最初からやる気だった、鎌倉殿
源頼朝(みなもとのよりとも)は、懐柔や共存など、最初から考えていなかった。
最初から、奥州藤原氏は全滅させるつもりだった。
源義経(みなもとのよしつね)が平家打倒軍に勇んで参戦し、初めて兄弟涙の再会をした黄瀬川のほとり。その時点ですでに源頼朝は、奥州に不信感と敵愾心を持っていた。
「弟がいるので操れる」ではなく、「絶対にいつか服従させてやる」対象と考えていた。
富士川の合戦(1180年)に勝ったあと、軍勢が膨らんでも勢いに乗って上洛しようとせず、鎌倉へ引き返したのは「まだ服従していない佐竹氏などの後ろに、奥州藤原氏がいる」と説得されたからであり、それに渋々ながらも従ったのが源頼朝のすごいところでもある。
もし源義経が総大将だったら、絶対に猪突猛進していただろう。
奥州藤原氏がかつて若き源義経を匿ったのは、源氏の御曹司を懐中に入れることで平家との全国的なバランスを取ろうとしていたのかも知れない。源氏の勢力は減衰していたが、平家の要請をのらりくらりかわすことが出来たのはひとえに奥州が「遠い」からだった。
兵力をまったく動かさず、京はおろか関東にも攻めてこない安定した奥州。彼らに源義経を預からせていた方が、いくら鞍馬山から逃げたとは言え源氏の残党どもに育てられるよりは安心かも…という計算が、平家にはあったのかも知れない。
その当時、どちらかと言えば厄介な存在なのは源頼朝であり源義仲(みなもとのよしなか)であり源行家(みなもとのゆきいえ)だったはずだから、位階や役職という餌を与えて「動くなよ…」と暗に脅しをかけておいた方が得策、と平家は読んだのだろう。
しかし奥州藤原氏は、位階に対しても役職に対しても、あまりなんとも思っていないのである。
上手く利用しているだけ、のように見える。
朝廷には服従の姿勢を示しているし、摂関家の荘園の管理も滞りなく行ない年貢徴収の役割も果たしているのだが、「名よりも実を取る」という態度で、ドンと構えてなんら、中央の価値観には靡いてこないのである。
豊かな土地(平安末期は東北の温度上昇で、作物が豊かに採れる期間だったらしい)、多くの馬、商業と流通を抑え、決められた年貢などいくら額面通りきっちり送ったところで、余りある富と財産がどんどん増えていく。軍馬も兵士も、いくらでも養える。
我々は歴史を、史料研究する学者先生からの情報で知るが、史料というのは京の貴族や鎌倉の武士側にしかなく、東北・陸奥・奥州に関する史料はほぼ絶無と言って良いそうだ。なぜ奥州藤原氏は、あれだけ広大な領地・管理地を持ち高い文化度を誇りながら、豊富な書物が残らなかったのだろうか。謎だ。
奥州合戦(1189年)で藤原泰衡(ふじわらのやすひら)は「源氏に奪われるのならばいっそ」と、ほとんどの宝物庫や資料館などを焼き払って逃げた。もし彼がそのまま放置して逃げていたなら、歴史的にものすごい発見があった可能性もある。
中尊寺にあった紺紙金銀字交書一切経(こんしきんぎんじこうしょいっさいきょう)は、豊臣秀吉(とよとみひでよし)によって持ち出され、高野山に運ばれた。そういう例もある。
奥州は、源氏にとって因縁の地
河内源氏の正統継承者である源頼朝は、先祖が苦労した東北の地に、ただならぬ思いを持っていたと思われる。
六代前の源頼信(みなもとのよりのぶ)は、関東に基盤を築き、この頃から坂東地域にいる平氏とも関係性を結ぶことになる。源頼朝が挙兵した時、元を辿れば平氏であるはずの畠山重忠(はたけやましげただ)や千葉常胤(ちばつねたね)などが付き従ったのも、「先祖累代の主従関係」を重んじたからだ。
五代前の源頼義(みなもとのよりよし)はその武勇と坂東での武力基盤などを期待され、永承6(1051)年、陸奥守に任じられた。
「前九年合戦」である。
「前九年」というのは「前半の9年」という意味で、「奥州十二年合戦」と呼ばれるところの「後半の3年」が残っている。
東北を支配していた安倍氏討伐を掲げたが、その名前の通り、鎮圧に9年もかかっている。
当時の日本人(中央の人々)にとって東北人は「夷狄」であり「野獣」であった。
見たことも聞いたこともない「道の奥(みちのく)」を攻め平定した「勇猛の家」である源氏は、武門としての誇りを高く維持することが出来た。源頼義は平直方(たいらのなおかた)の娘と結ばれ、坂東の平氏とも強い結びつきを作り、この頃から鎌倉が、源氏の拠点の一つとなった。
時代は進んで四代前、源義家(みなもとのよしいえ)は永保3(1083)年に陸奥守に任じられ、そのころ奥羽を支配していた清原氏で起こった合戦に武力介入した。これが「後半の3年」だ。
が、京ではこれを「清原氏の内紛に勝手にしゃしゃり出ただけ」と評した。褒賞をもらえなった。源義家は坂東から連れて行った兵士たちに、私費で恩賞を出した。
源義家は後に出世した(正四位下)。
その強引な「武力を背景にした出世」は、武士の台頭という意味で平家のロールモデルになった部分もあるだろう。
次男・源義親(みなもとのよしちか)や三男・源義国(みなもとのよしくに)らの乱暴狼藉で河内源氏一族は荒れ、源義親を討った平正盛(たいらのまさもり・平清盛の父)が出世する。
内紛や血みどろの源氏の子らはさらにそれぞれ関東へ下って、地盤を築くことになる。
源頼朝にとって奥州は「先祖がうまくいかなかった地」であり、「源氏内抗争のきっかけ」であり、「平家興隆につながるタイミング」であり「源氏がナメられた土地」であり、武門の家長としてはなんとしてでも打ち従えないと気が済まない、因縁を含んだエリアなのである。
文治5(1189)年、満を持して源頼朝は、「奥州征伐」に乗り出す。
この時すでに、弟の源義経は「大罪人」であり「全国指名手配犯」であり、鎌倉幕府が国家権力として捜索しているターゲットであった。
支配としては、東北から京へ送られる物資や年貢を、直接ではなく鎌倉を通せ、という申し出をし、奥州はそれに従っている。奥州藤原氏は鎌倉幕府に従う姿勢を見せている。
平家がやっていたように東北の実質支配は奥州藤原氏に任せる、という穏便なやり方を踏襲するほど源頼朝は甘くなく、優しくなく、絶対に先祖代々の恨みを忘れたりしない人だ。
源義経は最大限、利用された
元暦2年(1185年)、兄に許してもらえない源義経は、源頼朝追討の宣旨を要求したり、兵を挙げることを宣言してしまい、決定的に追い詰められていく。
結果的に大勢力を作ることが出来ず、源義経は逃げ続けることになった。
これを捕まえる(追捕)ことを名目に、源頼朝は「守護・地頭の設置」を朝廷に認めさせた。
全国に、源頼朝の支配と命令が行き届く体制が出来た。
これをして「鎌倉幕府の成立」を1185年とする説が、教科書などで現在は採用されている。
イイクニ作ろう、の1192(建久3)年は、「源頼朝が征夷大将軍に任命された年だ」。
彼の役職がなんであろうと、幕府の支配体制は1185年に開始した。
源義経はそのためにしばらく泳がされ、活かされたのかも知れない。
彼ら一党が探索の網を逃れ、包囲網を掻い潜って運良く平泉にたどり着いたというのも、なんだか出来すぎた話に見えてくる。
源頼朝は、源義経が最後に逃げ込むのは奥州しかないことを最初から承知しており、徐々に追い込んで東北へ向かうのを、眺めていたのでは無いだろうか。
創作だが「勧進帳(安宅)」も、そういう目で見ると意味が違ってくる。
奥州に逃げ込んでくれれば、「弟の追捕」と「奥州の滅亡」がセットになる。
もはや欧州は、「鎌倉殿」にロックオンされた状態だった。
藤原秀衡(ふじわらのひでひら)はその死に際し、「源義経を主君として戴き、団結して鎌倉の攻めに備えよ」と遺言していた。
源頼朝は自分が事情で軍事行動を取らない(身内の弔いのための殺生禁止期間だった)代わりに朝廷に向かって、藤原泰衡に対しての「源義経追討」の宣旨を出すよう働きかけた。
「奥州よ、お前らが自分で源義経を連れてこい」というプレッシャーをかけたのだ。
逆らえば源頼朝の反目であることがハッキリするし、何より朝敵になってしまう。
朝敵になるということは、朝廷軍による討伐対象になるということである。
朝廷に逆らってでも源義経を担ぎ、一戦を交えるのか。
過去、朝廷軍と散々戦って勝ち、実質的な支配を勝ち得て来た安倍氏の血を受け継ぐ奥州藤原氏には、その選択肢もあった。前九年合戦、後三年合戦で得た平和と繁栄は、「蝦夷」と呼ばれた東北人の誇りと尊厳そのものだった。
朝廷軍と戦ったとしても、戦果によっては有利な講和を結べるはずだ。いくら戦っても損害が出続け戦費がかさみ続けるとなると、攻める側も「それならある程度の条件で…」となるからである。
奥州三代目・藤原秀衡が狙っていたのはそれだったのだ。
パワーバランスさえ保てれば、平家が源氏に変わっただけで、朝廷・武家・奥州の三つ巴は存続し得る。
ところが四代目・藤原泰衡には耐えられなかったようだ。
源義経を殺し、首を差し出した上で、「ほら、やったでしょ?頑張ったでしょ?」と、源頼朝のご機嫌を伺ってしまった。
後白河法皇(ごしらかわほうおう)も京都で「よし。とりあえず解決じゃ」と思っていた。
しかし源頼朝だけが「そんなもんで許すわけないじゃない」とさらに攻める構想を現実にし始める。後白河法皇に対して、藤原泰衡追討の宣旨を要求し、それが到着しないうちに「そもそも奥州藤原氏は源氏の家来であり、家来を罰するのは主人が勝手にやってイイことなのだ」という理屈で出兵してしまう。
公称28万4千騎の源氏軍。
奥州藤原軍は公称17万騎。
「騎」ということは馬に乗った武者だけでその数だ。
歩兵や従者・兵站や輜重部隊を含めるとさらに多いことになる。
そんな動員をこの時代にできるわけはなく、かなり誇張されていると思われる。
現代だって国会前のデモなどの人数は、平気でカサ増しして発表されたりするのだから。
藤原泰衡は逃げた。
北に逃げるしかないので逃げた。
逃げながら、助命嘆願の手紙を源頼朝に送ったとされる。
「うん、わかった。頑張ったもんね。許すよ」などとあの源頼朝が言うわけが無く、ガン無視。
藤原泰衡が思惑通りの場所に逃げるまで追い詰めた。
それはどこか。
「厨河(くりやがわ・現在の岩手県盛岡市厨川)」である。
ここは安倍氏の昔から、戦略的拠点として有名なところであり、源頼義が前九年合戦の折、最終的に安倍貞任(あべのさだとう)・藤原経清(ふじわらのつねきよ)を討ち取った「因縁の場所」だ。
奥羽の軍事拠点は「柵(さく)」と呼ばれた。戦国時代のような天守閣があるような城はなかった。
Googleマップで見てみると、
現在は「天昌寺」というお寺になっている。
天昌寺は「天昌寺町」にあるが、この辺りの地名はなんと「前九年」という。
前九年一丁目から前九年三丁目まである。
合戦の名前を(しかも滅ぼされた側が)つけているというのは少し衝撃だが、盛岡市には「安倍館町(あべたてちょう)」という場所もあり、これは安倍氏の拠点、つまり厨川柵の範疇だったことを示す証拠だと言えるだろう。いや、地域の人たちが、歴史の表には現れてこない自分たちのルーツの一部を、風化させることなく地名として残しておこうという親密度の現れだと思う。
安倍館町
その「因縁の場所」で、源頼朝は象徴的な振る舞いをする。
すでに自分の郎党に裏切られて殺されていた藤原泰衡の首を、釘で打ち付け、たかだかと差し上げて飾ったのだ。
これは前九年合戦で、安倍貞任を斃した源頼義がやったこととまったく同じである。
安倍貞任の斬り取られた頭部を、源頼義は八寸もある釘で貫き通し板に打ち付け、京へ送った。
叛逆の恨みと、勝者の喜悦が共存した、現代から見ると残酷で冷淡な仕打ちだが、源頼義からすると「蛮族の最期などこんなものだ」という威勢を示すものでもあったのだろう。
因縁の土地で、自らが打ち倒した大将の首を、かつての祖先と同じやり方で晒す。
これが源頼朝にとって、シンボリックな「河内源氏正統継承者」であることの示威行為だった。
なにせ源頼朝は、父を殺し一族を破滅に追いやった仇敵・平家追討の作戦には参加していない。源義経・源範頼と優秀な武将に任せ、鎌倉から指揮をとっただけである。
もちろん、全員で鎌倉を留守にすることの危うさもあっただろう。
しかし奥州攻めに関しては、「自分自身が行けるならどこまでも行こう」くらいの気合いで臨んでいる。
もしかしたら最初から、「首を釘で打ち付ける」パフォーマンスをやるつもりだったのかも知れない。勝利が確定した時点で、手前の陣ヶ岡いたわけだから引き返すこともできたはずなのに、徒歩4時間の行程を進んでわざわざ「首を釘で板に打ち付ける」をやっている。
首桶に入っていた種子
ちなみにこの藤原泰衡の首は、今も中尊寺金色堂に祀られている。
それが彼の首だと判明するのは1950(昭和25)年。
それまではずっと、弟である藤原忠衡の首として伝えられていた。
詳細で科学的な調査の結果、眉間から後頭部にかけて18cm、頭蓋を貫通する形で直径1.5cmの小さい穴が空いていることがわかった。
この首桶にはなぜかハスの種が一緒に入れられていたそうで、その時代の種子が「中尊寺ハス」として現在も飼育されている。なんと900年経っている。
奥州藤原氏は滅び、鎌倉幕府も滅んだが、その両方でハスは世代を繋ぎ、生き続けている。
平泉観光協会
中尊寺ハス
https://hiraizumi.or.jp/season/summer.html鎌倉市
中尊寺ハスについて
https://www.city.kamakura.kanagawa.jp/treasury/r4_chusonjilotus.html
奥州のボス、奥州藤原氏の居館・政務所跡、『柳之御所(やなぎのごしょ)遺跡』
柳之御所遺跡は、北上川のほとりに造られた平安時代末(12世紀)の居館跡です。一関遊水事業に伴って1988年から始まった発掘調査によって、堀跡に囲まれた区域から園地跡やたくさんの掘立柱建物跡が見つかったほか、儀式の際に使われた土器(かわらけ)や国産陶器、輸入陶磁器などの奥州藤原氏mの権力を示す遺物が数多く出土しました。それにより、歴史書『吾妻鏡』のなかで奥州藤原氏が政治を行ったとされる、「平泉館」に推定されています。こうした遺跡の重要性から、史跡に指定され保護が図られています。
指定名跡:史跡 柳之御所・平泉遺跡群
指定年月日:平成9年3月5日(追加指定:平成16年9月30日ほか)
現在も発掘作業は続いている。暑い中ご苦労様です。
黄色の枠内が、かつての平泉の超・繁栄していたエリアの中心。
今後、超巨大な予算がつけば、これらの再現もあり得るのか。
中尊寺はもちろん毛越寺も観光客でものすごい賑わいだが、平日昼間にここまでくる観光客はまずいない。
遠くに見える発掘作業の方々と私以外に、人間はいない。
平泉タイム・スコープ(VR)。
天候に恵まれた。直射日光でクラクラする。
とにかく広大な場所だ。
ここに、栄華と権勢を誇る東北のボスの、宮殿があったと考えると感慨深い。
この遺跡が出てきたことで、高速道路のコースが変更までされたらしい。
おまけ
柳之御所遺跡を一瞬だけ歩く(39秒だけ)