53歳で、源頼朝は死んでしまいました。
「落馬した」と記録されていますが、今さら武家の棟梁たる源頼朝が、関東武者のトップ・オブ・トップが、馬から落っこちて死ぬでしょうか。
おそらく「落馬が原因で死んだ」のではなく、「別の原因があったから落馬した」と考えるのが自然ですよね。
源頼朝は「糖尿病だった」という説もあります。
あるいは「脚気(かっけ)」か。
だいたい、「殿様病」と言われるくらい、高貴な人らは脚気で死んでるんですよね。
コメ食いすぎのビタミンB1不足。あるいは酒の飲み過ぎ。
なので偉くなればなるほど糖尿と脚気のリスクは上がる。
それにしたって…とは思いますね。
だって、いくら持病が悪化したからって、「ちょっと休む」と言えばいつだって全員を止めて休める地位にある人でしょう。
なんで「馬から落ちるまで頑張ってた」んでしょう。
京都で正装でパレードしてる時でもないし、合戦の最中でもないんだから。
源頼朝は、「相模川」で稲毛重成(いなげしげなり)が「橋供養」を行なうとのことで参列し、その帰りに落馬しました。
稲毛重成の妻は、北条政子の妹・元子です。妻が亡くなって供養としての、橋建設。
「橋供養」として、稲毛重成が架けた橋の、渡り初めを源頼朝がしたそうです。
その帰りに落馬しました。
一説には「源義経の霊が出た」なんていう話も…。
鎌倉初期の、埋もれていた橋脚がなんと、関東大震災の揺れで、浮き出てきたんだそうです。
昔は、相模川の流れは、今より少し東側にあったんですね。
で、「頼朝落馬の地」がここ。
直線距離で5kmくらいしか離れてないところで、源頼朝は落馬しました。
この近距離、鎌倉まですら15kmしか離れてないんですから、近所へ出かけてそこで体調崩し…落馬、しますかねえ…。
これって「毒を盛られた」的な想像がたくましくなっても仕方がないところ、あったりするような…。
どちらにしても、武家の頂点として、そのカリスマで全武士を統率してきた源頼朝が、急死してしまいました。
源頼朝がドカンと重しとしての押さえとなっていた鎌倉武士団は、やっぱり途端にモメ始めます。
そもそもは「豪族の集まり」で、武士のシンボルとして源氏の大将を担ぎ上げていた寄せ集め、寄り合い所帯だったんですね。
源頼朝は、ぜんぜん味方のいないところからだんだん数を増やしていった苦労を、経験しています。
だから「挙兵以来の味方」には、頭が上がらないところがある。
流人時代に世話になった人らにも。
基本的に、関東の武士団に「この日本という国を」という国家経営のビジョンなどあるはずはなく、「自分の領国の運営を続けられるかどうか」「できれば隣国をかすめ取れるかどうか」くらいの野望しか持っていないので、官僚制度を新たに整備して全国統治を…なんていうのを考えるのは、宇宙ステーションを月に下ろして植民する、くらいによくわからない世界観だったはずです。
武力を持った豪族連合でありながら、同時に官僚組織でもあり、初めての武家政権としての「決まり」を作っていかないといけないのが鎌倉幕府の「やらなければならないこと」だったんですね。
実力で殺し合って勝ち取る、というような血生臭さを維持しつつ、上手に「これは決まったことなので従っていただく」みたいな法治主義を、淡々と進めていかないといけない。
「世の中とはそういうもの」という常識を、武士の手によってイチからこしらえていくという、曲芸のような難事業。
その中心に、北条ヨシトキはいたと言って良いのでしょう。
源頼朝が死ぬと、二代目は源頼家になりますが、まぁ御家人たちは押さえが利かなくなります。
でもさすがに「自分が将軍に…!」とはならないのがおもしろいところ。
将軍の首を取ったとて、征夷大将軍とか、官位が、素直に横スライドしてこないことは当時の身分制度のはっきりした感じで、わかってるんですね。
とにかく、御家人同士でモメまくり、讒言しまくり、殺しまくりの時代になってしまいます。
その中で、通称「畠山合戦」と呼ばれる「畠山重忠(はたけやましげただ)の乱」を鎮圧する事件は北条ヨシトキにとって、特異な事件と言って良いのではないでしょうか。
畠山重忠は、秩父の人。
武士の中の武士として、その武・智・勇において右に出る者はないというほどのレジェンドソルジャー。
しかも清廉潔白、竹を割ったような人で「坂東武士の鑑」と呼ばれていたそうです。
現在の埼玉県深谷市が領土で、流れとしては桓武平氏なんですね。
上に出てきた稲毛重成とも同族です(もう一回出てきます)。
そもそもヨシトキの属する北条家が鎌倉政権の中で、地位を安定したものにするには、やっぱり「すごい」と呼ばれる人らを蹴落とす必要がまずあった。
そのターゲットの一つが「畠山」だったんですね。
発端は、京都で起こった、畠山重忠の息子・重保(しげやす)と平賀朝雅(ひらがともまさ)との口論にあったと言います。
平賀朝雅は、北条ヨシトキの父・時政の後妻、牧の方の娘婿。
この「牧の方」という女性、どうもかなりキナ臭い、厄介な、めんどくせえ、鬱陶しい、我の強い、権力欲の猛烈な、はっきり言ってややこしい女性です。
のちに「牧氏の変」として表面化します。
北条ヨシトキの父・時政はこの、若い後妻にギャンギャン言われるとどうも弱い。
平賀朝雅が、牧の方に「罵られちゃったよ畠山重保に〜」と告げ口し、牧の方はすべて真に受けて脚色し、「あの畠山って野郎は許せないのよ!殺して!」と耄碌し始めたジジイ・北条時政に詰め寄ったんですね。
ジジイは素直にあの親子(畠山重忠・重保)が鎌倉幕府に対して謀反を起こそうとしている!と、討伐対象者にしてしまいます。
でも、息子であるヨシトキには相談したようです。
冷静かつ、スジを重んじるヨシトキは
「犯否(ぼんぷ)の真偽(しんぎ)を糾(ただ)すの後(のち)にその沙汰(さた)あるも、停滞(ていたい)すべからざらんか」
と主張しました。
つまり「その疑いをちゃんと調べてからでも、ぜんぜん遅くないでしょう?」と、至極まっとうなことを言ったんだそうです。(『吾妻鏡』元久二年六月二十一日)
だけど、押し切られちゃうんですね。
なんでだろう…っていう感じ、ここは不思議に思います。
『吾妻鏡』は基本的に、のちに得宗家初代となったヨシトキを持ち上げるために書かれているっていう傾向があるので、ヨシトキは悪くない…っていう方向性が、あちこちに仕掛けられています。
今回、ヨシトキは従ってしまいます。
畠山親子に、反乱の疑いがあるのか、まだぜんぜんハッキリしていないのに。
もちろん「親の決めたことに子が従う」は当時の絶対常識としてあるはずで、その上、畠山氏が滅亡することが北条氏にとってメリットだということは、これまた常識としてヨシトキも理解はしていたはず。
もしかすると「よくぞ機会ができたものだ!」と、ヨシトキも思ったのかもしれませんよ。
よくやった牧の方、かなり無理はあるけど馬鹿女、一応ストーリーとしては通ってるぞ、的な。
だけど後から見ると、無茶であることは明白なわけです。
二俣川(現在の神奈川県横浜市旭区)での合戦時、畠山重忠の軍勢はたった134騎。
あの豪勇・レジェンドソルジャーである猛者が、謀反を起こすのにそんな少数で鎌倉武士団に挑むわけがないんです。
信じられないくらいに大挙して出陣したヨシトキ率いる幕府軍に、畠山重忠はあっけなく討ち取られてしまいます。
あの勇者オブ勇者・武士オブ武士が本格的な合戦もなくあっけなく死んでしまうこと自体、「牧の方」の騒ぎ立てた謀反が計画的でないこと・計画すらしていなかったことを物語っている…と、誰でもピンとくるわけです。
だからこそヨシトキの、「しょうもない女のヒステリーに便乗した欲ボケジジイに、あーも簡単に従ってるじゃないか」という後ろめたさが引っかかるんです。
『吾妻鏡』では、「犯否(ぼんぷ)の真偽(しんぎ)を糾(ただ)すの後(のち)に…」みたいな、「正論はちゃんと吐いておりました」というアリバイを、後付けするしかなかったのではないでしょうか。
で、京都で口論して「畠山重忠の乱」のきっかけになってしまった息子の方・畠山重保はその時、鎌倉にいて、何事かと思っているうちに由比ヶ浜で取り囲まれ、殺されてしまいます。
それが、ここです。
鎌倉市指定有形文化財 石造宝筐印塔(明徳四年銘)
高さ3.4mを超える、市内でも大型の宝筐印塔で、鎌倉幕府御家人、畠山六郎重
保墓塔と伝えられます。塔の基礎には『明徳第四 癸酉霜月三 日大願主 比丘
道友』と刻銘があり、作風からも明徳四年(1393)造立とみられ
ます。同じく14世紀後半に造立された市内の宝筐印塔としては、
文和五年(1356)銘の通称「泣き塔」(寺分所在)も有名です。
立派な碑も。
畠山重保邸阯
畠山重保ハ重忠ノ長子ナルガ嘗テ北條時政
ノ壻平賀朝雅ト忿爭ス朝雅其ノ餘怨ヲ蓄ヘ
重保父子ヲ時政に讒ス時政モト重忠ガ頼朝
ノ薨後其ノ遺言ニ依リ頼家ヲ保護スルヲ見
テ之ヲ忌ミ事ニ依リテ之ヲ除カント欲ス乃
チ實朝ノ命ヲ以テ兵ヲ遣シテ重保ノ邸ヲ圍
ニ日此ノ地即チ其ノ邸阯ナリ其ノ翌重忠亦
偽リ誘ハレテ武蔵國二俣川ニ闘死ス
大正十一年三月建 鎌倉町青年團
ヨシトキは、仲の良い戦友であり、義理の兄弟でもあった畠山重忠を殺すことになったことに、とても無念な気持ちを持っており、ちょん切られた首を見て、泣いたそうです。
関東の御家人たちも、鎌倉の指令には従ったものの、畠山親子が無実だったとわかると、強烈に激怒します。
この「謀反だったは嘘だった!」の矛先が、北条氏に向かうのは良くない。
悪いのはおそらくぜんぶ「牧の方」っていう女なんですけど、ヨシトキとしてはとりあえずこの、関東一円に燃え上がる「よくもレジェンドをハメてくれたな」という怒りの炎を、何とかしないといけない。
で、結局、「畠山を陥れただろ!!」という怒りの矛先は、稲毛重成に向けられます。
弟の榛谷重朝(はんがやしげとも)と共に、子供もろとも殺されます。
なんだか、犯人探しのターゲットにされたかのように。
ケネディを撃ったとされるオズワルドも殺されてしまった…口封じかのように。
稲毛重成!
そう、前述した、「妻・元子を亡くして橋を架け、頼朝が渡り初めをした」、あの稲毛重成です。
初代征夷大将軍・源頼朝の嫁の妹と結婚していようが、もはや「反乱をそそのかした」という嘘の張本人に仕立て上げられてしまうと口封じっぽく、あっさり殺されてしまうんですね。
いかにこの頃の鎌倉が血生臭く、有力御家人たちすぐ実力行使に出て殺し合う野蛮なやつらばかりだったかわかります。
でもヨシトキは、やっぱりわかってたはずです。
彼はのちに、この乱の原因である平賀朝政を殺し、父である時政は追放し、牧の方も追放して、実権を握ります。
友の死によって「武蔵国が手に入る」という副産物が生まれるわけですが、皮肉にも「泣くほど無念に思った」出来事が、北条家・ヨシトキをトップオブ鎌倉幕府に押し上げるきっかけに、なってしまったんですね。
源頼朝が死んでしまったら、もはや「幕府のビジョン」を描ける人はいなくなってしまいました。
だって「日本、初めての幕府」ですから。
ヨシトキは、親に従い友を殺ししながら状況を見極め、謀略と戦術の綱渡りを、怜悧にギリギリを攻めて体制を構築していきます。
地味に見えて、結果的には最善の道を最短で通っているヨシトキ。
幕府で起こる内乱は、まだまだ続きます。
『北条氏と鎌倉幕府』の中で細川重男氏は、ヨシトキの、この乱に対する気持ち(『吾妻鏡』の意訳)として、
クソ親父!オレたちを騙して、ダチを殺させたな!
と記してらっしゃいます。
なにせ『吾妻鏡』ですから、ヨシトキがほんとにどう思ってたのかは、わからないままではあるのですけれども…。