鎌倉殿の13人

「弁慶と義経」はオーソドックス・オーセンティック・ヒーローズ

弁慶

 

『こぶ弁慶』という落語が、あります。

現在の滋賀県・大津の旅館で、伊勢参詣の帰りに調子に乗って、旅館の壁土を食べまくった男(土を食べるのが好き、という設定がまずけっこうすごいと思うんだけど「それぞれの趣味趣向」ってことで軽くスルーされてる)が、その壁土に塗り込められていた肖像画の念の異様な強さで、絵のモデルだったあの「武蔵坊弁慶」の、リアル等身大の瘤(コブ)が肩にできてしまう…という奇想天外すぎるファンタジー噺。

もはや人面瘡、のレベルを超えた、人格を持つドラスティックな異物。

なんでこんな不思議なこと思いつくんだ…この落語は、天保年間(1831年〜1845年)ごろに活躍した落語家・笑福亭吾竹(しょうふくていごちく)の創作だということがわかっているそうで、元号としては

天保
弘化
嘉永
安政
万延
文久
元治
慶応

明治

ですから、もうじき江戸時代が終わることを考えると、この頃にはすでに歌舞伎(『勧進帳』)の影響が強すぎて人物像が伝説化し、「弁慶・義経」はもう、どう扱ってもいいファンタジック・キャラクターと思われてたんですね。

江戸時代には、なんでこんなことになってるか(なんで義経・弁慶に追っ手がかかって逃げてるか)、は国民常識として、教養とも言わないくらい(ウルトラマンは大きい、とかドラえもんは未来から来たっていうくらい)に、子供から大人まで、誰でもなんとなく知ってることだったのでしょう。

弁慶じたいは、実は実在してた人かは良くわかってないんです。

あまりにもヒーロー像というか、豪傑譚が立派すぎる。
その割に、よくわかってない。

 

下に紹介する出自(自己紹介)も、ほんとかどうかはわからないんです。

『こぶ弁慶』のクライマックス、巨大人面瘡である「弁慶はん」が江戸時代の大名行列に向かって、自己紹介をするシーン(設定場所は京都)。

わが名が聞きたくば名乗って聞かせん、
耳をそろえて、よく承れ。

われを誰とかなす…
天津児屋根尊(あまつこやねのみこと)、
中(なかの)関白道隆公の後胤にして、
母は二位大納言の娘。

熊野参籠の折から別当・弁昌(べっとうべんしょう)と心通わし、
ついに夫婦の契りを結び、
十八か月経って男子(なんし)出生、
幼名を「鬼若丸」と名付く。

播州・書写の山にて成人なし、
誕生せし別当の屋敷に戸籍を残す。
それより京都比叡山に上り、
観慶阿闍梨(かんけいあじゃり)の弟子となる。

そのころ武蔵と言える荒法師あり、
われ、その法師の跡を継ぎ、
父・弁昌の「弁」の字と、
観慶阿闍梨の「慶」の字と、
これを合わせて武蔵坊弁慶と名付く。

宿願の仔細あって五条の天神に丑の刻参りの折から、
五条の橋にて牛若丸に出会い、
名乗れば源家(げんけ)の御曹司、
これより弁慶、二十余年の栄華の夢…
あとなく晴れて京都を払い、
屋島・壇ノ浦の戦いに。

頼朝・義経不和となり
奥秀衡(おくひでひら)を頼んで下向なる。
我はついに衣川(ころもがわ)にて、立ち往生。

義経大明神(ぎけいだいみょうじん)と祝い込まるるまで、
君の御供(おんとも)なしたるこの弁慶、なんじらごときの下に○▼※△☆▲※◎★●…!!!!!

一番最後は迫力ありすぎて聞き取れません。
おそらく「この弁慶ほどの者が、貴様らみたいなハナタレ者らに従うと思うのかこのアホたれがぁぁあああッッ」みたいな意味合いのことを言ってるのだと思います。

「天津児屋根尊」は、藤原氏の氏神です。
そして「中(なかの)関白」というのは藤原北家の系統で、平安時代中期に、藤原道隆(ふじわらのみちたか)を祖として栄えた一族の通称です。

実はやんごとなき血筋だったのだぞ…ということを言いたいわけです。
伝説的ヒーローの後ろ盾としては必要な設定、だったのでしょうか。
貴種漂流譚、というやつで。

実際には父親も母親も諸説あり、熊野別当・湛増(たんぞう)の子であったとか、もはや言いたい放題になってる感もあります。

しかしもう、上の自己紹介の時には「立ち往生」まで自分で言ってますから、彼は「全てが終わったあとの弁慶」なんですね。
「全てが終わったあとの弁慶」が、伝説的英雄として大津絵として描かれたのだから、当の、モチーフである「弁慶はん」も、もう全部知ってる。

「義経大明神」なんていう、主君の行末のことまで知ってるんですから、「立ち往生」のあと、源義経がどうなったかも知ってるんですね…なのにわりと落ち着いてたな(瘤としての復活時)…。

義経はなぜ追われたのか

「頼朝・義経不和となり」と、源義経が追われた理由がさらりと語られてますが、その前段、壇ノ浦の戦いにおいて源義経が、神がかった戦いで平家を滅亡に追いやったのは確かなことです。その前の一ノ谷・八島の合戦においても、西へ攻める源氏軍大将・源範頼(源義経の異母兄)が正規軍だとしたら、源義経は奇計で勝つ、意表をついて勝つ遊軍として機能した。

源義経はその身軽で柔軟な戦術を用いて、まさかというところをどんどん突いていき、ほんとに平家をやっつけてしまいました。

戦功の第一は源義経…ということになったのは当然ですよね。
逆に言うと大将・源範頼は、大して何もしていない(北条ヨシトキもこちら側に従軍してました)。

となると源義経は、後に完成する鎌倉幕府では兄・源範頼を追い抜いて「副将軍」クラスになってもおかしくないし、「生ける軍神」として関東御家人たちの抑えになることも可能だったし、そのうえ東北の奥州藤原氏との太いパイプ役になることだって、できたはずなのです。

しかし、源義経は、そのすべてにならなかった。

「頼朝・義経不和とな」ったからです。

なんで不和になるわけ??
(鎌倉にいるけど)総大将・源頼朝の命令で、やるべきことをやって、命令以上とも言えるような、大戦果を挙げたのに。

原因は2つ。

1、三種の神器をちゃんと取り戻せなかった

2、勝手に官位をもらった

まず、平氏は安徳天皇(満6歳)と、その皇位の正統性を担保する三種の神器を持って、海上へ逃げていました。

もう、この時点でけっこう危ういんです。
ヤバイ。
ちゃんと和平交渉をして、安徳天皇に安全に陸へ上がってもらって、実権を移す…そして京へお帰りいただく…という段取りを踏めれば、源氏が差配する世の中になったとしても、守るべきものはちゃんと守る武士たち、というイメージがしっかり保てる。

逆に言えば、没落する平氏なんかは、まずはじっくり行ったったらええねん、っていうことですね。

もう、九州あたりまで追い落としたのであれば中国・四国も源氏が取れるわけで、じわじわ固めつつ行こうぜ、という選択肢も取れた。
西国は平氏の所領だったので、攻める側の源氏も、なかなか食糧の補給とか、うまくいかないんです。
早期決戦という選択肢はもちろんあるけど、帝を取られてて、しかも皇統のシンボル3点セットも握られてる。

ちょっといろんな方向性、試してみてもいいんじゃないの…という空気は、あったはずなんです。

だけど源義経は、なまじ天才なものだから、おおおりゃあああと、殲滅作戦に成功してしまったんですね。
交渉の余地もない。
最初からそんな風には、たぶん考えてない。

政治家、そして貴族でもあった兄・源頼朝と違って、源義経は単なる戦闘マシンだった。

結果、安徳天皇は瀬戸内海に沈んで死亡。
三種の神器も一緒に沈みました。

他の二種はすくいあげられたそうですが、草薙剣は深く海中に沈み、ついに見つからなかった。
流れの激しい壇ノ浦の潮の流れに飲み込まれたのです。

鎌倉でその報告を受けた源頼朝が、静かにブチギレたのではないでしょうか。

 

「…。…。…だから言うたやんけ!!!!!」

と、関西弁ではないでしょうけれど、ハラワタ煮えくり返ったのだと思います。

「勝つだけ」じゃないんだと。
「ちゃんと勝つ」じゃないと、意味がないんだと。
ただやっつける、殺す、滅ぼす、追い詰める、なんて、いつでも、誰でもできるんだと。
それでいいんならワシが行ってる、と。
誰が、時の天皇と三種の神器を失ってまで、平氏を殲滅しろなんて言ったんだアホめ…と。

特に、草薙の剣は「武の象徴」でもあると同時に、尾張・熱田神宮の御神体でもあります。

そして、熱田神宮の神官でもあった藤原季範(ふじわらのすえのり)の娘・由良御前(ゆらごぜん、と呼ばれる)は、源頼朝の母親なのです(源義経・源範頼は別の母)。

この熱田神宮の人脈は、平清盛に、源頼朝が命を救われた時にも関係していると言われています。

あの採決の時、平清盛の継母・池禅尼(いけのぜんに)が、源頼朝たちの助命嘆願をしてくれて、それで処刑を免れた経緯があります。

池禅尼は、平治の乱を切り抜けて、源氏に勝ったきっかけを作った人と言ってもいいのである程度、平清盛もアタマが上がらないところがあったのでしょう。

それに加えて、池禅尼は熱田神宮の藤原季範の伯母でもあるので、平治の乱終結後の、源頼朝らの助命嘆願は熱田神宮サイドからのなんらかの働きかけがあったのではないか…と、昨今の研究では言われているそうです。

とにかく剣なんだよアホウ、そして…。

とにかく「そういう剣」なんです、草薙剣は。

いやぁ、剣と帝は失っちゃいましたがとにかく殺し合いには勝ちました!!
いい戦いでした!!

でいい気になっている源義経に、鎌倉で兄がブチギレているのはなんとなく想像できます。

 

そして「神器と帝」の意味、さらに政治的なバランスの重要を全く理解していない源義経は、「勝った!!!」と、悪を倒したヒーローとなって京に戻ってきます。

そもそも武力を持たない京都の朝廷は、もう長いこと、「武士を上手く使いこなす」ことに重きを置いています。
強い武家が出てきたらライバルを出世させ、戦い合わせて漁夫の利を得る戦略。

驕り高ぶってどうしようもなくなっていた平氏は、源氏に追討させることができた。
そうなると、鎌倉の源氏(源頼朝)が、ちょっとうるさく感じてきた。

また、「バランス取らないと」という、伏魔殿のバランスシステムが作動したのです。

単なる戦術家として、単なる将軍として人気を誇る源義経に、朝廷は「よくやった」と、官位を授けてしまいます。

これを、源義経は、受けちゃいけなかったんです。

これを受けちゃうと、兄・源頼朝がやろうとしている、「武家による管理」ができなくなってしまうからです。

武士が官位を受けるときは、必ず鎌倉(源頼朝)を通す。
これは、弟・源義経が考えているよりも数百倍、数千倍大事なことだったんですね。

もちろん、当時(平安時代)の常識として、武士は、朝廷から官位をいただくほどの出世はないんです。
それ以外の出世の道はこの宇宙にないし、唯一の「へりくだって当然の存在」が朝廷ですからね。

なので、そこに「鎌倉」を挟むという、のちの幕府創始者・源頼朝が描いたビジョンは、まさに「前代未聞」のものだったのです。

源義経はそれを理解しなさすぎ、でした。
奇想天外な戦術を用いて、天狗の具現化とまで言われた天才だったのに、政治的な未来ビジョンには、思いが至らなかった。

それでも、

後白河法皇はこうおっしゃってるんですけれども、どうしたものでしょうか

と、兄に聞けば良かったのですよね。
その上で「その除目はキッパリ断れ」という命令に、従えば良かったのです。

すでに三種の神器で兄は鎌倉でブチギレてるわけですけれど、源義経の任官は、そこに油を注ぐ結果になってしまいました。

でも、調子に乗ってしまうのも当然だったのかもしれません。
言ってみれば、当時の絶対王者たる平氏を、軍事的天才的作戦で打ち破って、民衆も熱狂。
為政者(朝廷)も褒めてくれるし、女にゃモテるし金も入ってくる。

処刑を免れて逃げていた子供時代から考えると「よっしゃ!やったった!」ですから、ちょっとくらい調子に乗るのは仕方がない。

そこをなんとか宥める人はいなかったのか…御家人・梶原景時の讒言が「頼朝・義経不和となり」の原因だとも言われていますが、いや、じゃあ弁慶は何してたんだよ、と言いたくなります。苦労人であるはずの九郎・義経を、ここで調子に乗らせてはいけなかった。

そして、朝廷が「とにかく武士のパワーバランスを取ろうとしてる」という意図を、ちゃんと見抜かないといけなかったんですよね。

戦功を認めてもらえない(そのうえ調子に乗っている)源義経は、「兄・源頼朝追討」の命令書を求め、本当にもらってしまいます。

これも、朝廷からすれば「今、勢いのある源義経軍だから、鎌倉の源頼朝を牽制する意味でも…」というところがあったのかもしれません。

これを知った源頼朝は再・激怒。
弟である源義経を殺す決断をします。

後白河法皇は源頼朝に「ほんまにそれでええんですね!?」と詰められ、源義経の官位・官職をすべて剥奪。

ついに「源義経追討」の決定が下されます。

この時、同時に「守護・地頭の設置」を認められます。

源頼朝は弟の探索・逮捕という目的と並行して、「こちらで管理する役所と番人を置きますんでよろしく」を認めさせた。

この年、文治元(1185)年は、今では「イイハコ作ろう鎌倉幕府」として、年号を覚える語呂合わせになってるんですね。もうイイクニ(1192年)ではない。

幕府、という言葉もそうですけれど、統治機構としての概念、が今と違いますし、「今日からです!」とくす玉割れたり登記簿があるわけではないので、「この年です」と決めることにあまり意味はないような気もするんですが、やっぱり「武家による」っていうところ、そして「その形態が江戸時代にまで受け継がれるところ」を考えると、やっぱり「征夷大将軍になった年(1192年)」が妥当なんじゃないかな…とも思いますけどねえ…。

で結局、京から西国を経て奥州まで逃げた源義経・弁慶は死亡。

上の、弁慶の向上に出てきた「奥秀衡(おくひでひら)」というのは、「奥州藤原氏・藤原秀衡」のことですね。源義経をかくまうけれど、けっきょく、鎌倉武士団によって丸ごと、滅ぼされることになります。

弁慶の「原型」があった

忠義と機転の『勧進帳』と並んで、軍記物に記された「弁慶の立ち往生」は有名ですけれど、これは、実は『三国志演義』に似たような話が乗っています。

魏の曹操に仕えた「悪来典韋(あくらいてんい)」がそのモデルなのではないでしょうか。

典韋は、巨漢で無双の武人。
双戟(そうげき)で敵を撃破し、忠義に厚い信頼できる家臣でした。

「悪来」は通称で、「まるで伝説の、殷の紂王の家臣・嬴来(えいらい)」みたいだのう」ということで、その嬴来のあだ名だった「悪来」が、典韋にドッキングしたそうです。

それくらい、巨漢で怪力無双で、忠義の人だった。
曹操も、彼を重用し、そして死を悼んだ。

なんだか、弁慶とキャラがかぶるわけです。

悪来典韋は、主君・曹操を逃すため、門を守り、立ったまま激戦の最中、絶命します。
まさに悪来典韋の立ち往生。

『三国志(横山光輝)第12巻 南陽の攻防戦』にも掲載されております。

こういう、昔、すでに古典であった外来英雄エピソードを、さらっと拝借してる…っていうパターンて、軍記物には他にもたくさんありそうですよね。
どうせ伝説の忠臣なので、エーイ怪力は30倍、死に方は古代中国パターンでいこうか…てな感じ。

鎌倉幕府創設の前段階として、欠かすことのできない二人。

皮肉にも、彼らの追討が、鎌倉幕府創設を前進させるきっかけになってしまいました。

御曹司・源義経。

荒法師・武蔵坊弁慶。

どうしていつまでも、日本人はこの二人が好きなんでしょう。

生きて輝いた背景と、夢を委託できる才能と、短く散った儚さと。

 

「弁慶と義経、2人はセット」パターンは、他にも落語「舟弁慶」「青菜」にも現れています。

 







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