3000石ってどれくらい…?
1石は10斗。
10斗は100升。
時代によってその経済価値は変化するが、1石が一升瓶で100本だとすると、1升は1.8kgだから1石の重さは「180kg」ということになる。
耕作地にはランク付け(等級付け)があって、上田・上畑(じょうでん・じょうばた)から下田・下畑(げでん・げばた)まで、さらに屋敷としての土地にも石高を当てはめて、行政区域全体の収穫量を算出していたという(これを石盛と呼ぶ)。
考えてみればそうだ。
日本列島、気候も土壌も違うのだから、同じ田んぼの広さ同じ畑の広さだからと言って、収穫量が常に全国どこでも同じなわけがない。化学的な肥料もない。
現地を見て(あるいは見ずに)調節をして、年貢高を決めていたのだろう。
すべて米粒での計算だが、現実はそのまま米だけの物々交換だけで社会が動いているわけではないので、貨幣への換算も必要になってくる。最初はそれで良かったが、庶民へも貨幣経済の優良さと利便性が浸透し、その割に武士階級には経済観念がいつまでも根付かず、両者のズレと鬱憤は、江戸幕府崩壊の引き金になったと言っても過言ではない。
商人から莫大な金を借りて生活をしているくせに「商いなどは下賤のすること」と見下していた武家に「棄捐令(きえんれい)」も出された。幕府は金を大量に貸した商人に、債権放棄・債務繰延を命じたのだ。こんなことをしていて、国が発展するわけがない。
江戸時代の崩壊は、起こるべくして起こった。
では1石は、いくらに貨幣換算できるのだろう。
今のお米の値段で、キロあたりのお金を算出してもそんなに深い意味はない気はする。
「米で年貢を納めております」という時代の米に対する価値観は、現代の我々の「ライス」に対する価値観とはまったく違うだろうからだ。
金(ゴールド)の小判、これも時代によって変わる。
金や銀の含有量を減らして流通させればそれなりに価値も下がる。
元禄・文化文政の時代と幕末とでは、ずいぶん違うようだ。
小判1枚で買える物の量が減る。
「文政年間漫録」に書いてあるそうだが、1両で、だいたい米1石。
文政だと江戸時代でもかなり良い時期だろう。
うどん一杯16文(もん)というのは「時そば」「時うどん」で有名だ。
1両を4000文として計算すると、冒頭に出てきた3000石は、当然お金にして3000両になる。現代の「かけそば」を一杯300円だとすると(安いな)小判1両で、250杯食べられることになる。
3000石ということは、かけそば75万杯だ。
これだけの量が、なんと奈良の「鹿の餌料」として毎年、下げ渡されていたというのである。
神鹿=神の使いとして扱われていた奈良の鹿は、太平洋戦争中には減ったが、現在は1,360頭だそうだ。
江戸時代にどれくらい鹿がいたかは不明だが、それでも3000石がとんでもない額だとはわかる。
1両が7万円とか10万円くらいの価値があったと仮に想定すれば、有り余ってしまうほどの金額が天領である奈良に流れ込んでいたのも想像できる。江戸から離れたのんびりした奈良で、静かに不正が蔓延するような雰囲気も、なんとなくしっくりくるのである。
「鹿を殺せば、死罪」。
「三作の石子詰め」と言われる伝説があり、これはサンサクという名前の子供が鹿を文鎮を投げて殺してしまい、生き埋めにされて刑死したという。
同じように、誤って鹿を殺してしまった豆腐屋の六兵衛さん(三作の倍になっている!)、奉行所へ引っ立てられ、お白洲で奉行の詮議を受ける。
実はこの時、すでに奈良奉行・曲淵甲斐守(まがりぶちかいのかみ。曲淵景漸)は、鹿役人である塚原出雲(つかはら・いずも)以下、役所の不正・横領・汚職をつかんでいた。
曲淵甲斐守は、大坂町奉行には就任していたが、実際には奈良奉行にはなっていない。
しかし政治家として、特に江戸北町奉行の職に就いてからはその采配ぶりの評判がとても良かったそうだ。
つまり「政談もの」と言えば名奉行、そうそう大岡越前守ばかりとも言えず、上方落語にはなおさら出せず、曲淵甲斐守に白羽の矢が立った…ということなのだろうと推察される。
講談では奉行は川路聖謨(かわじとしあきら)ということになっている。
時代は同じだが、曲淵甲斐守と違って彼は本当に奈良奉行に就任している。
「政談もの」としては彼の方がリアルだ。
ともあれ、正直者の六兵衛が、鹿を殺してしまったことを正直に白状したことが、奉行のやる気(不正を糾弾する気)を、さらに増したのではないだろうか。
ポイントは、豆腐屋である六兵衛の、店先に置いてあった「キラズ(おからのこと)」を、鹿がムシャムシャ食べてしまった…というところにある。
六兵衛が怒りにまかせて蹴り殺したとか、気まぐれにマキざっぽうで殴って殺戮した…とかなら、キレモノ奉行による、深い詮議には至らなかったはずだ。町に出て人間の商品であるキラズを食べた…、「それくらい鹿が腹を空かしている」という事実が、巨額横領の傍証になっていることに、奉行の目はキランと光ったのだ。
つまり、3000石もの餌料があるのならどう考えても有り余るほどの餌で鹿は常に満腹であるくらいでなければならない。
鹿たちに回るはずの金は、どこへ行ったのだ…!?
このお白洲が開かれる段階で、すでに奉行による、官僚の横領についての調べはすでに終わっていた。
いくら、誰がどうしらばっくれようと、奉行はすでに証拠を完全に握っていたのである。
しかし、いきなり役人を引っ立てることなく「良民が誤って鹿を殺してしまった」という事案を利用して、大きな悪を公の場で暴くことにしたのだ。しかもおそらく奉行は「鹿を殺して人が死刑になる」という悪弊をも、これを機会に改めようとしているフシが、ある。
繰り返しになるが、この「鹿政談」に出てくる奉行は「曲淵甲斐守」という。本名は曲淵景漸(まがりぶちかねつぐ)。41歳で大阪西奉行に大抜擢され、のちに江戸北町奉行にもなる。さらに勘定奉行にもなるという物凄い逸材だ。しかし史実では、奈良奉行には就任していない。そしてなんとこの曲淵甲斐守、偶然、上に出てきた「棄捐令」の法案作成にも携わっている。とにかく英明な人格者であり、名裁き連発…というキャラクターなので、行ったこともないような奈良で、「鹿政談」に登場させられている。
奉行は、町民に厳しくあたる小役人・塚原出雲をねぎらうフリをしつつ、「これは鹿でございます!なので六兵衛は死罪でございます!」という見栄をわざと本人にきらせ、態度を取らせ、その上で、あくまでしらばっくれながら「犬ではないか???鹿ならばお腹がいっぱいなはずだが????なぜだ???犬じゃなくこれは鹿なのか????」とカマをかける。
その理屈で言われると、たしかに役人からすれば鹿に、与えた餌以外をむさぼってもらっては困るのである。「空腹=餌料横領」の図式を否定することは、六兵衛の無罪を自分から言い出すことにもつながる。
奉行・曲淵甲斐守はその流れを作り、六兵衛を救った。
そして悪役人・塚原出雲に「もしこれを鹿と言い張るのならば横領の罪で審議するが、どうか!?」という迫り方をする。
疑いを持って脅しただけなので、塚原出雲は実際には罰を受けていない可能性もある。
「お上はわかってるぞ!?今後はちゃんとしろよ…!?」という訓戒になった、ということかもしれない。強いお灸、という感じ。
解せぬサゲ
オチとして、「斬らずにおくぞ」と、処刑しないという決定事項をを奉行が六兵衛に言う。すると六兵衛が「へえ、マメで帰ります」と応える。
斬らずは、キラズ。
鹿がムシャムシャ食べていた「おから」をキラズと言うので、ここはわかる。
「まめで帰る」というのは聞き慣れない言い回しだ。
まめはわかる。豆腐屋である六兵衛さんだ。豆腐は大豆でできている。
キラズ+豆。それはわかるのだが。
まめ「で」帰る
という言い方がよくわからない。
「まめ」ってどういう意味なのだろう…?
まめに働く、とか、モテるためにはマメがすべてを凌駕する…なんていう言い方は聞いたことがあるから、「真面目」「こまめ」「誠実」などの意味があるのだろう。
調べてみると、そこに「体が丈夫であること」「達者」という意味があるらしい。
取り調べの後、処刑されずに帰してもらえるという事実に加えて、達者(元気に)帰ります、今後も真面目に働き続けます、という意味が付加されている、ということなのだろう。
まめ「に」ではなくまめ「で」になるのは、そういうことなのだ。
…と思っていたら、NHKのドキュメント「72時間」で、岩手のスーパーが取り上げられ、その中でおばあさんが「まめでらが?」という挨拶があると言っていた。
元気だったか?みたいな意味だという。
やはり「まめ」はそういう意味なのだ。
しかし、これが江戸末期、上方で使われていたのかどうかはわからない。
関西出身であっても、この『鹿政談』でしか聞いたことがない言い回しだ。
もしかして東北の表現であった「まめ」を、噺のサゲにちょうどいいからとネジ込んだのか…。
真相はわからない。
奈良の名物は、
「大仏に、鹿の巻筆、霰酒、春日灯篭、町の早起き」。
一泊すれば、全部見れると思うよ。