こういう記事がありました。
日本のお笑い芸人はなぜ政治風刺ができないのか? マキタスポーツ、水道橋博士が語ったその根本的原因とは?
http://lite-ra.com/2016/09/post-2548.html
昨今はお笑い芸人がワイドショーに出演することが多いので、その際に芸人が「優等生」になってしまっていて、笑いが持っている「毒」で政治を風刺するっていうことができない、そのふがいなさが指摘されていました。
確かに、そう見えますよね。
情報番組に出た芸人たちは、世間の常識に抗って笑いを生み出す存在ではなく、世間の常識を体現するだけの存在になってしまっている。
んだそうです。
だから、『ワイドナショー』(フジテレビ)の松本人志や『ノンストップ!』(同)コメンテーターの小籔千豊のように、もはや政権与党の公式コメンテーターのごとく振る舞う人間が出てくるのもまったく不思議な流れではない。安全保障に関する問題にせよ、女性の社会進出に関する問題にせよ、彼らはその「保守オヤジ」っぷりを遺憾なく発揮しているが、それも、どんどん保守化する世間の空気に過剰適応した結果なのだろう。
そんな風に見えるのは、自分が、SEALDsとか、共産党とか、国会前デモとか、ああいうのに踊り狂ってる、左翼だからじゃないですかねぇ。
マキタスポーツさんの意見が載ってたりします。
ああいうなんの魅力もない人を“上に頂いておく”という「日本人と政治」に対しての感慨
を語ってるみたいですが、それを選んでるのは自分らだ、という自覚のない、無責任な、身勝手な意見ですよね。
いえ、芸人は何を言ったってもいいんです。
でも、現政権や為政者をクサせばそれで「毒」「風刺」だと思ったら大きな間違いです。
民主主義をさらりと否定しておいて、その恩恵は享受しながら批判だけはする、これも、甘っちょろい左翼的言辞と言わざるを得ないと思います。
海外と比べて、日本の笑いを貶めるのって、本当に簡単です。
いわく、
「批判精神がない」「保守的」「内輪ウケ」「毒がない」。
そうなんですよ。
日本のお笑いは、日本でしか通用しません。
残念ながら、今のテレビで全盛を迎えるお笑いは、世界には通用しません。
さんまさんやダウンタウンさんですら、海外では受け入れられません。
でも、それがなんなんです?
世界ってどこです?
イギリスです?
イギリスの笑いで有名なのはチャップリンですよね。
チャップリンと、日本の笑いを同列に並べます?
全く毛色の違う、看板だけ似てるものを並べて「これだから日本は…」とやる日本人が、最も醜いといつも思います。
イタリアのピザと日本のピザを比べて「にほんじんてヤツア」と罵る日本人。
天から降ってきてますよ、さっき吐いた自分のツバが。
お前もその、日本人やないか。
水道橋博士さんはこう語っています。
「コメディの力や破壊力を世界中に知らしめている。そこは本当にリスペクト。日本のお笑いに求められている過激さは、アメリカやイギリスとまったく違う。僕はどうしても同調圧力に負けてしまう」
水道橋博士は「同調圧力」と表現しているが、それは詰まるところ、権力を「風刺」して世間に波風を立てるような芸を展開するなという「圧力」だろう。
こういう牽強付会から、
「空気を読む」ことに長けているが故の弱点でもある。
という結論を導き出していますね。
確かに、日本の言論空間のほとんどは「同調圧力」で成り立っている。
しかもそれを「悪」として認識されることはほとんどありません。
「安心社会」と「安全社会」で考えるとわかりやすいです。
「安心社会」と「安全社会」
日本は、「安心社会」。
ムラの中にあるルールは、意外と臨機応変で、皆の「納得」があれば、ドンの了承があれば、慣習が許せば、多くのことが「まぁまぁ」や「なあなあ」で通る社会。
ムラの中で行われることは、「身内のすること」なので安心感がある。
そのかわり、ムラはがっちりと閉じています。
他の村の者は入れない。
ムラだけのルールが適応されていて、それは明文化もされていない。
いちおうルールブックはあるけれど、不文律の方が実は強い。
はっきりしたリーダーはいないけれど、何かを決定するための「会」はある。
中にさえいれば安心。
アメリカは「安全社会」だと言われます。
そもそもムラはオープンにせざるをえない環境。
誰が入ってくるのかわからないから、身を守り、秩序を保つ唯一の方法は「ルールをがっちり」。守らない者は排除。守る者は誰でもウェルカム。
ルールが人よりも上位にある世界。
すべて「身内以外がすること」なので、ルールを守ることが、安全であることの証になる。
すべてはこの差、なんですよね。
そして風刺が笑いになるのは、権力を笑うことで、権力よりも上位の概念があるということを知らしめる作業でもある。
それはルールであったり、神そのものであったり。
日本には、ルールよりも上に「人」や「人の和」が優先するという伝統のようなものがある。
神そのものよりも、伝統が優先する伝統。
コメディアンや芸人の成り立ちも、欧米とは違うはずです。
やはり権力が重厚な恐怖を帯びていたヨーロッパなどでは、「フール(道化)」の存在が際立って思い出されます。専制君主の側にはべり、特別に王を揶揄しても許された、身分のない役。
自分を客観視するために、賢明な王が置いたという被差別民。
道化の言葉は核心を突き、王は笑いながら自分の偏りを知る。
日本でいう「面白い」は、まさに「面(おもて)が白い」。
古くは天照大神が天岩戸から出てきた時に、太陽に当たった時に顔が明るく見えた、というところから来ている説もあります。
日本で風刺なんかやって、誰が笑うんです?
いや、笑いますよ多分。
たまに政治を題材にしたコント集団とかを見ることがありますが、ちーーーっとも面白くないですよね。
あれはなぜかというと、「その人らが面白くないから」です。
たぶん、ちゃんと面白い人が面白く作れば、政治コントも笑えます。
でも人気は出ない。面白くないから。
なぜ面白くないかというと、「風刺なんて面白くないから」です。
面白くないけどやれって?アホか?
なんだか変な順番に聞こえますが、
「欧米では、風刺が面白いから発達した」
「日本では、風刺は面白くないからやらない」
というだけのことです。
つまり、「政治/風刺」は金にもならないし人気も出ないんです。
人気も出るし金も儲かるなら、風刺はもっと隆盛でしょうし、テレビへ出てもみんな、風刺をやるでしょう。
つまり先ほど書いたことが説明になるかどうかわかりませんが、「風土」というか「環境」というか、それがまず違うので、「日本の芸人は…」なんていう批評には、意味がないんです。
「同調圧力」を生むという言い方は悪い方の言い方だけど、それが育んできた「ああ面白い!」と感性は、日本の環境ならではのもので、良いものだったりもするんです。
「政治/権力は風刺してなんぼ、それこそが笑い、それこそがインテリ」という“外国憧れ”から発せられる日本批判は、文化論としてもうんざりさせられますね。
そこは、マキタスポーツさんが書いているように
向こうの政治や、政治的な場にはジョークが必要なんでしょう。「風刺」がないとダメなんですよ、マナー的に。日本は風刺が無くてもやってけるんです。だから日本人がやってる「政治」は、政治じゃないのかもしれない
というのが的を射ていると思います。
どうも欧米と、日本とでは、政治の意味が違うんですね。制度やルールや、雰囲気は似てるけど。
うん、だからそれは、悪いけど「マスコミ」や「お笑い」も同じですから。
なぜそこがわからないんでしょうかね。
松本人志や小籔千豊とは違い、世間の空気に迎合しないで、一流の「風刺」を情報番組のなかで見せてくれる芸人は現れるのだろうか?
と、この記事は締めくくられています。
言いたいことはわかりますが、今、情報バラエティで「一流の風刺」がウケるっていう想像ができるという貧困な想像力に、一瞬だけ絶望を禁じえない今日この頃であります。
とはいえ。
人気の芸人さんをこき下ろして「モンティパイソンは出てくるか?」と言ってればえらい上の神棚に座ってるような気分になれるのかもしれませんが、あんなクソおもしろくもないパロディや風刺がメディアに溢れてなくて、日本に生まれて本当に良かったなぁ、と、改めて思う次第です。
そしてこき下ろすことで名前を出せるのでPVを稼いで炎上も狙えるという独特のねっとりしたいやらしさ(というか記事作成上のテクニックですが)もじゅうぶんに感じられて、上質かつ下等なエントリだなと思いました。
普段思ってたことをこうして書くきっかけになったことに、感謝いたしましたりしております(*^-°)v
※追記 ああ、やっぱりそうだったんだw
マキタスポーツはFACEBOOKで真意が伝わってない切り取りクソ記事と。RT @iijjiji @litera_web 日本のお笑い芸人はなぜ政治風刺ができないのか? マキタスポーツ、水道橋博士が語ったその根本的原因とは? https://t.co/opQM3Zeayv …
— 水道橋博士(小野正芳) (@s_hakase) September 10, 2016