見たもの、思うこと。

それを信じるなら、すべては信じられる。『復活』

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復活

原題は『RISEN』。

いわゆる「宗教映画」の範疇に入ってしまうのでしょうけれども、イエス・キリストの「処刑」、そして「復活」「昇天」にまつわるエピソードを描いています。

主役のローマ軍司令官・クラヴィウスを演じるジョセフ・ファインズは、レイフ・ファインズ(名前を呼んではいけないあの人)の弟さんです。

基本的に、映像に関しては聖書に書いてあることを書いてある通りに再現すると「ほら、ね…。」っていう感じになるのは当たり前ですよね。画面の中には演技とCGで「事実」を展開できるし、「映像化されている」という「事実そのもの」がありますから。

2000年以上には映像なんてものは「え」の字もないわけで、「信じるか・信じないか」の基準が当時の人々のどこにあったか、それをしっかり想像しないといけない。

我々の目の前にある画面の中で起こる事実、それは役者が動いて監督が仕切って技術で修正して…の結集ですし我々もそれをすっかり知ってますし、それを「当時の再現ビデオ然」として見ているという視点が、我々にはある。

その視点が、当時の人々にはまるごと、無いんですから。

 

イエス・キリストが生まれたのは、ローマが支配していた時代。
派遣された総督・ピラトは、絶大な権力で属州を統治していました。
キリスト教サイドからするとピラトは「イエスを処刑した総督」として有名なんですね。

その当時のローマ皇帝は2代目・ティベリウス(3代目はカリグラです)。
在位は西暦37年までですが、この頃にはまだ「キリスト教」は確立してなくて、ユダヤ教徒たちをどうするんだ、というのがローマによる、この辺りの属州統治の最大の課題だったんですね。

総督ピラトは、イエスを処刑する命令を出した。
ユダヤ属州では、ユダヤ教勢力と宥和することが統治の最善の方法で、ユダヤ教の祭司たちが「あいつはユダヤの伝統を乱しやがる首魁だ」とイエスを名指ししたりしたら、騒擾を鎮圧する意味でも、なんとかしなきゃいけない…っていう感じになったんでしょう。映画の流れとしても、そうなってました。

だけどおそらく、ピラトでなくても誰でもそうするでしょう。
ローマ法皇、というような地位が確立するのはまだ何百年も先ですし、急に生きているユダヤ人の小汚い青年を前に、ローマの総督(現代の知事どころの権限ではない!)が「我は信じ、かつ告白す。」とか言い出す方が狂ってるわけですから。

 

そもそもローマは多神教。
厄介な一神教のユダヤ教徒は、ほんとうに悩みの種だったはずです。

多神教であるローマは、どんな神様でもアリなので「ユダヤの神?ぜんぜんいいよ!祀ったら?」っていうスタンスなんですけど、ユダヤ教徒からすると「うちの神以外はナシ。しかも絶対にナシ!多神などは形容矛盾!」な連中なので、せっかく歩み寄っても意味がないんです。めちゃくちゃにかたくな。

だからユダヤ属州を支配するには、あるていどローマ側が譲歩しないと統治できない。
そこにまた、ユダヤ内の揉め事でおさまらない厄介ごとが、新たに出来てきやがった(それがイエス一派)…。

統治者としては、治安を維持し、人民と軍を統率していくために、または総督として成果をするために(皇帝にいい顔するために)、刑を執行するのが当然だったわけで、ここに現代の価値観で今、善悪を持ち込んでも仕方がないところですよね(統治や侵略の是非、もまたしかり)。

どちらにしてもイエス一派は、治安悪化の中心・元凶だったのでしょう。

とにかく映画『復活』においては、どうも復活しちゃった…みたいだぞ…?マジで…?いや…マジっぽいぞ…という風に、前半が進んでいきます。

このタイトルは、「奇跡」全体ではなく「復活」に焦点を当てていることを示しています。
すでにイエス処刑前から街には「復活するらしい」なんていう噂はばらまかれていて、「そのために、復活したように見せかけるために死体を盗む奴がいるからしっかり墓を閉じろ、そして見張れ」という命令も出されていた。なのに…。

折り重なる偶然と策略で、情報は錯綜する。

現在、キリスト教の資料、となると「聖書が基本です」となるのは当然ですし、それで学ぶことも多いです。しかしキリスト教関連の(多くは教会関連の)サイトに掲げられているのは、時に一般化し、時に横道にそれ、「そういうことではなくてですね」的な補助説明がちりばめられた、「信じてないとスッと入ってこない」文章ばかりです。つまり「見解」なんですね。

まるで「イエス様を、信じてからもう一回来てね」と言われているような気持ちになる。

すべての理屈が、どこかで「聖書にそう、書いてあるからです」に回帰してる。
うん、なんでそこにそう書いてあるのか、書いてないことはなんなのか、を知りたかったりもするんだけど…という気持ちになってきます。

歴史ではなく物語のみが書いてある、みたいな印象。

そこで、何が起こったのか…または起こってないのか…。

でもとりあえず「復活」を信じないことには、キリスト教を信じてることにはならないので、現代のキリスト教徒は何というか、穏便にそこはスルー、さて核心は…という感じで、神学を学ぶということになるのでしょう。

 

あらすじを見るのに、Yahoo!映画の『復活』の頁を見ました。
うっかりユーザーレビューをのぞいてしまったのですよ…。

こういうバカが、やっぱりいるわけです。

人間が死んで復活するなぞありえない。
それを信じるクリスチャンはみんな馬鹿野郎。
そもそも処女受胎なぞありえない。
マリアもイエスも、何悪人もの人々を騙したペテン師。
そしてその教えに従い、その後の宗教戦争や植民地支配で何億人もの罪のない人々を死に追いやった張本人。
胸糞悪い。

こういうこと書いて、「俺は理知的・理性的。宗教者は狂ってる。もっと科学的な視点を身につけようぜ!?」と、自分が賢いと思い込んでるんですね。

こんなこと言うとアレですけど、ぜんぜん、とるに足らないレベルのアホです。

例えば2010年と少し古い数字だそうですけど、アメリカの調査機関ピュー・リサーチ・センターの調査による、世界におけるキリスト教徒の数は、ざっと21億7000万人なのだそうです。

いくつかの国の教徒数(そして比率)となると、こういう感じ。

アメリカ合衆国 2億4818万人(76.9%)
ブラジル 1億7919万人(88.5%)
メキシコ 1億1362万人(94.6%)
ロシア連邦 1億349万人(73.1%)
フィリピン 9430万人(92.5%)
ナイジェリア 8665万人(48.1%)
コンゴ民主共和国 7209万人(95.9%)
中華人民共和国 7089万人(5.2%)
エチオピア 5745万人(62.4%)
ドイツ 5488万人(67.3%)

上のレビュー書いてドヤってるアホに従うとすれば、これら全員が「馬鹿野郎」っていうことになるんですかね?
この人はこの作品しかレビューしてないけど(こんなのレビューですらないけど)、どういう人なのか、ちょっとだけ知りたくなっちゃいます。

たとえば「お前って、ありもしない霊やら魂やらを信じて、毎年死んだ親族の名前を石屋が彫った石の前で、ぶつぶつ何か言ってるんだろ?馬鹿野郎だよね?」って言われてもカチンと来ないんですかね。

「あなたの親の骨なんて、ただの物質でしょ?カルシウムでしょ?犬の餌に混ぜたあげたら?」とか言われたら、そこそこスカッとするんですかね。

そういう想像ができないから、アホのままなんですよ。
ほんと、バカっていやぁね。

 

それにしても、迫害され、疎外されまくったイエス一派。

ラストシーンで主人公・クラヴィウスはローマ軍を去り、流浪の(布教の?)旅に出ます。

この時点からも迫害は各地で続きましたが300年ほど後、キリスト教は、なんと大ローマ帝国の、国教になってしまうのです。

そこからの快進撃は広く知られている通り。

ここってけっこう、いつも不思議に思うんですよね。

上述した通り、多神教であるローマ帝国が、一神教たるキリスト教を国境にするとなると、今までのいろんな神々を否定していくことになりますよね、当然。

最初はそうでもなかったはずですけれど、キリスト教会の権力が大きくなればなるほど多神教は否定され、豊かな「地中海性気候」っぽい明るいイメージは分断され、破壊され、「暗黒の中世」に近づいてきます。風呂禁止。清潔禁止。

ローマ帝国もやがて分裂して崩壊し、各地の王よりキリスト教会の方がえらい、っていう感じになっていく(王権神授説)。

なんであんなに迫害してた、キワモノの宗教が、巨大帝国の国教になれたんだろう。
だって、イエス一派は、治安を乱すインチキ集団だったはずです(ローマ視点では)。

どうもここには、権力を持ったキリスト教会の、上手なトリックがあったように感じます。
つまり「イエスを十字架にかけて殺したのは、ローマ人ではなく、ユダヤ人だったのだ!」という常識を皇帝に吹き込み、いつの間にか世界にばらまくことに成功している感じ。

当のローマが滅んで、キリスト教が残ってるんですから、言いたい放題です。

キリスト教を国教にしたコンスタンティヌス1世を「大帝(マクシムス)」と持ち上げ、激しく弾圧したネロを「暴君」と貶める。

日本である時期、麻原彰晃に対して「この人は、もしかして…本物ではないか…」と、知識人ですら傾倒していた事実を、忘れてはならないですよね。

そして、彼ら(知識人)の脳裏には、「イエスの奇跡」がよぎっていたはず。
「知識人であればあるほど」「明晰な学歴秀才であればあるほど」というのが裏目に出たということですよね。

アレ(オウム)くらいのインチキであった可能性は、やっぱり否めない。
でもそこに「布教の天才」がいて、「情報の同時性が皆無」な時代状況があった…。

 

映画『復活』は、キリストの復活を事実として描きながら、ローマ軍を捨てる主人公を通して「これって、あなたならどう判断する!?」を突きつけてきます。

決して「こんなもの信じる奴はみんな狂ってるんだ」と投げ捨てるようなものでは、ないのです。

生物としての人間が、完全に死んだ後、肉体ごと、または霊体のみであっても、復活するのか、どうか…?

を考える時、まず「生物」「人間」「完全に死ぬ」ということの定義が、2000年前は現代とはまったく違うであろうという前提を、意識しないといけませんよね。

そして、生き返る、復活、新しい時代、新しい王、という概念に対する、人々の考え方・感じ方。
それは、2000年前と今とでは、もはやリアルには感じることができないほどに隔絶したもののような気がします。

そんな時代、そんな価値観、そんな地域性。
豊かな人など一握り、疫病すら悪魔の仕業だと思っていたところに起こった、前代未聞の巨大なイベント。

ウキウキワクワク、伝聞情報としてこれが駆けめぐるとなると、伝言ゲームはどういう迫力と熱量を持って、広がって行ったのか。

その伝言ゲームは時に「布教」と呼ばれ、時に「伝道」と言われるのかもしれません。

日本にだって、イザナキ・イザナミによる国生み神話がありますよね。
アマテラスとかスサノオとか。

まぁ、うん、まぁね…って、真偽なんかは上手に曖昧にスルーしてるじゃないですか。
時に手を合わせたり、時に歴史に利用したり、適宜、うまく付き合ってる。

大ローマ帝国が利用したように、キリスト教もその時の政治力学において、立ち位置を上手に変えたりしたのでしょう。

うまく利用され、そして利用した。

その結果、ゾロアスター教やミトラ教がかなりマイナーなことに比べて、キリスト教は世界宗教と呼ばれるようになった。
問題は多々あったし信仰に濃淡はあれど、人類の3分の1を占める信者が今もいる。

その起点の一つである「復活」。
漫画「21世紀少年」でも、世界観をひっくり返す一大イベントとして「復活」を利用するというシーンがありましたね。

とにかく「死んだ奴が生き返る」はわかりやすいから。

上手いトリックで、復活を目の前で演じてあげたら、上に挙げたレビューを書いたような単純なアホは、すぐにどんなインチキ宗教にも帰依しますよ、私が保証します。

 

 







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