前列のresponsibility
ライブに連れて行っていただいたら、席が前から2列目だった。ライブ鑑賞・楽曲傾聴において、ステージに近ければ近いほど嬉しいかと言われたら自分としてはまったく求めていない部分だったりして、熱狂的ファンやアイドル好きの人などは皮膚感覚や体温を感じられる距離が短ければ短い方が良いのだろうが、当たり前の喜びと共に余計な緊張感が生まれてしまうのであまり好みのエリアではない。緊張感と同時に、前から4列くらいまでの席に座った者にはそのライブ、そのイベント、その演奏に「責任感のようなもの」が生まれてしまうからだ。例えば前から2列目の人間が、全員座って聴いている中で急に立ち上がったら演者の目に止まる。止まってしまう。意識させてしまう。これが最後列なら気にならないことであろうにそんな客の行動が、近隣の客だけでなく演者、ならびにパフォーマンスにまで影響を与えてしまいかねないというのは自分にとって「余計な緊張感」なのだ。それなら家でDVDを観てろ何わけのわかんねえこと言ってんだ席代われぼけ、と言われてしまいそうだが、大声でアーティストと一緒に大合唱している人らを見ると、同じことを思う。歌うならカラオケに行けばいいのに。自分が張り上げている自分の声のせいで、せっかくのオリジネイターの声が聞こえないというのは本末転倒ではないのか。それにしても緊張と責任を背負って鑑賞した演奏は素晴らしかった。環境と心理が、音楽に及ぼす影響。
中東のconfliction
パレスチナでもろに戦争に突入してしまい、ウクライナに侵攻したロシアもまだ諦めていない段階で、アメリカ始め列強諸国は2正面への援助を行うことになる流れに。ロシア戦と違ってアメリカも、パレスチナなら堂々と(というわけでもないだろうが)軍事援助が出来てしまう事情もあるが、ここでもし中国が台湾侵攻を始めたら、世界は3正面の大戦争時代に突入してしまう。もちろん日本は「ほんに大変ですねえ…特需特需ウホッ」などと言っていられるわけもなく、巻き込まれてしまう。本格的に巻き込まれてしまう前に、出来るだけの援助を対イスラエル・対ウクライナにして、その地域だけの殺し合いにとどめてもらう努力をする必要がある。日本のテレビ論客の方々は「停戦すべきだ」などと平然と、ドメスティックな市場で平和主義的な言葉を並べてらっしゃるが、「べき」がそんな簡単に通用するのなら中東戦争は「5次」を数えたりはしない。喧嘩両成敗は、両者を成敗できる強力な第三者がいてこそ成立する。「パレスチナ側だけを責めてもしょうがない、イスラエルがやってきた歴史を知るべきだ」というこれまた「べき」論が日本では簡単に跋扈するが、何を知ってようがどうであろうが、やはりどちらかが「とりあえず諦める」までは殺し合いが進むしかないだろう。「結局はイギリスが悪いんだからイギリスがなんとかするべき」という真っ当な「べき」論も、特になんらかの意味を発行するわけでもない。
東京のinstrumental
楽曲たちがむくむくと出来上がり、それを並べていく過程で、曲名をつける必要が出てくる。羅列するだけなら「1、2、3、」と順に数字を振って行けばいいのだが、タイトルが楽曲のイメージに与える影響は大きい。楽曲内に歌唱部分があり、歌詞がある場合はその一部をタイトルにするという手法を取れる。だがインストルメンタルの場合にはそれが出来ない。クラシックなら何かを表現した結果、それを端的に表すタイトルがつけられる。メンデルスゾーンの「春の歌」は、春風や草花の芽吹き、季節に向かう清々しさや晴れ晴れしさのようなものが表現されているような気がする。だがこれにはまず「春とはどういうものか」という共通する認識が、作曲者と聴く者にあることが前提だ。タイトルから曲のイメージを連想し、その通りだと自分の持っていたものと合致した場合、その曲名は確固たるものになる。さて、自分で作った、特になんのイメージも持たない楽曲たちに、私が選んでつけ始めたのは「地名」だ。地名の数には限りがない(あるけど実際にはないと感じるくらいにある)。これらを曲名として使えば、いくらでも名付けてゆける。しかもその地名と、まったく想像だにしない音像を持つ曲たちは、まずはまったく合致しない。だがもしかすると新たに、その場所に新たなイメージを生み出す可能性を秘めているのかも?と考えたのだ。とても実験的で、空虚にも思える試みだが、何度も聴いていくと、その曲が流れれば曲のタイトルを思い出し、同時にその土地・街を想起する。脳内に、新たなチャンネルが開く気がする。