源義経は、殺されました。
源氏軍の総大将として数々の戦で華々しい戦果を挙げ、まさに「次世代の…!」と称えられていたのに。
瀬戸内海から京に凱旋したその晴れ姿は、当時の都人をうっとりさせたでしょう。
めちゃくちゃにモテたはずだし、そもそもは河内源氏の貴族の出。
宮廷の公家たちはかなり、彼を頼りにしたはずです。
平家を追い出し、すでに木曽義仲は追い落とし、さらに鎌倉の兵が大量にいるわけでもない都では、源義経の手勢こそが唯一の「都の警護をする武士」と言える状態でした。
だから彼が出世するのは当然…治天の君である後白河法皇から位階や官職についてそれ相応の沙汰があるのも当然…という空気に満ちていたと想像するのは容易です。
というか彼を出世させないなんて、あり得ない空気感だったのではないでしょうか。
しかし、強烈な戦勝体験と自負を持った源義経を、鎌倉の源頼朝は結果、許しませんでした。
なにせ、鎌倉へすら入らせてもらえない。
捕虜(平宗盛ら)を腰越で引き渡し、失意のまま京へ戻らざるを得ないことに。
かなり褒めてもらえると思ったんだけどまったく、罰に近い扱いなのこれ…?と失望し、その憤懣がますます京とで大きくなりました。それはやがて「叛意」と受け取られるようになり…。
源頼朝はどの時点で、腹違いの弟・源義経を絶対に許さないと決めたのか。
腰越でそれを決めてたのなら、そこで捕縛したはずですよね。
京へ戻すということは「もう一回しっかり考えてやり直せ」というメッセージだったのではないか。
もしくはすでに決めていて「絶望を経て、自分から破滅の道に進む(挙兵する)ように仕向けた」のか。
有名な「腰越状」は、後世の創作だそうです。
ただ、それを書いて差し出していたとしてもおかしくはなかった、と思えるほどの無惨な結果を知っているが故に、説得力があったりするということですね。
逃げ惑う源義経。
西へ逃げようとして失敗し、京近郊に潜伏を続けるも居場所をなくし、吉野を経てついに「かつての奥州」へ。
穏やかに過ごせたのも束の間、庇護してくれていた奥州の王・藤原秀衡が死んでしまい、事態は悪化します。
遺恨のあった次期当主・藤原泰衡に攻められ、殺されてしまいました。
ここ、なんとかならなかったのかと悔やまれるところです。
奥州藤原氏がもし、源家の棟梁として源義経を担ぎ、鎌倉と対決していたら…。
その選択をしなかった藤原氏。
鎌倉幕府に屈する道を選びます。
だからと言って得意げに源義経を裏切って首を挙げた藤原泰衡なんかのこと、源頼朝は許したりはしないんですけれども。
源頼朝はいずれ、奥州藤原氏を滅ぼすつもりだったはずです。
カリスマ当主・藤原秀衡さえいなくなれば…と思っているところに源義経が転がり込み、攻める理由が増えた。
何せ「全国に守護・地頭を置き、警察権を握る」ことにすでに成功している源頼朝です。
奥州藤原家など「もとは源氏の家来の血筋が、戦の手柄を掠め取って打ち立てた権威ではないか」という思いがあったはずです。
衣川で自害。
源義経の首は鎌倉に届けられ、由比ヶ浜で実検が行われました。
おそらく漆塗りの木箱で、香り高い清酒に漬けて運ばれて来た首。
鎌倉には源義経の顔を知る者も多くいたでしょうし、おそらく源頼朝も、それを見たことでしょう。
ただ、もし「もうそんな者のことはどうでもよい…」と、源頼朝が首実検に参加していなかったら…。
「源義経の顔を知るものが多い」ということは、多くの人がパッと見て箱の中身が違ったら「あっ!源義経ではない!」というのもすぐにわかるはずですよね。
罪人扱いで殺されたにせよ、鎌倉殿の弟御ですから、首を見れる人は限られたはずです。
和田義盛・梶原景時。
幕府の重鎮であるこの2人が「これこそが源義経公の首である」と言えばそれで済む話、だったりします。
故実にのっとり顔を朱(あか)く塗り、浜辺で晒し首に…という通例が、本当にそのまま行われたのかどうか。
そのまま海に投げ捨てられ、魚の餌になったか。
それとも“身代わりの首”はすぐに「誰かわからない状態」にされて、処理されたのか。
こうやって、源義経はすぐに「生きている伝説」が生まれやすい。
というか想像がしやすいんですね。
「生きててくれ!」という民衆の願いは「判官贔屓」という言葉を生み、悲劇のヒーローという日本の「雛形」を作ることになったんです。
だいたい、最期を迎えた源義経は、立て籠った館を焼いて自害したはず。
そうなると首(顔)が、そのまま綺麗に残っていると考えるのは不自然です。
あの織田信長も見事に、首どころか遺体すら見つかっていない。
その源義経に攻められた壇ノ浦で、齢8歳にして海に身を投げることになった安徳天皇も「実は生きている」伝説があったりしますから。
首は、鎌倉に運ばれました。「首洗いの井戸」が現存しています。
首洗いの井戸。
「首洗いの井戸」はもう「伝」てつけなくても絶対に「伝」だろうと思ったりもしますが、「首洗いの井戸」は他にも「吉良上野介の」とか「護良親王の」とか、色々あるようです。
伝源義経首洗井戸
平泉で討れた義経の首は、首実検後片瀬の浜に
捨てられ、境川を逆り白旗に漂着したものを
里人がこの井戸で洗い清めたということです。
「ことです。」て…。
当然、首を洗うにしても何を洗うにしても当時は「井戸」か「川」か「池」か「海」しかないわけで、そんな伝説が伝わった井戸ってもう飲料用に使えないじゃないの…と思ったりもしますけどね。
マンションの裏、的な裏手の立地に、旗竿地のように立派な公園が整備されており、そこにあります。
伝 源義経首洗井戸
源義経(鎌倉幕府の将軍源頼朝の弟)は、
頼朝に追われ奥州(東北地方)に逃げていま
したが、一一八九年に衣川(岩手県奥州市)で
自害しました。腰越(鎌倉市)で首実検の後に
浜に捨てられた義経の首は、潮にのて川を
さかのぼり、里人に拾われてこの井戸で清め
られたと伝えられています。
この絵は、歌川国芳が描いた源義経の浮世絵です。
ここから二○○メートルほど北の白旗神社は
祭神として源義経を祀っており、境内には、
藤沢の御首と宮城県栗原市の判官森に葬られた
御骸の霊を合わせて祀った源義経公鎮霊碑などが
あります。また、常光寺南側の公園には、弁慶塚
と記された石碑が祀られています。
じゃあ、胴はよ???
首は鎌倉に運ばれ井戸で洗われたとして、胴はどうなったんでしょう。
京都から飛んできたと言われる平将門の首は現在の東京で力つき、「将門塚」として祀られていますが、体はこれまた東北から自分で(というのもおかしいが)京都へ向かって歩き出し、力尽きた場所に祀られているという説があります(それが神田明神だと。「神田」は「からだ」が訛ったのだと)。
「伝義経首洗井戸」の掲示板にも書いてありましたが、首は鎌倉へ持ち帰られましたが、胴体は宮城県にあるのです。
義経の胴体を埋葬した場所、と言われているのがその名も「判官森」。
首さえ獲ったら胴体は打ち捨て、普通は身内や郎党がその遺体を丁重に葬る…というパターンだったのでしょうがとりあえず源義経は「天下の罪人」扱いで殺されているので、丁重に扱うと「ん??お前も歯向かうのか!?仲間か!?」認定をされかねない。
しばらくは放置されたりしたんでしょう。
しかしいつしか「それではあまりにも」ということで、現在は墓碑まで建ててある。
首を探し出して合体はさせてくれないにしても「合わせて祀る」ことはできる便利さ。
奈良にあるゆかりの神社(ザ・フォックス)。
それとは別に、奈良にはその名も「源九郎神社」があります。
源九郎稲荷神社略記
所在 大和郡山市洞泉寺町
祭神 宇迦之御魂神
源九郎稲荷大明神沿革 歌舞伎・文楽「義経千本桜」で
おなじみの「源九郎狐」(白狐)は神の使
いです。今より約八百年前、源九郎判官源義経は鎌
倉の征夷大将軍である兄、源頼朝に協力
し「源氏」に勝利をもたらしました。
その後、兄頼朝と仲たがいし、奈良の吉
野山をへて東北の平泉へ落ちのがれる
おり、この武運強い義経を陰ながら守っ
てきた武将佐藤忠信は実はこの神社の
「白狐」の化身だったのです。
そこで義経は奥羽に下るとき、この白狐
と別れる際自分の名である「源九郎」の
名を与え「源九郎狐」と名のることを許
しました。
その後豊臣の時代には豊臣秀吉の弟で郡
山犬伏城の城主である豊臣秀長は築城に
あたって、この源九郎稲荷神社をお城の守護
神と定めました。
その後も歴代城主柳澤家の殿様や町屋に
も信仰深く現在に至るまで、
この神社を手厚く崇敬されてきました。それゆえ、
日本三社稲荷の一つとされています。行事
月次祭 毎月一日、15日
春季大祭 「白狐渡御」
毎年お城の御殿桜の咲く頃
ちなみに「日本三社稲荷」については諸説ありすぎて考えるとスタミナが著しく減少します。
実は奈良県に、もう一つ「源九郎稲荷」があるのです。
漢國(かんごう)神社の境内に、はっきりと「源九郎稲荷」と書いてある社があります。
しかしながら、ここに源九郎稲荷がある詳しい由緒は不明。
「昔からあるから、ある」みたいな感じのようですね。
おそらく別の神社として存在してたんだけど、いつしか合併したか、何処かから移設されたか…。
『奈良市史 社寺編』には、この漢國神社の源九郎神社は
1924年(大正13年)に山の寺から勧請した。
と書いてあるそうです。
「山の寺」ってずいぶんザックリしてるな…。
奈良県指定有形文化財である漢國(かんごう)神社の説明には、本殿の由来は書いてありました。
桃山時代の形式で建てられているとのこと。
本殿がそうであっても神社じたいは、推古天皇の御宇に創建。古いですね。
つまり源九郎稲荷は、源義経その人がどうこうというよりは、佐藤忠信がらみの創作「狐忠信」からの連想で、地元の稲荷信仰と結びついた…と考えていいのでしょうかどうなんでしょうか。
佐藤忠信はそもそも奥州・藤原氏に仕えた一族の人で、壇ノ浦の合戦での活躍の後、源義経と一緒に京都で「左兵衛尉(さひょうえのじょう)」に任官されてしまい、鎌倉で源頼朝が「(藤原)秀衡の老頭が衛府に任ぜられるなど過去に例が無い。その気になっているのは猫にも落とる。」とめちゃくちゃに言われています。そう言えば「狐忠信」をもじった落語「猫の忠信」が私はすごく好きです。ぬくいつくり。
それにしても、「天下の罪人」たる「源九郎」を、大々的に稲荷信仰と結びつけることなどその時代にはできるはずがなかったでしょうから、この神社名になったのはずいぶん後だったのでしょう。おそらく室町時代か。
青き狼の生まれた場所!?
そして、源義経と言えば北行。
そう、「討たれた」とされる奥州を逃げ出し三陸伝いに北に向かい、津軽から北海道に渡ったというもの。
北海道でアイヌの娘と恋仲になり、そのあと彼女を捨てて去った…という逸話まである。
北行伝説は源義経がいかに「生きててくれ」と民衆に願われ、戯作者たちの創作意欲を高めた存在だったかを象徴しているかわからせてくれますよね。
そして有名なのは「北海道を経由して大陸に渡り、チンギスハーンとなった」というやつ。
さすが平家を滅ぼした大将軍、大陸でも騎馬軍団を見事まとめ上げ、大モンゴル帝国を打ち立てた。
孫の時代にはなんと宿敵・鎌倉幕府への復讐を果たすべく、「元寇」とのちに呼ばれる日本襲撃計画を実行する。
鎌倉時代、「外国軍が攻めてくる」は日本人にとって、意味のわからないファンタジーに近い出来事だったと思います。
「そんなはずはない」とかではなく「とりあえずほっとけ」という対処をしても誰にも咎められない。スルーが普通。
現に、鎌倉幕府は元からの使いを無視。
あるいはすぐに殺しています。
しかし実際には大軍がほんとに攻めてきた。
外国(という概念もあったかどうか)が襲来するという未曾有の事態、どこかの時点で誰かが、すでに伝説となっていた軍神「源義経」の存在を半ば神がかり的に結びつけたのかもしれない。
「日本に対してこんな野望と攻撃心を抱く存在…まさか80年ほど前の、あの判官…」。
実際の人間による攻撃なので、疫病や落雷などの「祟り」として顕現しているわけではないですが、信心の度合いは現代人からは想像できないレベルのこの時代、出来事のインパクトの大きさから「まさかの源義経公」が想起されたとしてもおかしくはないと思います。
ちなみに、「ダダルソム」はこの辺りにあります。
距離感としては、こういう感じ。
今、マークをつけた箇所は4つです。
・ダダル(チンギスハーンの生地)
・源九郎稲荷
・首洗いの井戸
・判官森
これを、少しアップにしまして…
この4点を、線で結びます。
すると黄色い星の位置、日本のある地点で、クロスすることがわかりました。
この、重要な交差地点に、何があるかというと…
なんと!!!
やきとり「義経」アッッッッッ!!!!
これが、単なる偶然だと言えるでしょうか。
完璧なる偶然ですありがとうございました。
やきとりよしつね
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