謎の御曹司
源義経(みなもとのよしつね)が前半生、どうやって過ごしていたかはまったくわかっていない。
鞍馬で天狗に武術を教わったとか五条の橋の上で弁慶(べんけい)と戦ったとか、東北への途上で自分で元服したとか、全部創作である。
父である源義朝(みなもとのよしとも)が殺されたが、母である常盤御前(ときわごぜん)が仇敵・平清盛(たいらのきよもり)に嫁ぎ、一女をもうけたのは事実のようだ。自分ら兄弟の助命と引き換えに、母は自らの身を、敵の大将に預けたという。
源義経の「打倒平家」という怨念の形成過程において、それが影響を与えていないわけがない。
血が滾(たぎ)るほどに憎い、源氏を追い詰め父を殺した平家の連中。
そこに身を寄せ、ジジイに抱かれ、子供まで作った母。
事情は理解できるが、それだけでは済まない「歪み」が心に生じていたと推察される。
彼に、政治的な「牽制しつつ共存する」などということができるわけがなかった。
奥州のドン
藤原秀衡(ふじわらのひでひら)は、藤原清衡(ふじわらのきよひら)の孫である。
「奥州藤原氏」初代・藤原清衡は、藤原経清(ふじわらのつねきよ)と、安倍一族の女性(有加一乃末陪・ありかいちのまえ)との間に生まれた。
藤原経清は京の貴族でありながら東北に根を下ろし、安倍一族側についた変わった人物だ。
亘理(わたり。現在の宮城県亘理郡)を領地とし、中央と東北の通訳のような役割を果たしていたのだと思われる。
京の人間はすべからく東北を忌み嫌い、恐れ、住民を「蝦夷」と差別しながらも搾取することしか考えていなかった時代。そんな中、血筋や教養だけでなく武勇も誇る彼は、京から派遣された陸奥守・源頼義(みなもとのよりよし)を裏切って、安倍側に走った。
安倍氏の棟梁、安倍頼時(あべのよりとき)の娘を娶っていたことは要因の一つだがまずそれ自体が、彼が東北に馴染み、実態を把握し、理解し、共感していたことを示している。東北のドンからそこまで信用されているのは、彼の資質と理解力、そして人間性に依るところが大きいのだろう。
東北の土地をよく知り人をよく知る藤原経清からすれば、中央の朝廷の思考回路と、武力で制圧すれば済むという源氏の大将の短絡と暴威は許せるものではなかったのだろう。彼の機知と武勇によって安倍軍は善戦した。
「前九年合戦」がその名の通り、9年もの長きに渡ったのは彼の優れた戦略のおかげだと言える。
そして安倍氏には、彼が再び国府軍に寝返る心配などはまったく必要なかった。
同じように安倍氏の棟梁の娘(中加一乃末陪・なかかいちのまえ)を娶っていた平永衡(たいらのながひら)は朝廷軍に属していたが、源頼義に強引に裏切りの疑惑をかけられ、簡単に処刑されてしまった。
それを見た藤原経清は、タイミングを計ってサッと寝返ったのだ。
その寝返りのせいで「前九年合戦」で敗れた時、源頼義は怒りに震え、首を斬る用の刀の刃ををこぼれさせ、摩擦係数を上げて斬れにくい仕様に変えさせて処刑したと言われる。わざと残虐に、苦しみが長引く処置をして惨殺した。安倍氏の抵抗と戦略が、藤原経清の知恵のせいだと知っていたのでブチギレれていたのである。
彼が処刑された安倍氏が滅んだ後、陸奥は清原氏に委ねられた。
陸奥守・源頼義は、安倍氏征伐にもう一つの東北の雄・出羽の清原氏の手を借りることにした。
苦渋の決断である。
赴任地に戦乱がないと、属領の長官としての成果を上げるきっかけがない。他の貴族たちのように陸奥に派遣され安倍氏に取り込まれ、適当に大量の貢物を食わされて私腹を肥やすだけでは、武門の棟梁として面目が立たない。どこかで戦闘に勝ち戦争をおさめ、付き従う各国の武士たちに「源氏こそ武士の頂点」という認識を植え付けなければならない。京都での出世、一族の扱いにも影響を及ぼさなければならない。源頼義にはその焦りがあった。やらなければならなかった。
源頼義は蝦夷である清原氏に頭を下げる形で、援軍を依頼したという。「前九年合戦」は朝廷・清原連合軍で戦われたが、源頼義直轄軍は数が少ないので、実質的には清原軍が直接手を下すことが多かった。
陸奥守には任期があるが、安倍氏滅亡後の奥羽を任せるには清原氏しかなく、安倍氏隆盛時には出羽をまとめるだけだった「第二の蝦夷」は、委任される形で安倍氏の旧所領を含め、全体を統括する地位についた。
同じ奥羽に暮らす蝦夷としての矜持より、陸奥守に認められ恩を売り、安倍氏を滅ぼし東北の富を独占したいという支配欲が勝ったようだ。うまくいけば貴族になれる。出羽の清原は、陸奥の安倍氏を裏切った。
当主の清原光頼(きよはらみつより)は慣習に従い、中立の立場を保持しようとしていたようだが、清原家の中でも意見が割れたのだろう。けっきょく当主の弟・清原武則(きよはらたけのり)の加勢によって、安倍氏は滅んだ。
こういうことって、どこにでも起こり得ることだ。
まず、内政のいざこざがある。
内部の権力争いがある。
権力を狙う二番手は、一番手を追い落とすきっかけを常に探している。
堂々と逆らえる機会を狙っている。
源氏から戦争の協力を要請された時、動かなければ良いのに権力第二番手である清原武則は、加勢する方に賭けた。安倍氏討伐が失敗したとて清原氏全体に傷はつかないし、二番手の地位もとりあえずは揺るがない。だが征伐が成功したら清原氏の中での自分の発言権は巨大になる。首領の兄に対抗できる。失うもののない、損のないギャンブルに出て、清原武則は勝った。
従五位下の官位を与えられ「鎮守府将軍」に任命された。
安倍氏は滅んでしまったが、風習として女性はあまり殺されない。
安倍頼時の娘と幼かったその息子・藤原清衡は、なんと敵・清原氏に身を寄せることになった。
母方の一族を滅ぼし父親を殺した敵である清原武則に、母が嫁ぐことになったのだ。
いにしえの盟約を結んだ上位とも言える一族を滅ぼしその女を戦利品として奪うことで、勝利にさらに陶酔しようという、清原武則の下衆さの表れだったのか。はたまた、古き盟友の血筋を残すための、憐憫の沙汰だったのか。
怨敵の家で幼少期を過ごすことになった。
親の仇を父とし、裏切った支配者の家で、成長せざるを得なかった。
この時期、彼は「清原清衡」にならざるを得なかった。
こんな悲しいドラマがあるだろうか。
その上、母は夫を殺した敵である清原武則との間に弟、清原家衡までもうけている。
しかし、母の真なる思いを、彼は知っていたのだろう。
自分の助命と引き換えに、母は自らの身を敵の大将に預けたのだ。
お前さえ生きていれば、安倍・藤原の両方の血を受け継ぐお前さえ生き延びれば、いつか再興はなる。成長の過程のどこかで、彼はそれに気づき、忍んで生きた。目立たず、反乱も企てず。
藤原清衡の「打倒清原」という怨念形成において、それが影響を与えていないわけがない。父違いの弟とは、のちに殺しあうことになる(後三年合戦)。
血が滾(たぎ)るほどに憎い、安倍氏を追い詰め父を殺した清原の連中。そこに身を寄せ、ジジイに抱かれ、子供まで作った母。事情は理解できたが、それだけでは済まない「歪み」が心に生じていたと推察される。しかし彼には政治的な「抑制しつつ共存する」という知恵と根性が育っていった。
この、母を奪われ自分は活かされなんとか生き延びて栄華をつかんだ初代・藤原清衡の生い立ちを、藤原秀衡は、源義経に重ねたのかも知れない。
数奇な運命に翻弄された祖父・清衡を思い、源義経に重ね、庇護する気になったのか。
生まれや母の出自で苦しんだ、初代を知っていたはずの藤原秀衡。
彼には藤原国衡(ふじわらのくにひら)という男児がおり、母は地元の娘だったと言われる。かなり若い時の(15歳くらいの時の)子供だという説もあるが、藤原国衡は、四代目にはならなかった。
弟の、藤原泰衡(ふじわらのやすひら)がいたからである。
藤原泰衡の母は、藤原基成(ふじわらのもとなり)の娘だ。
藤原基成と言えば官位は従五位上、陸奥守に任じられ着任した貴族中の貴族である。
奥州藤原氏二代目・藤原基衡(ふじわらのもとひら)と親交を深めたが、平治の乱で斬首された弟、藤原信頼(ふじわらののぶより)の連帯責任で、改めて陸奥に流罪になった。それ以来、彼は奥州で過ごすことになる。政治顧問・京とのパイプ役として奥州藤原氏・平泉の発展に彼が大きく寄与したことは間違いない。
藤原秀衡は血筋を優先して、貴族の血を引く藤原泰衡を嫡子として扱った。
あんなに京の支配を嫌い、朝廷と対立し、貴族を排除しようとした奥州藤原氏が三代目にして皮肉にも、京の論理を採用し、血脈を重用し、貴族化してしまった。
もしかしたら四代目・藤原泰衡の時代になってあっさり滅んでしまったのには、そうやって三代目まで脈々と受け継がれてきた「蝦夷」としての矜持が、崩壊したことが原因になっているのかもしれない。
ちなみに藤原基成の父、藤原忠隆(ふじわらのただたか)の従兄弟は一条長成(いちじょうながなり)だ。
この一条長成という人、なんと源義経の母・常盤御前が最後に嫁いだ男なのだ。
平清盛は「ある程度」で、常盤御前を解放した。
そして子が無かった彼に、常盤御前を押し付けた。
いや押し付けたというのはわからない。
「どう?」と訊かれたら誰であろうが断れなかっただろうし、美人の誉は高いが政治的に厄介な存在でもある常盤御前だ。
「ありがたく頂戴いたします」としか言えなかっただろう。
常盤御前は一条長成との間に一条能成(いちじょうよしなり)、そして一女をもうけたという。
源義経を含めて源義朝との間に3子、清盛との間に1人、そして一条長成との間に2人の子を作ったという常盤御前。牛若丸らの助命嘆願や美女だったというのは創作物の中に書かれているだけで、事実かどうかはわからない。
だが源義経が鞍馬で坊主になりかけている時、陸奥へ行く働きかけと段取りをつけてくれたのは、確かにこの常盤御前→一条長成→藤原基成ルートだっただろうと思われる。そこにしか、源義経と陸奥を最初に結びつけるきっかけを見つけることは出来ない。
「ツネ」はどこから持ってきたのか
そうなって来るとまさか、ではあるが勝手に自分で元服したという牛若丸がつけた名前「義経」、「義」を父・源義朝から取ったことはわかるが、「経(つね)」はいったいどこから来たのか。
もしかすると奥州の歴史を源義経の若い頃からさらにさかのぼって考えてみるに、出てくるのはやはり「藤原経清」の存在である。「源義衡(よしひら)」ではあまりにも奥州藤原氏に最初から媚びてる感じなので源氏の御曹司としては、そう名乗るわけにはいかない。
平治の乱で処刑された一番上の兄(異母兄)、通称・悪源太義平(あくげんたよしひら)と読みがかぶってしまうこともある。
「源義経」、考えてみれば陸奥安倍氏・奥州藤原氏と源氏をつなぐ、象徴的な名前に見えてこなくもない。
そんな経緯もあって、藤原秀衡は源義経を、思惑たっぷりの中で匿うことにした。
だが時代は、両者が考えているより早く、そして悪意を持って、動いていたのだった。
行ってまいりました
安倍一族鎮魂碑
地元の人と自治体がちゃんと管理している安心感。
それにしても田園地帯なので人通りはほぼない。
観光客も絶無である。
遠くを走る高速道路の車の音がするだけ。
それ以外は風の音と、自分の心臓の音しかしない。
静かに、全国レベルでは忘れ去られようとしている安倍一族。
どんなドラマでも映画でも鎌倉時代からさかのぼって安倍氏を描くものはまずない。
NHK大河「炎立つ」以来、まったく無いのではないか。
資料がない。
だけど界隈にずっと暮らしている人たちにとってここは、衣川(ころもがわ)を南に渡った平泉の賑わいとは一線を画し、遠く11世紀(平安期)の匂いすら残る、重要な場所なのだと分かる。