鎌倉殿の13人

けっきょく幕府はどこにある〜移転する御所〜

頼朝が幾何で造った都市・鎌倉

 

幕府というのは、もとは「幕を張った役所」みたいな意味なんですよね。

征夷大将軍はそもそも「征夷」のために遠方へ出発するわけですから、その出征先で、軍のための仮役所を作るっていうイメージ。

将軍は幕府しか作れない、ということでもあります。
「幕府です」と宣言するからには「だって私、将軍ですから」っていうことに。

いくら武力がすごくて、朝廷より強くなったとしても、「新朝廷」を作ったりはしない。
幕府はあくまで「天皇がいて、その任命によって、将軍となった人が作るもの」なのです。

なので「幕府」と言えば「軍事」とは切っても切れなものなのだ、ということがわかります。

「鎌倉政権」とか「武士による軍事政権」とか、いちいち面倒だからそう言われてますけど、やっぱり「政権」はずっと京都にあるわけで、その建前(天皇から任命されて政治をやっております)を守る常識というのは、文字通り「常識」で、覆すとかそういうジャンルのことではなかったんでしょうね。

そして「軍事的に頂点に立って全国支配しちゃった幕府」は鎌倉幕府が日本初だったわけですけれども(次には室町幕府が来る)、「幕府」そのものはそれまでにたくさんあった、ということでもありますね。将軍の数だけ、幕府はある。

江戸時代になると幕府、または将軍のことを「柳営(りゅうえい)」と呼んだりするようになるそうなんですが、これも「幕府」と同じで、「出先の営業所」みたいな意味なんですね。
中国の故事にちなんでます。
「細柳」という町に、漢の将軍・周亜夫(しゅうあふ)が作った仮の陣営、っていう感じ。
周亜夫さんは紀元前の人です。縮めて「柳営」。

おそらく、幕府幕府とそのまま呼んだりするようになるのは江戸の幕末、もう徳川政権ヤバいよね、っていう段階になってからなんじゃないでしょうか。

わざわざ、時の政権のことを「徳川幕府は…」なんて言う人はあまりいなかったんじゃないかと思います。同時代に生きる者としては、幕府は徳川幕府しかないわけだし、幕府運営は徳川しかやってないんだから、「徳川幕府は」とわざわざ言う必要がないということですね。
もっと漠然とした、上位概念的なワードで呼ぶ方がしっくりくる、と。

鎌倉時代ともなるとまだ、「幕府って何でしたっけ、ああそうか征夷大将軍の!」みたいな人も多いはずです。
だからと言って将軍に向かって「将軍!」「将軍様!」と呼ぶなんてことはまず無いんじゃないかな、とも思います。

地名で表す「鎌倉殿」という呼び方は、だからとても便利。
「鎌倉」とか「関東」と呼べば、それは源氏の軍事政権を指したんですね。

こういう「言い換え」こそが日本の面白さだなぁ、と感じます。

ちなみに将軍のことを「大樹(たいじゅ)」と呼びますよね。
確かに江戸時代が舞台の小説には、よく出てくる言葉だと感じてました。
良い意味だとは感じますよね、「寄らば大樹の陰」なんて言いますし。

これは「後漢書」に書いてあるそうです。
後漢の馮異(ふうい)という将軍が、みんなが手柄話をしているときその輪に入らず、大きな樹の下に退いたと。それで兵士たちから大樹将軍と称賛された、という。

そんなピンポイントのエピソードから抽出してきますかね…不思議です。
何かもっと別の由来があっても良さそうな気もしますが。
単純に「デカい木のような存在」っていうだけ、とか。

幕府は「征夷大将軍のいる場所」を表すということで、源頼朝が「ここ!」と決めたので鎌倉は、自動的に「鎌倉幕府」いうことになった。

 

幕府と言えば鎌倉を指し、鎌倉と言えば幕府のことを言う、という状態に。

で、鶴岡八幡宮の東隣に「御所(ごしょ)」を作ることに。
御座所(ござしょ)、とも言いますね。
おわしどころ・おわしましどころ、とも読む。

いちいち、おわしましどころへ行ってくる、とか言ってたんでしょうかね、ゴショ、ゴショと呼んだ方が鎌倉武士としてはしっくりくる感じがします。

今の、清泉小学校の場所に「大蔵(おおくら)御所」があったそうです。
この辺りを「大蔵」と言ったんですね。
表記としては「大倉」というパターンもあるようで、どっちなんだ!って思いますけど、意味としてもそんなに変わらないからどっちでもいいのかも。どっちでもいいとかある!??

この辺りは北側の山に源頼朝の墓もあり、北条ヨシトキの法華堂もあり、だからこそ後に三浦一族はそこに立て篭もって悲運な最後を遂げることになる…という、鎌倉幕府初期にとって、ものすごく重要な場所なんです。鎌倉宮も近い。

岐(わか)れ道、に来た。

大蔵幕府舊蹟
今ヲ距ル七百三十七年ノ昔治承四年源頼
朝邸ヲ此ノ地ニ営ミ後覇権ヲ握ルニ及ビ
テ政ヲ此ノ邸中ニ聴ク所謂大蔵幕府是ナ
リ爾来頼家実朝ヲ経テ嘉禄元年政子薨ジ
幕府ノ宇津宮辻ニ遷レルマデ此ノ地ガ覇
府ノ中心タリシコト実ニ四十六年間ナリ

大正六年三月建之 鎌倉町青年會

幕府創建以来、46年間はこの「大蔵」に政治の中心があったと。
この碑は、ここにあります。

碑文には「宇津宮辻に遷るまで」と書いてありました。
この大蔵御所は1219年に焼失。

以後、仮の場所を経て「宇津宮辻」に移ります。
「宇津宮辻」は「うつのみやつじ」と読みますよね。

 

本当は「宇都宮辻子」が正式な名前で「うつのみやずし」と読みます。

辻子を「ずし」と読むのはあまり慣れない用法ですけれど、「道」「小道」のことをズシ、と呼んでいたそうです。

現在ではその小道は消失しているようですが、もともと大蔵御所のあった場所から南へくだった場所へ、移されたのですね。

有力御家人・宇都宮氏の邸宅があったことからそう呼ばれていいます。

まるでバス停みたいな名前のつけかたです。
「伊勢丹前」みたいな。

この「跡」は、もはやありません。
道がなくなってるくらいですから、この辺りでしょう、っていうことしかわからない。
場所としては、ここなんですけど。

「鎌倉彫会館」の横の路地を入っていきます。
観光客で、「宇都宮辻子」御所のことを知らずにこの路地へグイグイ入っていく人ってあんまりいないと思います。
私はたまたま、この路地の左手にある駐車場に何度か停めたことがあって、「宇都宮辻子」のことは知らなかったので改めて行くと「ここが…!」という感慨がありました。
お稲荷さんがあります。
これが、ここだったんだろうな、という痕跡の一部となっているんですね。

宇津宮辻幕府舊蹟

鎌倉幕府ハ初メ大蔵ニ在リシガ嘉禄元
年政子薨シテヨリ之ヲ他ニ遷サントノ
議起リ及チ時房泰時等巡検評議ノ末同
年十一月此ノ地ニ造営十二月将軍藤原
頼経此ニ移リ住ス爾後嘉禎二年頼経再
ビ之ヲ若宮大路ニ遷セルマデ天下ノ政
令ノ此に出ヅルモノ凡テ十二年ナリ

大正十年三月建之 鎌倉町青年會

北条ヨシトキを継いだ北条泰時が、御成敗式目を作った頃の政務はこの「宇都宮辻子御所」で行われていたんですね。

しかし「頼経再ビ之ヲ若宮大路ニ…」と書いてあります。

藤原頼経(ふじわらのよりつね)というのは4代将軍ですね。
源実朝が鶴岡八幡宮で殺されてしまい、将軍として2歳にならないくらいで京都から迎えた「三寅」が成長しました。武家の棟梁・征夷大将軍としての実験はなく、いい感じの傀儡です。

悪く言えば操り人形だけど、君臨すれども統治せずという「朝廷と幕府」みたいな関係(二重権力構造)が、「将軍と執権」の間でも成立していたからこそ、幕府の政務は上手く回り出したんですね。

横に、新しい説明がありました。

宇都宮稲荷神社由緒

宇都宮の名称は、下野(しもつけ・現在の栃木)の宇都宮朝綱に由来します。

朝綱は宇都宮二荒山神社の神職で、在地の武士でもありました。

源頼朝が鎌倉に幕府を開いた時、朝綱も当地に屋敷を構え、
宇都宮より御霊を分霊して祀ったのが当稲荷です。
朝綱の孫頼綱は、元久二年(一二〇五)謀反の嫌疑を受け出家、

京の小倉山麓に隠棲して藤原定家(鎌倉前期の
歌人「新古今和歌集」などを編纂)と親交を深め、
和歌の道で活躍しました。
当社は今も二月初午の日を例大祭として、講中・地元の有志等に守りつがれています。

令和三年一月吉日 宇都宮稲荷講

 

で、「若宮大路御所」へ移るんです。

場所はここです。

いや近いな…というか元の大蔵御所に近づいていってるってなんだよ…。
もしかすると執権・北条泰時の邸宅があったところに移転したのかも知れませんけれど。

それにしてもなんでそんなに近い町内で移転してるんだ…という印象もあります。
大倉御所が一番場所もいいんだから改築し続ければいいだろ…という感じもします。

だけど幕府創設以来、頼朝が御所と定めて以来、大蔵は殺し合い・騙し合い・奪い合いが起こりまくった象徴的な場所になってしまいました。

なので北条政子も死んだし心機一転…!ということになったんでしょう。

…それにしても近い。

この「若宮大路御所」も、跡形もなく住宅街になっています。

若宮大路幕府舊蹟

鎌倉ノ幕府ハ始メ大蔵ニ在リシカ嘉禄元年
政子ノ薨ズルト共ニ将軍藤原頼経之ヲ宇津
宮辻ニ遷シ後十一年ニシテ嘉禎二年再ビ此
ノ地ニ遷ス爾来九十八年頼経以後六代の将
軍相継ギテ政ヲ此ニ聴ケリ元弘三年新田義
貞ノ鎌倉ニ乱入スルニ及ビテ廃絶セリ

大正七年建之 鎌倉町青年會

ここが若宮大路幕府なら、さっきの「宇都宮辻子」御所も立派に若宮大路幕府だろうに…と思ってしまいます。

ところが、どうやら今の区画と違って、当時の鎌倉は、メインストリートとしては「東西」の流通に重きを置かれてたらしいんですね。
宇都宮邸の前にも道があり、流通のメインとしては六浦(東側の海)に向かう経路が使われていた。
海と山で行き詰まる南北ではなくて、東西が主な道、という認識だったのでしょう。

そして若宮大路は日常遣いの道という感じではなく、参拝や、神事に使う聖なる場所という考えがあって、だからこそ、公的機関である「若宮大路幕府」以外は、若宮大路側に建物の入り口さえ造られていなかった、という調査結果もあるそうです。

ほんと、ここはもう観光客来ないだろ…っていうくらいに狭い路地です。
地元住民の方々しか歩いてない。

静かでいいです。

けっきょく、「若宮大路御所」に来てからはもう移転せず、そのまま滅亡するまで続きます。

それにしても近い。大蔵→宇都宮辻子→若宮大路と、なんだかネーミングがしっくり来ない感はありますが、それはもう「鎌倉」という小さな都市内で移動してるだけだから、幕府ごと変わってしまった「鎌倉→室町」みたいな、ダイナミックさが無い、ってことですね。

でもこの街で、大モンゴル帝国の邀撃(ようげき)も決定されてたわけで(元寇)、政治機構としてはじゅうぶんだったのですね。

しかしこの町、鎌倉幕府の軌跡を追って歩くとなんだか区画的に「大…豪…邸…」と呟いてしまいそうになるくらい大きなお家がたくさんあって、あれ…もしかすると挙兵以来の御家人ですか??と聞いてみたくなる、そんな思いが去来しました。

 

それにしても、幕府はすべて若宮大路の東側にあるんですね…。

 

 

 







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