「私たちが満員電車でベビーカーをたたまない理由」、というタイトルのブログ記事が話題になってもう1年半ほど経つ。
お湯アナ、渡部郁子さんのブログだ。
私たちが満員電車でベビーカーをたたまない理由
http://ameblo.jp/i-watanabe/entry-12000426012.html
大して今、何も進歩も解決もしていないが、
その記事に書いてあること、まったくその通りだと思う。
タイトルから末尾の締めの一言まで、正論中の正論。
この意見は推し進められるべきだし、ベビーカーで親子が自由に電車にも乗れないような状態で、ベビーカー来たから場所あけてやろうぜ、という空気すらも作れずに、どうやって国家的少子化を解決しようというんだろう、という感じがする。
これはもはや完全に「国の仕事」の領域であって、痴漢の冤罪問題すら本気で解決する気のない電鉄会社だけに頼っていては、毎朝毎晩満員電車に寿司詰めになっているサラリーマン諸兄の
「俺らは今現在、日本経済を支えている。なぜ、その俺たちが降りなければならないのか。今俺たちは仕事を全体的に遅らせて経済が停滞したらお前、そんなベビーカーも哺乳瓶も流通しなくなるぞ」
みたいな苛立ちまぎれのキレっぷりに、ママさんのみならず返答できなくなる。
そう、そもそもこの議論はいつも、「いくつもの論点」が混じり合ってしまっている。
だからコジれる。
「少子化問題」と「経済の問題」、これは、順番を冷静に考えるとたぶん少子化問題の方が重要で、国家的な規模の話だから敷衍(ふえん)すれば経済の範疇でもあるということで、どこかに妥協点はある(はず)。
「お前んちのことなんか知るか」論。
ひょっとしたら満員電車に乗っているお父さんは、自分以外の家族だけはそんなギュウギュウの電車に大変な思いで将来的にも乗らなくていいように、今は毎朝早出した上に、毎晩ヒトのぶんの余計な残業までしてタクシー代を稼いでいるのかもしれない。
そう、電車ではいつも、「個別な家庭の事情」が、それぞれ全員分、ぶつかりあっているのである。
ぶつかりあった苛立ちが、泡立って異臭を放ちつつ「お前んちのことなんか知るか」という無音の罵倒になっている。
これは悲しいではないか。
でも、昔ながらの「家制度」みたいなものが崩壊している特に都会では、すでにそれぞれの家庭の事情は個別具体的に違いすぎてしまってるので、「なんでこんな時間にベビーカーで電車に乗ってくるんだ…!?バカカ?」という、30年前なら完全勝利した理屈と罵倒も、実は「ほっとけ、ハゲ!」で一喝されれば返す言葉に困る事態になっているのではないかと思う。
昔と違い、朝にベビーカーで出勤するママがいても全然おかしくないのだ。
朝の通勤電車はネクタイの男性のもの、なんていうのは、もう決めつけることができない話、なのだと思う。
誰が悪いのか
だから、けっきょくこれは、痴漢の冤罪問題と同じく「電車のキャパシティの問題」だということになる。
電車にマナーを、といろんな方法で啓発を行なっている電鉄会社だが、けっきょくは、「ベビーカー専用車両」を作れば済む話だったりしないだろうか。
ベビーカーを押したママさんが乗ってきたらその周りの5人くらいは降りて次の電車にしましょう、なんて涼しい顔をして言ってる奴はどこのアホだ!?
そんなこと、乗客だけに任せるのか?
そう、「それができるのがマナーってものですよ」と乗客の両親に訴えてくる、その電鉄会社のやり方は「痴漢、アカン!」と同じやりくちではないか。
まだしばらくは平行線が続くであろう「ベビーカー論争」は、うまい具合に「ホームの外」で行われるよう、電鉄会社に仕組まれているかのように見える。
そもそも「電車に乗るとき」が絶対条件のこの論争なのだから、電鉄会社も当事者の一人であるはずだ。
A:毎朝汗だくぺったんこになっている通勤者
B:ベビーカーで電車に乗りたいママ
C:電鉄会社
この三者が主役であるとすると、AとBは本来は共闘すべき「客」という同じ立場なのだ。
このAとBが争いいがみ合いののしりあっているという状態は、Cが知らぬ顔で漁夫の利を得ているという状況を生み出している。
マナーの問題、論理の問題からすると、下の書籍タイトルは、まったく正しい。
でも、こんなこと「だけ」を言っていても、いつまで経ったって解決はしないと思う。
要するに、「ベビーカーで、どんな時間帯だろうがすんなり乗れて」、「通勤者の誰一人とて嫌な思いをすることなく」、「電車がダイヤ通りに運行されればいい」わけで、
そうなると、努力義務は電鉄会社にしかない。
誰か(この場合はママさん)だけが多大なる迷惑と不利益を被っているという事態を完全に打開するには、行政の力で電鉄会社に「ベビーカー専用車両」を作らせるしかないぞなもし、と、独身の私は貴族の風雅さをキープしつつ思うのであった(ごめんなさい)。