あるところにある喫茶店。
最近行ってないけど、前を通りかかりました。
この喫茶店は、ある小さな思い出があります。もう、10年以上前になりますけど、この喫茶店に、なぜか辿りついたんです。その頃はまだ東京のことを全然わかってなくて、どの駅で降りてこの辺りまでフラフラ歩いてきたのか、記憶が曖昧です。その先に、あの駅があってこの通りの名前は…と確認できたのは、ずいぶん後のことです。
独りで珈琲を飲む。
暖かくて、冬の空気が詰まった店内でした。
奥の席に陣取って、外を眺めていたんですよね。カウンターには、常連客、とその友人らしき女性。
勢いを持って何かを話し続けている常連客。メガネでヒゲのおじさんでした。
「あの日さ、会場の空調を止めろって言ったの、俺なんだよ」
ああ、そういうパターンの、「俺はすごい」系の自慢話しをするタイプのおっさんか…聴こえる会話をシャットアウトすべく、イヤフォンを耳に入れて何か音楽を…と思っていたら
「やっぱりジョアンはすごい」
っていう話になっていました。その友人の女性も「本当に、一生に一度でいいから観たいです」と熱心に語っている。
ジョアン?
知らない名前だなぁ。
その場で調べてみる。
ジョアン・ジルベルト。
「ボサノバを作った男」?
なんだその伝説クラスの人は。その話を、今この喫茶店でしてたのか?さすが東京。あの「空調のおっさん」、ひょっとしてすごい人なのかも知れぬ…。などと思いながら、結局その時点から1年くらいして、ジョアン・ジルベルトの来日コンサートを観に行くことになります。
不思議な感覚です。その日(東京国際フォーラム)の開演時間になっても、ジョアンは一向に現れない。
「ドタキャンの名手」
「嫌になったら来ないし、途中でも帰ってしまう」
というのは本当らしいので、来ているお客さんが、開演を10分過ぎてもなんのリアクションもしていないんですよね。
開演時間を30分くらい過ぎた頃だったか、アナウンスが流れました。
「お待たせして申し訳ありません」的な内容に続けて、
「ジョアンジルベルトは只今、ホテルを出発いたしました」
会場爆笑。そうなのか…いや、そんなもんなの???それでも「あの“神様”が向かってくださっている」的な雰囲気のまま、開演を待つ空気感。
ギター1本、椅子とマイクがあるだけのステージ。その来日公演にはカメラが入っていて、日本公演を、世界で初めての映像作品(DVD)にする、ということでスタンバイがされていました。
しかし。
後日、発売が決定していて予約もした自分の元に、お知らせチラシが届くことにな理ました。
「かなり長い話し合いが行われたが、やはりジョアンが、この日の演奏は出したくないということで、DVDの発売は完全にお蔵入りすることになった」と。
すごい。どんなプレッシャーにも、どんな企画意図にも、自分の「これは違う」を押し通す偉人。神様はそれをやり続けて来たし、なんとなくファンは「もう、しょうがない人だねえ…」で済ましてしまうんだろうと妙に納得したのを覚えています。未だに、ジョアン・ジルベルトの映像作品って、ないんじゃないですか?
今も聴いている、『ジョアン・ジルベルト・イン・トーキョー』。
歌いながら、これってどうやって弾いているんだ?というテクニック的にも、興味が尽きない感動があります。
それを聴きながら、今これを書いている。
この人と、この公演を思い出し、曲を聴くと「自由」という単語が浮かんできます。
わがままではない。
自分勝手ではない。
己と、己の感覚に、どこまでも正直に生きるという哲学。
それを何度でも確認できる、という意味で、とても良いCDだと思っています。