのです。
保元の乱(1156年)で、京における覇権争いは凄まじい武士同士の戦闘を伴うものになり、武の論理を持って戦後の処断も進めたほうがいいというような常識が戻ってきて、死刑も復活していたようです。
それまで実に350年近く、実質的に死刑は廃止されていました。
死の穢れを嫌う皇族・貴族の意向だったのか、決して「犯罪者とは言え命よ!」という現代のエセヒューマニズムにかぶれた死刑廃止論者のような空想的理想論があったわけではないでしょうが、刑罰として官吏が死罪と決定してもその後、「詔」によって「死一等を減じ、之を遠流に処す」というパターンになっていたんですね。
それが保元の乱を経て、「死刑は当たり前」に戻った。
おそらく武士同士の直接的な激しい戦いは、「敗者を生かしておくと今度は自分が殺される」事実をハッキリさせたんでしょう。自らの手を汚さない貴族連中と違って、公職追放とか失脚・没落では済まないダイレクトな危機感が、保元の乱で勝った側(信西とか)にはあったのでしょうね(死刑の復活には新税の後白河天皇への建議があった)。その意味ではもう、武士の世になってた。
だから「死刑。死罪に処す。すぐに首を斬れ」と最高権力者(平清盛)が命じたら、もう誰も文句は言えない。
治天の君とて、もはやそれには逆らえない。
なのに、平清盛は源頼朝を殺しませんでした。
殺して普通、です。
対抗する一族の子供なのですから殺しておかないと成長後、100%仕返しに来ます。
お寺へ放り込めば(出家させれば)いいんだという感じもあったでしょうけどそんなの還俗すれば同じですし。必ず、御輿として源氏の嫡流を担ぎ上げる勢力が出てくるし。実際そうなったわけだし。
武士の家柄としては「親を殺された仇は、いつか討たねばならない」という原理が働く。
「仇討ちをしない」となるともう、生き恥さらすのと同じ。
なので「源氏のあの子、生きてるんならいつか、敵討ちに立ち上がるよね…」と、同時代に生きてる人は口には出さないけどうっすらずっと思ってたはずなのです。
平清盛の周辺でも「殺しといた方がよろしおっせ」という進言はかなりあったはず。
なのに、平清盛は源頼朝を殺しませんでした。
池禅尼の助命嘆願
池禅尼は、平清盛からすると継母ということになるんですね。
捕まった源頼朝が、池禅尼が産んだ平家盛(すでに亡くなっていた)に面影が似ている…ということを聞きつけ、哀れを感じて命乞いをしてくれた、と。
池禅尼は、崇徳上皇の第一皇子・重仁親王の乳母でもあり、保元の乱で危うかった平家一門の分裂を回避するきっかけを作った、強い女性でもあったようです。
平清盛は、池禅尼には頭が上がらない…っていう感じだったのでしょうか。
ほんとに、そんなことが勝つのかな。
いくら断食されてお願いされたからって、親の仇・一族の敵と一生憎み続けることがわかってる子供を生かしておくなんて…。
そこにはやはり、「驕り」があったんでしょうか。
「平家のこの、人臣位を極めた一族の勢いは、源氏の小倅が多少の兵を募ってどうなるっちゅうもんでもないやろがぃ…もうあとはロクなの残っとらんぞ…」というような、将来的な油断を生んだのかも知れません。
平清盛は伊勢平氏。
高望王からの流れ、平将門の乱以来、平貞盛の子孫の系譜なわけですけど、桓武平氏という意味では地方の豪族たち、特に関東の武士たちにも平氏はたくさんいました。
秩父の畠山重忠もそうですね。
畠山氏は平氏の子孫ではありながら、ずっと源氏に従ってた。
だけど源氏が平治の乱でついに壊滅すると、平氏に従う選択をすることになっていました。
地方を実質的に治める武士たちは、京のゴタゴタや覇権争いを、情報を得つつも「どっちでもいいんだよ。この土地さえちゃんと治められれば」みたいな、実質的・実効的な支配を優先するっていうところがあったんですね。処世術ですね。
平家(平清盛の一族)がやたら全国に支配力を強めて、やりたい放題になってきた様子を感じて、「京都の平家、流石にちょっとおかしくないか。この土地を奪う気か!?」みたいな対抗心を持ったのかも知れません。それが、源氏再興に力を貸す原動力になった。
もし平治の乱の後、あっさり平清盛が源頼朝を殺していたら。
木曾義仲はのちに勢力を得て京へ攻めのぼるほどになりますが、源頼朝がいないのであればおそらく関東甲信越の武士たちは、こぞって木曾義仲をバックアップしたことでしょう。
木曾義仲は木曽に住んでて、のちに殺されるから「木曾義仲」って呼ばれます。
例えば源頼朝があっさり殺されてて彼が本流になってたら「源義仲」とだけ表記されるようになってたはずです。逆にもし源頼朝が殺されず、なんらかのハンディを背負わされて生きながらえ、ついに挙兵しなかったら「伊豆頼朝」と呼ばれていたことでしょう。
平治の乱の後、あっさり平清盛が源頼朝を殺していたら。
幼すぎて見逃されていた天賦の才を持つ異母弟・源義経が本流となり、源氏再興の起爆剤となっていたでしょうか。奥州藤原氏を後ろ盾に、平泉を拠点として、もしかすると源氏と平氏で日本を二分する、分割統治の時代になっていたかも知れませんね。実際に一時期、鎌倉にいた源頼朝にはどうもそのつもりがあったような気配がありますけれど。
屠(ほふ)るべきでした。
どうしても物騒な物言いになってしまうので気が引けるんですけれども、平清盛は源頼朝を、誰の助命嘆願があろうとも「部下の暴走だ」ととぼけて言い訳してでも、絶対に屠るべきでした。
ついでに今若・乙若・牛若の三兄弟も、全員屠るべきでした。
生かしておくのは美人・常盤御前だけで良かった。
源頼朝は生かされたがゆえ、20年も田舎の温泉地で雌伏の時間を耐えたがゆえ、異常に慎重で、異常に冷酷な人物に成長した。その慎重で、猜疑心と状況への強烈な耐性を持つ精神力で、関東に武士政権の基礎を作るまでになった。
おそらく上述したように、木曾義仲が河内源氏の嫡流として関東の武士団に担がれたとしても、本人の性質として無理が出て、京へ昇って専横を極めて横暴のかぎりを尽くし朝廷に嫌われて追討されるハメに陥っていたでしょう、ってそれ史実通りじゃないですか。とにかく、木曾義仲じゃあ無理だった。「木曽幕府」は考えられない。
「絶対に無理」から始まった武勇伝
どうしても結果から逆算して歴史を見てしまう現代人としては「一直線に、なるべくしてなった」ように見える源頼朝の立志伝なわけですけど、14歳で父を殺され一族は壊滅状態、わけのわからん野蛮な山奥へ流されて生活しなきゃならない現状に対する少年の絶望は、想像することができません。
でも同時代的には絶対に「源氏の嫡流、生き残ってんの!?マジで!?ということは…」と、常に自分の立身出世とともに現状の不満をなんとか爆発させてやろうと思ってる連中がいるはずなので、田舎とはいえ伊豆の源頼朝は、実はずっと、注目の的だったのではないでしょうか。
なぜ清盛は頼朝を殺さなかったのか
もしかすると平清盛は、驕りではなく達観し、さらに先見の明を持っていて「敵討ちがあろうとも良い。平家を倒したら次は源氏の世になれば良い。そうして武家の世になれば良いのだ」と思ってたのかも知れません。
それがゆえに敵である源氏の子・源頼朝を生かし源義経を生かした。
それは見事に600年も続く武士政権誕生の、きっかけになった。
そう考えると武士政権の親は、本当は平清盛と言えますね。
源頼朝を殺さず許した。
その瞬間こそが、歴史の大転換点だった、と。