死について語るとなると、やっぱりそれなりにお年を召した大先輩たちの言葉、っていうことになるパターン、多いですよね。重みを持って拝聴することになる。
いくら健康に過ごしておられるとしても齢70とか75とかを迎えるとなると、ご当人にとっては「まぁそろそろ」っていう感じになってくるのが当然だろうし、長寿への敬意っていうのももちろんあるし、自分もいずれそうなります(長生きすればするほどに)しなりたい、っていうのもあるし。
いちがいに70歳と言ってもいろいろあって、もはやアクセルとブレーキとか高速道路の入り口とか進行方向がわからなくなる人もいれば、毎日畑で力仕事して昼コーラ飲んで夜ビール飲んでバラエティ見て爆笑してる人もいる。まったくもって人それぞれ。
「死について」となると、説得力は老人に勝てない。あと病人。
「死について考える資格」というのもおかしいけど、健康で若いと「何をエンプティな言葉遊びしてやがるんだよ」みたいな雰囲気が、彼我に溢れ出してしまうのが難点なんですよね。
そうは言ってもお年寄りになるといろいろと明敏でなくなる部分も出てくるでしょうし、それに応じて「まぁ、それはもう、それで良い」みたいな、達観というか諦観のようなものが言葉にしないままに張り付いてくるのでしょうし、その中でも「えらく満たされている人とそうでない人」、あるいは「金貯めた人とそうでない人」とでは、人生の進み方や色合いや、許す・許せないの基準もかなり違ってくるとは思うんですよね。
老人になったらなったで「死について考える資格」、「死という概念について語れる資格」みたいなものが、年齢とイコールではない感、もあるんでしょう。それこそ、年取らないとわからないけど。
死について、老境にさしかかったから「死に近い」ことは確か。
だけど、「湖に近いとこに住んでるから湖に詳しい」のとはわけが違うわけですよ、たぶん死に関しては。
何でもエラそうに説教したがるジジババだって、ただの1回だって死んだことないんだから。
本当は一番説得力あるのは、死人による「100分de死について」なんですけど、死人にクチナシまさに死んだことのある経験者がその経験について一切語ることができない唯一のこと、それが「死」なのですよね。坊さんなんかは、まったくあてになりませんし。
「死について」には実は二通りあって、「死そのものについて」と「自分の死について」が、いつも割と混じり合ってるんじゃないか、と思うことがあります。
「自分の死」というのはまさに今、これをだらだら書いている私のような人がいずれ、こういうのを書けなくなる状態になる(完全にいなくなる)ことを指していて、「ああ、いつかはそうなるのだろうけれど…」を含めて、あきらめに似た感情と憂い、みたいな想像とともにいつも考え出しては、途中でよくわからなくなってやめる、ということを繰り返していて、実感と妄想が入り混じります。確率は100%で訪れるけど、今じゃない。多分10秒後でもない。だけど絶対に来る。
「死、そのもの」とは、それこそ全世界で1秒ごとに止まることなく繰り広げられているあらゆる死のこと。概念も含みます。他人の死もそうだし病死も事故死も老衰死も、動物だって植物だって死ぬし、生き物以外も含めれば「終わり」を迎えるものは無数にありますよね。
厳密に言えば、「自分の死」と「あらゆる死」の間には、「自分以外の死」がはさまっているような気がします。
「あの人は死んでいなくなった、あんな感じで自分もいなくなるのだろうな…」みたいな想像を補助として使わないと、なかなか考えにくい。
同じコミュニティに住んでて同じ家系で同じ宗教なら「ああ、明日とか5年後とかに自分が死んだら、あんな感じで葬式になるのか…」っていう想像を、ずっとしてきてるわけです。テレビを見てもいろんな物語を読んでも、溢れかえるのは「他人の死」ですよね。
でも、「他人の死」を100億人分集めたって、「自分の死」にはならない。
どうにも「死んだあと」のことを考える際には、「他人の死」をその雛形として使って、何かを勝手に決めているだけ、なんですよね。
幽霊とか、怨霊とか、天国地獄とか、いろんな「死後の動き」についてのイマジネーションについては有史以前から、人間の専売特許とばかりにバリエーションがあります。
これも全部、「生きている側から見た、死んだ人」を想像しています。
例えば「もし死んだら、ゆかりある人のところへ浮遊していって、様子を上から眺める」とか。「枕元に立ってやる」とか「呪い殺してやる」とか「鬼に背中の皮を剥がれる」とか、その「死んだ人目線」で見る景色は、今生きている自分が「見てたい景色」なんですよね。
死んでも生きている時と同じ視点と意識が持続するという強い仮定で「死んだ後の動き」を想像している。意識が持続してる、ってことは、恥ずかしさや気高さに関しても、キープしたままだってことです。死人の世界のようで、そのカメラは、生きてる人が持っている、ってことですね。
「気になる死後のこと」に関することがらはすべて、「死後も生前の意識をキープ」が前提になっています。
こんなの、「他人の死」を見て目線を逆算して想像してるだけで、ただの一例だってはっきりと「死後には意識がキープするのです!」なんていう確証はないはずなんです。証言もないわけだし。
ほんと、不思議だなぁと思います。
こう考えてみてはどうでしょう。
もし「死んだら意識は続かない」とすると、死んだ後のことは何も考えられない。
考えるか考えないかじゃなくて、考えるという行為そのものから完全に解き放たれる。そうなると、生きてるうちのこととはパーフェクトに切り離されるので、ああ、あんなとこにあれを隠しておいて見つかったら恥ずかしい!とか、あんな顔してあの人、こんな趣味があっただなんて!ということが家族や周囲の人にバレて面目を失う!とかいうことを、いっさい感じないということになる。惜しくも殉職なさって二階級特進したとしても、誇らしさとか、そういうこともいっさいない。
すべて、生き残った側の人らの想像でやってるだけ、だと。
こういうこと書くと、「なんてお前は心の冷たい、人情味のないやつなんだ」と思われてしまいそうですが、「死んだ後こうなりたい」という身勝手で強欲な想像が、生きている今にすら悪い影響を及ぼしてるんじゃないか…と思ってしまうことがあったりします。
死んだら苦しいもしんどいも楽も悲しいもない、やっと解き放たれて完璧に自由になって次にいく、と考えることって、そんなに悪いことではないんじゃないか、と思うのです。
「自殺は罪」なんていうのは、キリスト教が勝手に決めたことですしね。
若くして「死について」真剣に考えすぎる人は、だいたいほんとに若くして死んでしまうので、その辺りの知見が説得力とともに溜まっていかないんじゃないでしょうか。
冒頭と矛盾した感じになってしまいますけど、んな老い先短い人らの「死について」なんて、「あんたらは思い残すことの少ない勝者だからそんなことが言えるのさ」と、やっぱり言えなくもないですからね。
いつも感じるんですけど、こういうことを話題にする時、「死について」のよくあるイメージから自由になりたい、と思ってるんだな、って自分のこと、思うんです。
「死について」、今回の雑談は以上です。