「右翼」とか「左翼」とかいう分け方をするのはまずやめて、考えてみてほしい。
ややこしい話はよくわからんのだ、という人は、今回は読まなくていい。
どうせ大した話じゃあない。
まず現在、世界に紛争や戦争が、有るか・無いかで考える。
これは「有る」。
この事実からは逃げられない。
これがいちばんの基本。
で、今、日本にいや近所に、泥棒は、いるか・いないか。
これは「いる」。
自動車の鍵を開けっぱなしにして駅前に放置してたらカーナビ盗まれるし、財布は交番に届けてくれる親切な人がいるから返ってくる可能性もあるけれど、自宅のガラスを割って入って来る空き巣も、完全にいる。自転車や傘ならどんどん盗まれる。
これは「いる」。
まだ被害には幸い、遭っていない人の方が多いけれどこの事実と、この町内からは逃げられない。これも基本。
で、これらの現実を踏まえると今、町内会では「泥棒は絶対にやっつけないし、やっつける装置も持たない」という会則を掲げて「町内は平和であるッ!」と言ってのけている。
いやいや、実際は泥棒いるし、被害もあるし。
隣の町内では、そこそこ甚大な被害も実際出てたりするし。
で実際、悪い奴というのは「いる」から、現実的には我が町内でもそれをやっつける棒とかサスマタとか監視したりするカメラとか、けっこう充実させている。
町内会費で買ってるのだ。
会則には書いてないが、持ってるのだ。
なにせこの町内会、ちょっと前までえらい羽振りも良かったし。
気合いと器用さでは県下一と言ってもいいぐらいだし。
そういうわけで現時点で、会則にある「装置を持たない」は、嘘になってしまってる。
会則とは別に「装置をそろえるにあたっての規約」というのを別に作って、対応している。
たとえば状況説明する中で、ぜんぜん違う土地(県外とか外国とか)の人らに「この町内にこの装置があるってことは…会則と現実と、違いますよね?」と質問されたら「オオモトノ会則ニ違反シロッテイッテンノカコノバカヤロドモガァ!」と怒る人が、出てくる。
当たり前だ。
会則には「持つな」と書いてあるのに実際は「持ってる」んだから。
これ、どっちが正しいんだろう。
会則と、現実と。
さてここで、基本に戻ろう。
泥棒はいる?
そう、泥棒は「いる」んだ。
だから、現実の方が正しい。
装置は、ある方が正しい。
ある方が安心。
防止にもなる。
「あの町は監視カメラがまったくない」のと「たくさん設置されてる」では、泥棒はどっちが仕事しやすいんだ?
考えなくてもわかる。
もちろん「泥棒がいない世の中」が望ましい。
なにも「サスマタを使いたいから、泥棒よ、出でよ!」と
願っているわけじゃない。
いない方がいいに決まっている。
だから、現実は厳しいのだ。
できれば装置なんか何も持たない方が、その分のお金を盆踊りとか慰安旅行とかに回せるし、花壇だって作れるだろう。子供らにお菓子だって配れる。
そりゃそうなんだが、何度も言うが「泥棒は、いる」んだ。
で、ここで「そんなこと言ったって、泥棒なんかいないじゃん」
と言い出してしまう人とは、話がまったくできなくなる。
いや、いるじゃん?
どこによ?
どこにって隣町とかでは…。
隣町の話でしょ?
いやいや…汗
つまりこれ、「現実をまずどうやって理解してるか」にかかってるわけだ。
世界に、紛争はある。
戦争もしてる。
武器もある。
兵器もたくさんある。
「国vs国」でわざわざ戦争しなくても、ジャーナリストを捕まえて後手にくくって首を刎ねるという連中が、機関銃持って跋扈(ばっこ)してる。
だからこちらが手ぶらで「武器を離しなさい!」と言いに行っても、かんたんに殺されてしまう。
同じようなテンションで1万人が訪ねて行ったら、もしかしたら1万1人めにはわかってくれるかもしれないが、まず1万人が殺されてしまうのだ。
だから、強い武器を持って、または強い武器を持ってる味方がバックにいるんだぞというのを相手に分からせた上で「話し合いをしませんか?」という段取りを踏まないと、危ない。
「話し合えば分かるのに」というのはただの理想だ。
空想や妄想のようなもので、じゃあ、あなた方、最初の1人めになってもらえます?というお願いには、たぶんその人らは応じない。
なんで?と聞いたらたぶん「危ないから」と答える。
…わかってるんじゃねえか。
現実と、法律と、どっちを優先させるかというと「もちろん現実」で、現実に即した法律でないと、現実すら守れなくなる。これが当たり前の道理だ。
「泥棒がいない街をつくろう」にはいろいろな方法があって、「泥棒は悪いことだ」と子供のころから教育することも大事だし「過去に泥棒をした人の運命」を知らしめるのも効果はあるだろう。
でも今、泥棒が現実にいるという前提に立つと、「泥棒撃退の装置」は必須で、「泥棒に対してどうするか」ということを会則に明記するべきなのが、当たり前の考え方だ。
しかも、早くしないと。
A.ながらく日本国憲法には「戦争はしない。武器は持たない」と書かれている(第9条)。
B.日本を攻めてくる国は今のところなくて、戦争もしていない。
多くの人が、「だから」「日本は平和なのだ」と、A+Bをつなげて思い込んでしまっているフシがある。
現実には自衛隊(軍隊)があって、作戦機(戦闘機)もあれば護衛艦(イージス艦)もある。
憲法に「戦争はしない・武器は持たない」と書いてあって平和なのであれば、そんなものは要らないはずなのに、だ。
これは、「現実と憲法がズレている」から起こっていることだ。
おかしなことに「憲法にそう書いてあるから日本には戦争がなかった」と、こころの奥底から信じている人たちが大勢いる。
それはそれは大勢いる。
謎だが、これも現実だ。
現実に、大勢いる。
自衛隊や海上保安庁が国を守っている、という事実はきれいに無視されている。
無視しているから、自衛隊や海上保安庁を「人殺しの集団」と憎むことができる。
完全に自衛隊を撤廃したら、外国の兵隊がズンズン入ってくる。
彼らは当然、機関銃を持っている。
言うまでもなく交番のポリスマンは、拳銃しか持っていない。
そうして攻められて滅びかけている国が、現実にいくつもある。
それがこの地球の現実だから、自衛隊はいるのだ。
憲法のせいで国民を守れない、というのなら順番が逆だ。
「憲法9条のとおり、日本は戦争はしなかった!…国は侵略されて国民は虐殺されちゃったけどね!」ということに、なってしまう。
最初に書いたが、これは「右翼」とか「左翼」とか言った話ではない。
「現実と空想」の話だ。
「憲法に戦争はしないと書いてあるから平和」なのであれば、そこに「窃盗はない」とか「殺人事件は起こらないし起こさない」と書き加えて、ついでに「少子化も起こらない」と書き加えればどうだろう。
凶悪事件は減り、少子化は改善される…のだろうか。
なにバカなこと言ってんだって?
そう、そんなバカなことが、起こっているのだ。
なにも「平和は要らない」と言っているわけではない。
現実をどう捉えるか、という話だ。
噛み合わないとしたら、まず町内会でいう「泥棒が、いるかいないか」という原点(0ポイント)の理解(現実の認識)が、すでに違うのだ。
そこをまず揃えないと、建設的な話になっていかない。
格闘家の人たちは強いが、路上で喧嘩はしない。
強ければ強いほど、みだりに暴力は振るわない。
ある日、朝日新聞の天声人語に、
「多くの人がペットボトルで水を飲むようになった。昔はそんなのは持ってなかったが、水を持ち歩くようになって、よく飲むようになったのだ。武力も、持っていると使いたくなる」という主旨のことが書いてあった。
結論が決まっている(原点の理解が違う)と、こうまで過程をねじ曲げておかしな事が書けるのだなぁ、と感心してしまった。
武力がないせいで攻め込まれ、勝手な理屈で蹂躙されている国が、現実にあるというのに。
格闘家の人たちは強いが、路上で喧嘩はしない。
強ければ強いほど、みだりに暴力は振るわない。
強くなり、それを正しくコントロールするのが「強い」ということである。
天声人語を書いていた人は「(朝日新聞以外の)国民はどうしようもないバカだ」と、上からモノを言っているのだろう。
よく冗談で、
「戦争が起こって他国が攻めてきても、自衛隊の戦車は道交法によって信号を守らないといけない、あるいは公道を走るためにはウィンカーをつけないといけない」と言われたりするが、法律そのままだと、それは冗談ではないらしい。
冗談で済むうちはいいが、それはやっぱり法律の方がおかしいのだから、ちゃんと書き換えておかないと、いざ本当になった時に困るのは我々なのだ。
「有事」の議論をすること自体が「戦争を望んでいる」と罵られるような風潮がまだあるみたいだが、それは「防災グッズや備蓄食料を用意しておくことは災害が起こることを望んでいる」と言っているのと同じである。
戦争や暴力はいけないと言うのは美しい姿で、その自分に酔うのはかんたんで楽チンだ。
でも現実をちゃんと見ていたら「じゃあどうしなければならないか」は自ずとわかってくるし、どの人がどんなおかしな空想を述べているかも、自ずと聞き分けられるようになる。
そんなのはややこしい話だからワシャ知らん、という人は、別にそれでもいいと思う。