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奥州藤原氏の、栄華の象徴として花開いた都・平泉。
さらにその栄華の象徴として、政庁・平泉館(ひらいずみのたち)があった。
奥州では館を「たち」と読む。
そこを拠点としたりその建物を象徴する人物を、「御館(みたち)」と呼んでいたらしい。
「お館(やかた)」というのと同じで、それはそのまま「親方・親分」という意味と重複するのだろう。「殿下」や「陛下」も同じような語源である。
平泉の三代目ボス・藤原秀衡(ふじわらのひでひら)は、平泉館と、無量光院(むりょうこういん)を作った。この寺院は京都の平等院鳳凰堂を完全に模して作られたと言われ、その目的は同じく「浄土の顕在化」である。
西側にある金鶏山(きんけいさん)の頂上へ夕陽が落ちていく刹那、その逆光は無量光院を視界ごと、ゴールドに染める。
「皆金色」がコンセプトの平泉において、「マジ金色」が実現する瞬間である。
一説には金鶏山、相当数の人足を使って一晩で築いた山だとも言われる。
つまりその「夕刻の絶景を計算して、すべてを作った」ということだ。
それくらいのことが、号令一下で可能だったということになる。
命令系統の厳格さというか、資金の潤沢さというか。
朝廷が「うまく放置して問題さえなければ貢物その他で役得が順繰りに発生する」と判断したのもわかる。
源頼朝(みなもとのよりとも)は先祖から続く恨みと妄想と野心で必ず滅ぼしてやろうと考えていたが、藤原秀衡のボスとしての重鎮感・不気味さは「東北にはうかつには手を出せない」雰囲気を醸し出していたのだ。
初代・藤原清衡(ふじわらのきよひら)が築いた中尊寺。
二代・藤原基衡(ふじわらのもとひら)が築いた毛越寺(もうつうじ)。
大寺院を中心として栄えに栄えた平泉に、三代目の軌跡として作られた無量光院。
新御堂(にいみどう)と呼ばれていたところを見ると、新しい寺ではなく、毛越寺(もうつうじ)の「院」だったようだ。
度重なる火事で消失し、再建されることはなかった。
これらが「えええ!?ほんとだったんだ!?」とわかるには、なんと昭和27(1952)年の発掘調査を待たねばならない。
水田として地元の人が利用し続けたことで、その遺跡は土の下で保存されていた。
田舎なりゃこそのミラクルである。
それは平泉館をはじめ「柳之御所(やなぎのごしょ)」から臨める位置に作られていた。
行ってまいりました
無量光院跡
無量光院は、極楽西方浄土を再現した12世紀(平安時代)の仏教寺院の貴重な例で、浄土庭園の最高傑作と評価されています。無量光院とその浄土庭園からは、建築物としての重要性に加え、当時の人々が思い描いた極楽西方浄土を伺い知ることができます。
13世紀(鎌倉時代)の歴史書『吾妻鏡』には、無量光院の伽藍は京都にある平等院を模したものと記されています。無量光院と平等院には、中島に翼廊を備えた阿弥陀堂が建てられました。
無量光院は、三代秀衡(1122ー1187年)が造営しました。無量光院の境内は、周囲を囲む土塁と、3つの島をもつ大きな苑池で構成されています。池の中の最も大きな中島に阿弥陀堂が建っていました。極楽浄土は西方にありとする仏教の世界観を表すため、阿弥陀堂は東向きに建てられていました。
発掘調査では、東島から数棟の建物の跡が発見されました。ここで儀式や祈りが行われたと考えられています。北小島には、中島への橋跡が確認されています。
無量光院跡は、世界遺産「平泉」の構成資産に含まれています。
そう言えば、鎌倉の永福寺(ようふくじ)はこの無量光院を真似て作られたのだった。
ということは「京都→平泉→鎌倉」と増幅しながら浄土様建設が広まっていったということであり、平泉が「京と鎌倉のあいだ」と表現される所以である。
これが宇治の、平等院鳳凰堂。※参考写真
これが平泉にあった、無量光院(復元・想像図)。※参考写真
そして鎌倉にあった、永福寺(復元・想像図)。※参考写真
いわば三兄弟。
お前はもう死んでいる。
基本的にこの時代、「末法思想」というものが世間に渦巻いているとされていた。
「世も末じゃ」というやつで、お釈迦様が死んで2000年経つと、世の中がダメになっていく…というようなどこかの1900年代終わりにもあったようなムードが社会に染み込んでいた。
その「末法の時代」は永承7(1052)年から始まるとされ、社会不安は貴族をして「出来るだけ浄土に近づけるようにしておかないと!」という考えに染まるにじゅうぶんなものだったのだ。
とにかく阿弥陀様に助けてもらうのじゃ、という感じだ。
永承6(1051)年から奥州ではいわゆる「前九年合戦」が起こっており、宇治の平等院はまさに永承7(1052)年に藤原道長(ふじわらのみちなが)の別荘を息子・藤原頼道(ふじわらのよりみち)が寺院に建て替えた。
飢饉や火災の原因を「末法の時代だから!」に求めた人心の荒(すさ)び方は想像を絶する。
富豪を極める中でもトップオブトップスである藤原氏(京)・奥州藤原氏(平泉)・源氏(鎌倉)が、まったく同じような建築物を作るというのも、それこそがもう末法思想の極みそのもののような気がする。
思えばエジプトのピラミッドとまったく同じ様式のものを、サウザーは「聖帝十字陵」と呼んでいたよね。
ズゴゴゴじゃないんだよ。
今は穏やかで、静かで、鳥が池を進む様子すら間近で見れる無量光院跡。
無量光院跡
平安時代末に奥州藤原氏三代秀衡が建てた寺院の跡です。浄土庭園として知られ、三方が土塁に囲まれた境内には、梵字が池と呼ばれる池跡があり、その中に本堂跡の礎石が残る西島跡と、東中島跡があります。
鎌倉幕府が編纂した歴史書『吾妻鏡』によると、「宇治の平等院を模す」と記されています。昭和27(1952)年に行われた発掘調査によって本堂の形などが、平等院鳳凰堂に似ていることが確認されました。
四月中旬と8月末頃には、本堂と東中島建物の中軸線上に位置する金鶏山の山頂に、夕陽が沈む光景を見ることができます。
そう言えば聖帝十字陵に散ったこの人の流派って「南斗白鷺拳」だったよね。
ドバババじゃないんだよ
「シラサギはいないが白いサギはいる」詐欺のようなサギの話…なぜ?
https://withnews.jp/article/f0230824001qq000000000000000W09110201qq000026094A