鎌倉殿の13人

鎌倉殿の13人 第8回『いざ、鎌倉』

投稿日:2022年3月3日 更新日:

反乱の炎は一気に

坂東に燃え広がった。

大軍となった頼朝勢。

様々な思惑を抱えた

巨大な寄せ集めが、

今、鎌倉を目指す。

いざ鎌倉

教科書で習ったような気がする「いざ鎌倉」には「、」は入ってなかったですよね。

「いざ鎌倉」は、将軍と御家人の間にある「御恩と奉公」の関係性の中で「何かあったらすぐに鎌倉に馳せ参じます」という約束を端的に表した言葉だ、と理解していました。

でもドラマのサブタイトルは「いざ、」なので、その「いざ鎌倉」とは違って「さぁまず鎌倉」みたいな、「やっととりあえず鎌倉」みたいなニュアンスが含まれてる気がします。

石橋山の合戦で一敗地に塗れ、必死のパッチで逃げて房総半島経由で鎌倉へ向かう。

鎌倉へ向かう途中の源義経(みなもとのよしつね・菅田将暉)の、意外に残酷で卑怯な姿が描かれてましたね。
まるで奇を 衒(てら)い名を捨ててでも実を取るだけの困った奴というような。
矢を飛ばす競争をしようと持ちかけて卑怯に相手を殺す演出、無駄なシーンではないはずなので、これは源義経の、もしかしたら天真爛漫な戦争の天才でありながらも彼の精神の奥に沈む「新しい本質」を、暗示しているのかも知れません。

畠山重忠(はたけやまのしげただ・中川大志)も合流しましたが、和田・三浦との確執はこの時は潜っただけで、まだ地下深くでブスブス燻っています。これをしっかり押さえ込んだ三浦勢ってすごいなと思います。跳ねっ返りの逆襲さえ起こらないようにしてた。三浦義村(みうらのよしむら・山本耕史)のあの感じ…。

 

なぜ鎌倉

「鎌倉幕府」というくらいですから鎌倉が、のちに武士政権の中心になることを知ってる我々には「そりゃ鎌倉」だろうと思えるんですけどこの時点で、鎌倉をそう思えたのはなぜなんでしょう。

鎌倉には、源頼朝(みなもとのよりとも・大泉洋)の父、源義朝の館があったんだそうです。亀ケ谷(かめがやつ)に。

鎌倉では「谷」を「やつ」と読むんですね。

それより前、源頼義(みなもとのよりよし)という人が、鎌倉に屋敷のあった平直方(たいらのなおかた)という人の、婿になり、所領も受け継ぎました。

源頼朝はのちに、この源頼義の戦績を辿るように源氏の棟梁としての威厳を示す行動に出るので、源頼義がこの地に根付き、源氏の拠点としたという事実を重要視したのでしょう。

ちなみに源頼義の岳父となった平直方という人は、平貞盛(たいらのさだもり)の嫡流です。
平清盛(たいらのきよもり・松平健)も「貞盛流」なので、源頼朝と平清盛は(遠いけど)「親戚」なのですね。
鶴岡八幡宮の前身である由比若宮を創建したのも源頼義です。

鎌倉時代には由比ヶ浜の海岸線がもっと手前にあったそうで、由比若宮(元八幡)はかなり海岸に近いところに建ってたということになりますね。

鎌倉の説明をされる時、しょっちゅう「要害の地である」という説明がなされます。
「前は海、後ろは山。海は遠浅で船をつけられず、山は峻厳で通り道、狭し。攻めにくし」みたいな説明。

その通りだと思う半面、「じゃあなんでそんな感じのところがフリーで空いてたわけ?」っていう疑問がすごく残ります。
近年、源頼朝が来てから急に栄えた説は覆され、けっこう重要な場所だった説が事実に近いことがわかってきているそうです。

それは何を指すんでしょう。
交通の要衝として知られていた鎌倉も、もしかすると「戦争視点」では見られてなかったということなのかも知れませんね。
「誰が鎌倉を攻めたりするんスか?」っていう。

なにせ平氏と源氏が普通に「お前の武芸すごいやん」で婚礼が成立するような感じなんですから、牧歌的・平和的な目線で見れば「山があって海も近くて、いいところじゃねえか」くらいの認識しかなかったのかも知れない。

戦闘集団・武士の棟梁がやって来て、血みどろの戦争の末に本拠地にしたから「守りが」とか「攻めにくい」という視点で見られることになったんでしょうか。

武田信義(たけだののぶよし・八嶋智人)も言ってましたが「上洛して権力の座につく」というイメージ、なんとなく織田信長とか徳川家康などの戦国武将が目指した状態を描いてしまいますが、「権力」という意味では朝廷の僕(しもべ)であるべしという建前は、同時代の武士たちにとっては本音と限りなく近いものだったのだと思います。
日本を統べる正当性は朝廷(天皇家)にだけある、というのは、現代では想像できないくらいにリアルな感覚だったでしょうね。

兵力を上げながら鎌倉入りしたこの頃の源頼朝にとって、重要なのは「京の動静」だったでしょう。
武田信義(たけだののぶよし・八嶋智人)が味方になってくれるかどうかも、鎌倉で御家人の屋敷の普請をどうするか…も重要ですが、例えば後白河法皇が廃されたら源氏軍の大義名分は消えますから、それらの情報は得つつ、豪族たちを冷めた目で見てたんだと思います。

「武衛(ぶえい)」という呼び方を上総介広常(かずさのすけひろつね・佐藤浩一)が知らないとは思えないですけれど…。

巨頭族よりとも

梶原景時(かじわらのかげとき・中村獅童)があっさり大庭景親(おおばかげちか・國村肇)の下を去りました。

拝領の頭巾梶原縫いちぢめ

という川柳があります。

この「梶原」は梶原景時のことだと思うんですけど、頭巾をもらうほどに信頼・重用されていたという事実と、もらったそれを被ろうとしたら縫わないと合わない…つまり「源頼朝はアタマがデカい」という言い伝えの真実味が響いてくる秀作ですね。同じ巨頭族として、親近感が湧きます。

「佐殿は降伏した者に寛大」だと、北条ヨシトキ(小栗旬)は源頼朝を評しました。
逆に言えば「味方だったも者がたまたま敵だっただけ」というパターンも多くあった状態、ということです。
今は戦力を強化し、平家との戦いに備えるべき時。

鎌倉に拠点を構えたとは言え、この時点で「ずっとここに住める」という保証はどこにもないという段階ですからね。

 

今回の『鎌倉殿の13人紀行』は、ここでした。

寿福寺







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