「俺は、そういうの信じないんだよね〜」
これ、よく聞きます。
ほんとよく聞きますよね。
女性からもたまに聞こえてきますが、主に男性から…が多いのではないでしょうか。
「俺は理知的」
「俺は科学的」
「俺は論理派」
「俺は知性派」
と、自負している、いや自分を過信している男尊女卑の、無知なタイプに多いです。
残念ながら、真理を申し上げましょう。
「信じる・信じない」という選択肢まで来ている段階で、すでに「ドップリはまる派」なんです。
似たようなチョイスに、「UFOを信じる・信じない」というものがあります。
信じようが信じまいが、その存在を確たるものと証明することが、未だ一切出来ていない。
多くの目撃証言や写真や動画はあるものの、そもそも「UFO」は「未確認飛行物体(Unidentified Flying Object)」の略ですから「未確認飛行物体を信じる・信じない」なんていう設問じたいが成立してないんですけどね。
「UFO≒宇宙人の乗った飛行船たる円盤」だとして仮定してみても、それを信じる人は信じればいいし、信じない人はそれでもいい。どちらであっても、何ら変わりません。
信じるとか信じないじゃないから。
「サンタクロースを信じるか信じないか」は 子供の戯言よ…と一笑に付すのに、なんでUFOは即座に信じるって即座に言えるんでしょう。サンタも「いない」証明なんてされてませんよ?
※窓に…なにか写ってる…!?(写ってません)
占いは、言葉でできています。
ここまで書いたところで、自分が占い師でもないのになんで興奮してこれを書いているのかを説明しますと、その理由は、世にいる「インチキ占い師」の数よりも、びびってるだけのくせに「俺は知性派・信じる奴はバカ」だと思っているバカ男どもの方が数としては多いんじゃないか、と思い立ったからなのです。
「信じる・信じない」の岐路まで来て「信じない」を選んでいる自信家のアホ男は、何らかのきっかけで猛然と岐路まで戻ってきて、必ず「信じる」方面へ突っ走っていきます。
親が死んだり近しい人が亡くなったりもきっかけになるでしょうね。目の前で「そりゃそうだろう」ってことを「うわぁ当てられた!」となって完璧な変節を、平気で遂げたりします。
例えばインチキ占い師が、事前にその人の生い立ちや家具の配置や個人情報を何らかの方法で手に入れていたとしましょう。例えば、ね。それを突然目の前で言われたら青ざめ、目を見開き、次いで涙ぐみ、「しょ、将来の僕はどうなっていきますかねえ…!」と膝まづくことでしょう。
何人(なんぴと)も、「事実」には勝てませんから。
これは「信じない」という、「信じると表裏一体のもの」にすがっている、弱い人間のすることです。
最初から信じている人間、よりも弱いと思います。
すでに立証されたデータに基づいた統計学的なものであろうが、直感とある種の特殊能力によるものであろうが、確立されて生業としても成り立っている相手を冒涜していることにすら気づかない、自分の極小のプライドだけを守っている、チンケな男だということです。
つまり。
「俺は理知的」
「俺は科学的」
「俺は論理派」
「俺は知性派」
を気取って、「俺は占いなんて信じないぜ」と言っている男性は、
理知的でもなければ
科学的でもなければ
論理派でもなければ
知性派でもありません。
自分の経験と思いつきにしか寄るところのない、敬虔さをすら持ち合わせていないガサツな人間、である可能性がとても高いです。
彼らの多くは「宗教を信じている人」に対する態度も、同じようなものを示します。
曰く、
「神を盲信するなんて馬鹿げている」。
「宗教なんて非科学的だ」。
そんな彼らにはこう、ピシリと言ってあげましょう。
★親の墓なんか掘り返して骨も捨てろよ。
★家の仏壇も全部廃棄しろよ。
★カバンに入ってるお守りもすぐに捨てろよ。
★初詣も行くなよ。
★クリスマスも祝うなよ。
★神前・仏前結婚式挙げるなよ。
★列席もするなよ。
★家建てる時も地鎮祭するなよ。
★ペット死んでも墓標建てるなよ。
★位牌持ってアルプススタンドに座るなよ。
★写真持ってデモに参加するなよ。
★黙祷するなよ。
★お祭り行くなよ。
これら↑すべて、宗教行事ですから。
宗教をバカにしている人は(無知なだけですが)自分がドップリ宗教に浸って暮している事実に、単に気づいていないのです。だから簡単に「日本人は無宗教ですからぁ〜」などと、意味のわからないことをしたり顔で言ってしまうんですね。
カッコつけて理知的ぶりたい自分と実際の自分が、釣り合っていない。
そこいらの占いは、必死に宗教と密接であることをアピールして見せかけていますが、実はあまり繋がっていません。
でも見てもらう方は、密接に繋げてしまうんです。
それはなぜか。
占いで出る結果というのは、しょせん、「自分の人生の補助線」に過ぎないからです。
人間が生きることと、宗教観は切り離せません。
例えばまったく宗教色のない、科学的データで毎日数字が出るというのを「コンピュータ占い」として利用するとしましょう。
「12」が出た。
次の日は「6」。
人間はその数字に、意味を持たせて行動することができます。
単に12ではない。単に6ではない。
生きる中に、12を探します。6を求めます。
すると、駐車場の「12」が気になり、背番号の「6」を見つめますよね。
それを覚え、唱え、信じるのです。
これを宗教と言わずして、なんというのでしょう。
ただの数字ですら、そうなるのが人間です。
かくしてピタゴラス学派は教団となった。
もしそれが、
もっと親身に、
もっと身に張り付いた、
情熱のこもった生身の言葉だったら。
占いは、そのように「どんな結果であっても、自分の人生に作用するように使える」ものなのです。
そう、もうお分かりですね。
占いは
「信じる・信じない」ではなく
「使う・使わない」なのです。
使わない人は使わなくてももちろんいい。
必要ない人はたくさんいますし。
使う人は、思考の決定権を預けるほどまでにのめり込まなくても、そういう見方があるのか…と参考にする、という利用法を知っています。
使わない人は、「まあ、いつでも使えるしね」という態度でいればいいのです。
「信じない!」と、ことさらに言うことが「理知的」「科学的」「理論的」「知性的」であるという事実はありません。アホです。
逆にバカを観察できているというリアルを、熱く感じていただきたいところです。
みなさん今日は、良いことを覚えましたね。
特に女性の方、「占いとか信じてるの?アホじゃない?」と男性にバカにされたり「宗教を信じてる人って、アタマ弱いよね」と偉そうなことを言っているアホ男を見つけたら、まっすぐに言ってやりましょうね。
なんて言うか、忘れました??
です。
やっぱ占いなんてものを信じるのは頭が弱いんだな