鎌倉殿の13人

鎌倉殿の13人 第6回『悪い知らせ』

投稿日:2022年2月16日 更新日:

 

絶賛敗走中。

源頼朝(みなもとのよりとも・大泉洋)軍は敗れ、隠れるしかない絶体絶命の危機に。
梶原景時(かじわらのかげとき・中村獅童)はなぜか発見したのに、見逃しました。

これがのちに、彼が重用される理由だとされます(「覚えておこう。」とはっきり源頼朝が言ってた)。

鎌倉幕府内での重鎮ぶりを考えると梶原景時、これくらいの命の恩人じゃないと釣り合わない(から逸話が創作されたと考えられる)んですね。
これくらいの強運がないと、源頼朝の奇跡が成立しないとさえ言える。

この「見逃し」が本当だとしたら、梶原景時ってすごくないですか。
源氏が勝って鎌倉幕府が成立することを知っている我々は、「見逃して正解」だったとわかったような気がするけど、平家側(大庭勢)として参加してるんだから「ここにいるぞーっ!」の方が楽だし、成果も大きい。

なのに、「ここにはいない」と見逃した。
これはもしかすると「源氏の再興に賭ける方がリターンが大きいかも」と思ってた人らがけっこういた、という傍証になるのかも知れませんよね。

実は流れで味方するしかないから平家側・大庭軍として参戦してるけど、これがひっくり返るなら恩を売っておいても損はないという感じだったのかも。自分が今、見逃したって大勢は、今すぐどうこうなるものでもないわけだし。

山梨にいた甲斐源氏、武田信義(たけだののぶよし・八嶋智人)がやたら源頼朝にライバル心を剥き出しにしてましたね。武田信玄の祖となる流れ。

武田と呼んでますけどこの人の本名は「源信義」です。

武田にいたから武田信義、木曽にいたから木曽義仲と呼ばれてるだけで、もしこのどちらかが幕府を開き、もし源頼朝がどこかで死んでたら「伊豆頼朝」とか「鎌倉頼朝」とか呼ばれてたはずです。

武田信義は新羅三郎義光の曾孫。
源頼朝は八幡太郎義家の曾孫。

この「しんら」とか「はちまん」とかは、元服した神社のことです。
なので新羅三郎義光は「新羅明神の三男」、八幡太郎義家は「石清水八幡宮の長男」ということなんですね(次男の義綱は加茂神社だったので「加茂次郎」と呼ばれる)。

かなり前に分かれた家とは言え、それぞれに一流を立てて生きてきた同族。
しかも源頼朝は嫡流とは言え、「もうほぼ滅んでるじゃねえか」と言える状態なので、俺を頼るからには見返り以上のものがいるだろ?と言いたくなるのも当然だったのかも知れません。

のちに源頼朝は東北攻めの時、源頼義の戦績を辿り、その勲をなぞるような行動を取りますよね。
「私が遡るのは武田と分かれた4代前の源義家時代ではなく、その前の源頼義時代であり、自分の正統性はすでにここからあるのだ」とアピールするかのように。

だけど今は、あなたへの愛こそが、私の、プライド。

と言わんばかりに頼るしかない同族。それが甲斐の武田です。

武田信義は1128年生まれなのでこの時、50歳を超えています。
源頼朝は34歳。貫目が違う。

「どちらが源氏の長者か」と言われたら立場上かなり微妙だと言わざるを得ませんよね。

 

三浦軍と畠山軍の衝突も描かれてました

豪の中の豪・勇の中の勇、畠山重忠(はたけやまのしげただ17歳・中川大志)は平家側についていました。この人も平氏でありながら、のちに源氏側について「13人」に数えられることになる。知り合いが多すぎてフェードアウトになったという小坪合戦。

それにしてもドラマって大変ですね。
「男の物語」も書かなきゃいけないし「女の物語」も描かなきゃならん。「家族の物語」も必要だし「恋慕の物語」も要る。もしかすると「男と男の恋慕」「女と女の恋慕」もあった方が良いかも知れない。

嫉妬と情念がぶつかり合う北条政子(ほうじょうまさこ・小池栄子)と八重(やえ・新垣結衣)の存在感あるやりとり、あれも必要なことでしょう。それにしても八重の比重というか、扱いが大きい。やはり前回書きましたように、時代考証をされている坂井孝一先生の仮説がぞんぶんに活かされる気配がしますね。子を失ったことを知り墓石泣きすがるその姿は、のちに北条ヨシトキ(小栗旬)との子に出来る北条泰時(やすとき)への想いにつながってくる(だろうという予想・坂井仮説の炸裂)。

「もう見捨てようぜ」と言いながらもその場の機転と運で急場を凌いで平然としているタヌキ親父・北条時政(ほうじょうときまさ・坂東彌十郎)。けっきょくこの人ってどういう人なのか、よくわからないんですよね。人物像として根本がのらりくらりしているというか、一家の長として豪胆でもありながら、臨機応変で何考えてるかわからない。行動原理が普通の坂東武者とも、源氏平氏のような軍事貴族とも違う。

なので伊豆山権現での、女性だけの「父は変わりました」というような、人物描写がことさらに必要だったんですね。

 

次期当主になるはずだった三郎宗時(ほうじょうさぶろうむねとき・片岡愛之助)の訃報が届き(「悪い知らせ」)、ついに北条ヨシトキが歴史の真ん中へ引きずり出されることになりました。ここまではなんとなくリアクションだけで、周りに合わせてなんとか行動していた北条ヨシトキが、源氏の棟梁を支えて主体的に坂東を守る男になろうとしています。

「佐殿(すけどの)がおられなくても我らは戦を続けます」とまで言い切ります。

安房に至り、北条・三浦・和田などの武士団(の生き残り)が集結。

和田義盛(わだよしもり・横田栄司)が豪放磊落な武将として、「今の段階でそんなこと頼むかね」っぽいことを言い出して笑いを誘っていました。のちにこれは現実となり、この場にいた者たちとの軋轢の殺戮の遠因ともなっていきます(北条ヨシトキも笑ってやがる)。

謎のブチギレ。和田合戦

 

大庭は源頼朝に最初からムカついていた

そう言えば「勝って当然」で余裕しゃくしゃくな大庭景親(おおばのかげちか・國村肇)は、どうして源頼朝を目の敵にし、さらにあんなに見下しているのでしょう。

実は石橋山の合戦からさかのぼること36年前、源頼朝の父・源義朝が相模にいたとき、目代だった山県頼清(やまがたよりきよ)とともに、大庭御厨(おおばみくりや)の一部は鎌倉郡内である、という名目で、たびたび乱入していたそうです。

境川はまさに境界だったのですが蛇行が激しく、ちょくちょく水域が変化してしまってたのですね。
それをも口実に「ここはこちらの土地である」という理屈をふりかざしての乱暴狼藉だったようです。

大庭御厨は伊勢神宮の荘園で、「厨」は「厨房」の厨です。
つまり「伊勢の神様の台所」みたいな意味です。

そこを管理していたのが大庭景宗(おおばかげむね)。

なんとこの人、石橋山で源頼朝を破った大庭景親の父だというのです。
父・大庭景宗が再三伊勢神宮に乱暴狼藉を訴えたのにやめなかった、源義朝。

親の代に、すでにそこまでの因縁があったんですね。
ば石橋山の合戦(1180年)はその昔(1144年)に源義朝の味方だった人らが、子の源頼朝軍として加勢していて、大庭側だった人らはそのまま大庭軍になってる。

坂東の武者と言っても血縁があったりなかったり、利害関係をそれぞれ持っていて、「源氏に味方してとりあえず父祖の無念をハラス」みたいな人もいたでしょうし、「平家の勢いで先祖の恨みをハラシテオク」みたいな人もいたでしょう。

思惑はそれぞれ。

単に「源氏か・平氏か」で割り切れるようなものではないようです。

源平合戦の決着の後も、実は水面下に、それは引き継がれてる。

そしてけっきょく数十年のうちに、すべて噴き出すことになる。

 

今回の「鎌倉殿の13人紀行」はここでした。

しとどの窟(いわや)

源頼朝船出の浜

 

 

 

 







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