もっとも古い「第一作」のゴジラを見た。
白黒だ。
1954年と言うと、終戦(1945年)から、まだ9年しか経っていない。
戦後の復興に太平洋上、ビキニ環礁でのアメリカによる核実験(1946年〜1958年。水爆実験は1954年)が重なってきて、当時の国際情勢と戦争の名残とが、ないまぜになった時代。
自衛隊ができたのが、この1954年だ。
あの印象的な「ゴジラのテーマ」が、実はゴジラ登場時ではなく、陸上自衛隊の戦車の出動時のBGMになっているのは、本来は何らかを象徴していたのかもしれない。
ゴジラが暴れまわる街で、「もうすぐ、おとうちゃまのところへ行くのよ…!」と幼児を抱えて悲嘆するご婦人が出てくるが、「おとうちゃま」とはもう、まさに「太平洋戦争で戦死した夫」を指している。
その意味では「娯楽大作」とはいえ、身近だった空襲や原爆や敗戦を意識しないでこの映画を観れた人は当時、一人もいなかったわけだ。
日本の街を壊している、正体不明の怪獣ゴジラには、「アメリカめ…」という思いが、込められているとしか思えない。
ゴジラを食い止める作戦は失敗。
海岸線に高さ30m・幅50mの有刺鉄線を敷き、そこに5万ボルトの電流を流す作戦で、ゴジラを完全に屠(ほふ)ろうとする。
2016年公開の「シン・ゴジラ」では、しょーもない庶民のしょーもない恋愛とか「家族を守るために」みたいな家庭ドラマが一切なく、人が死んでいく悲しみを感じさせる暇もない、という感じだったがこの初作では、「お父さんに許しを乞おう…!」「うん💓」みたいな、淡く清い恋愛がサイドストーリーとして進んでゆく。
実は「シン・ゴジラ」にも、「お父さんの許し」などを彷彿とさせる設定はある。
「カヨコ」と矢口の関係は、おぼろげながらほのかな恋愛感情の変化を表現しているし、それはもしかして第一作へのオマージュにもなっている、んだろう。
違うのかな。
宝田明がめちゃくちゃにカッコイイ。
それにしても、「Hiゴジラ、YOUは何しにニッポンへ!?」というか。
何で日本に来るの?という謎は、「水爆」というキーワードで、観る者にじゅうぶんな説得力を与えていた。
自衛隊による攻撃、ゴジラが爆撃されるシーンの迫力はすごい。
当時、これを劇場で見た観客は、度肝を抜かれたことだろう。
背びれが光って光線を吐くゴジラ、逃げ惑う品川区民。
CGの未発達さは、「夜に襲来する怖さ」を逆に引き立たせてくれる。
映画公開以来、いろんな人たちの研究や考察によって、ゴジラに込められた暗喩はすでに解かれており、時代とともに人口に膾炙しているわけだが、よく考えたら「それを怪獣、っていう形でやろう」って思いついた人って、すごい発想だ。
これを、あんな時代に見たら今よりも衝撃はとうぜん大きいし、当時の人たちが、脳内に「ゴジラ」という単語を刻みつけたっていうインパクトは、現代では真似のしようがない。
しかし昔の映画、というか演技って、「文章をそのまま」っていう感じがある。
「キミ!待ちたまえキミ!」とか。
「大いに議論しようじゃないか」とか。
「シン・ゴジラ」には舌がありません。
何も食わないから、のようだ。
そこを「既存の生物の埒外の論理で生きている」という理屈ですり抜けてるけど…。
歴代ゴジラ全員、本当は、あの巨大さだと自重を支えることは理論上できないんだそうだが、その辺はまだ、クリアにされていない時代。
やすやすと、浮力がなくなっても歩いてくる。
いつの間にか銀座まで来ているゴジラ。
時計台を壊し、数寄屋橋方面へ。
国会議事堂を草むらのごとく抜け、渋谷のNHKヘ。
電波塔で必死で健気に中継しているNHKスタッフ!は、その電波塔そのものをかじられあえなく死亡。
上野から浅草へ進んだゴジラは、隅田川を下って再び東京湾へ向かう。
はとバス観光のようなコースで東京遊山を終えられます。
「ちきしょう」
このセリフは「シン・ゴジラ」でも唯一、被害者側の悔しさの表現として扱われていた。
圧倒的な存在であるゴジラには、人間が対抗する術はなく、悔しさをにじませるしかない。
空襲を受けても、進駐軍に蹂躙されても、「ちきしょう」くらいしかにじませることができなかった日本人。
ああ、1945年までに、オキシジェンデストロイヤーが開発されてたらなあ、なんて思ってしまう。
さて、空自のミサイル攻撃が始まる。
とにかくガンガン外すその様子が、ゴジラよりその流れ弾被害の方がデカくないか??と思わせてくれる。
そしてノーダメージで、東京湾に、ポチョンと沈んで、いなくなるゴジラ。
野戦病院と化した施設では、放射線が検出されている事実は今ひとつ重要視されていない様子だが、市民が傷ついたり命を失ったりする悲惨な状況。
こういうの、「戦時中のあの状況よりは全然マシ」っていう記憶があったんだろうし、リアリティとしてはどうだったんだろう。
そう思うと「シン・ゴジラ」には、人間ドラマというか、個人の感情で全世界の状況が変わる、みたいな虚ろで危うい設定は、存在しない。
それが潔いなと改めて感じた。
マッドサイエンティストな芹沢博士、いや、そんなアイパッチ(丹下段平みたいなやつ)つけてるってどういう独眼竜?
で、公的機関がほとんど機能しない(描写がない)まま、民間人たる博士や青年だけであの謎の巨大怪獣ゴジラを、海中で骨にしてしまう。
すごい。
その後の海洋資源への影響には言及されないまま。
「あの個体だけではないはず」という博士の独白で物語は終わる…続編への伏線か。
今年じゅうに、みたいな感覚で、ゴジラ全作品、観ていくことにしますか…。
え、あの女性議員、菅井きんなの!!??
あっ、Amazon見てると、「ネタバレェ!!」と言われかねない「シン・ゴジラ」関連商品がガンガン売られてた。