あいにくの雨の日。
まずは、ここへ訪れました。
王城の地。
なぜかここの画像ファイルが壊れている。なぜだ。
最近よくあるトラブル。
前半数十枚のファイルが壊れる。
訪問記を書いてらっしゃる方のブログを覗いて、ここに立てられていた案内板の文字をコピペさせてもらいました。
王城の地
将門記の王城の地とは此の地なり将門記に云く王城を下総の国の亭南に建つべしと。この地より眼下手賀沼を望めば大井の津が一望でき北に筑波山を拝し西に富士山を奉拝し関八州を手中にできる。この地こそ王城建設にふさわしい所であります。かつて奈良時代には相馬郡に六郷が置かれました。手賀沼南岸には大井郷と古溝(こみぞ)郷配され、手賀沼北岸には布佐郷、倉麻(そうま)郷、意部(おぶ)郷、余部(あまるべ)郷が置かれました。また同時代には東海道が京の大津から下総国府を通り大井より布施に渡り戸頭に出、常陸の国の石岡まで整備されました。このように都市機能が整備なされた所に将門は相馬の都を建てることに決定しました。
この辺りを王城の地として、都の建設に着手したのだ…と。
「王城の地」とは、昔から「帝のおわす場所」という意味ですよね。
京都だけは、大名行列も、その掛け声が違ったらしい。
大名行列と言えば「下ぁにぃ~、下ぁにぃ~」が有名ですが、「王城の地」である京都だけは「ひかえぇ~、ひかえぇ~」だったと。
確かに京都の調停に楯突いたかどで将門は討伐されてしまうわけですが、どうにも「関東に、全国を睥睨すべく新都を建設する」という野望を抱いていたのか…と問われると、「そうでもなかったのではないか」という疑問も出てきます。
将門の乱(承平・天慶の乱)で関東各地に「武士の息吹」というか、鎌倉幕府につながる「東国の機運」みたいなのが活発化したことは間違いないと思いますが、「全国規模の都の建設」までもを視野に入れていたのかどうかは、わからないですよね。
もっと身近な、「関東の拠点」「関東独立国」みたいな、関東人を庇護して盛り上げるための、都だったんだろうなぁ、と。
どうしても「京都に向いて」「手賀沼を背後に」という位置関係で考えてしまいますが、それは「にっくき朝廷め」とか「天下統一には畿内を抑えねば」的な、のちの戦国時代の感覚で見てしまうからで、立て看板にあるように「眼下手賀沼を望めば」てなもんで、関東の地を眺めることがメイン、だったのではないかと思えてくるのです。
そういえば、総合文化ホール・ベルフォーレに建てられていた将門像も、国王神社の方角を向いて設置されていました。
ご近所の方のお話では、広く放置された原っぱ(になってた)は、お向かいのお宅の地所だそうです。その奥には神社の跡(?)があって、数十年は放置されているであろう祠が、なかなかの荒廃具合で木々の中に埋れていました。
次はここです。
将門神社。
かなり字が消えてて、かなり読みにくい…。
将門大明神
祭神 平新皇将門
桓武天皇を祖先として父平良将と共に下總の国相馬郡岩井村に
住居し下總の国の開発と共に住民の生活安定に心血をそそぎ
信望を集めたり
父良将は陸奥鎮守府将軍と下總介であった
将門公は相馬の御厨の下司職を父と共に世襲す
風早村大井将門山に出城を置き布瀬高野に高野御殿を
築き土塁跡は今も保存されている
律令制から荘園制への改変過程で領土問題より上總の国
日立の国と爭いを起す
京都朝廷より将門追討の命を受け藤原秀郷関東に下る
田原藤太秀郷戦勝祈願の為成田に不動明王を祭る
日立の国主平貞盛と協力して将門公と戦う
天慶三年二月十四日春一番の突風に遭い戦斗困窮せる時
羽◯◯◯◯飛んで来た鏑矢右眼を射抜き砂塵の中に落馬す
時に午後三時相馬小次郎将門公再び立たず
之を承平天慶の乱と云う
第三女◯如蔵尼父将門居住の此の地に祠を立てその霊を弔う
社稷は幾度の新築改造されたり
一 将門大明神拝殿一宇 正徳二年
二 新造立花表一宇 享保七年
三 新造立平親王将門宮一宇延享元年
四 新造立花表一宇 明和三年
五 造立○植一宇 寛政二年
六 彩色将門大明神雨屋一宇 文化三年
七 再建将門大明神一宇 安政六年 霜月
現在の本殿は江戸末期安政六年の建立にして記念の木札七枚を保存す
五尺宮社流總◯破風造り屋根は寄棟造り茅葺鉄板で覆ってある
千葉氏五代常胤祖先将門公を偲び社殿を復興したとの伝説もある
基壇の部分に放れ駒や隻眼の人物像がある。放れ駒は九曜星と共に
将門公の用いた紋とされている
茨城県岩井市にある国王神社には共通する伝説がある
将門神社の社名は日本中唯一にして当社のみ
氏子一同信仰尊敬し霊験あらたかな産土神
我等の幸を守らせ給え
昭和六十◯◯年 区民一同柏手再拝
とにかく、お寺(龍光院)の一角に立派に残っていました。
最初に建てられた正徳二年は西暦1712年。徳川六代将軍家宣が亡くなった年です。
安政6年(1859年)からは大規模な普請はされていないんですかね。
修復はその都度行われてるんでしょうけど。
ちゃんと、お酒が供えてあったりして、綺麗に保存されていました。
雨だったのでちょっとよくわからなかったんだけども。
ちなみに安政7年は、桜田門外の変があった年です。
シュールな一休さん?がいる。
次はここへ。
将門の井戸。
井戸、として使われてたりはしてなくて、しかもブロックとか石で「井戸っぽさ」を保存してあるという感じですらなくて、「元・井戸」という感じです。
ここから清い水が出て、将門たちの貴重な飲み水となってたんでしょうか。
「岩井」「大井」など、井戸があって水がある、という土地を押さえるという、戦略上の基本を知るような思いです。
この近くに、さらに「将門神社」がありました。
あれ??さっきの龍光院の立て看板には「将門神社の社名は日本中唯一にして当社のみ」と書いてあったんだけど、この距離にいきなりあるじゃないか…なんだこれは…。
「我孫子市史」による日秀将門神社の由緒
https://tesshow.jp/chiba/abiko/shrine_hibiri_masakado.html
将門ゆかりの地に、その名を冠した神社や祠を作るのは、その土地の人たちが有する「権利」みたいなもので、いくつあってもいいのだとは思います。その土地の人たちがお参りするわけだから。この「日秀(ひびり、と読む)」地区の人たちは、将門追悼を祈願した成田山新勝寺にはお参りはしない…という縛りを伝承として受け継いでいるのだそうです。
割と何をやってもアリ
…そんなことはないとは思いますが、徳川家康とかに比べると、格段に自由度が高いとも言える、平安の武士。ゆかりの場所、本人の故郷ともなればしっかりした伝承もあって、そうもいかないんでしょうけれど、それにしたって顕彰する場所や軌跡がこれだけ保存されてるってことは、もうあんまり関係ない(1回くらい通過した)場所とかでも、「将門ゆかりの)と言い出してもおかしくない。
関東にとっては、源頼朝も北条氏康もすごいけど、まず平将門がいないと…というのは、言い過ぎなんでしょうか。
思えば「十九首」だって、「井伊直親最期の地」という説が同時に存在するんですから、「言いたい放題」とさえ言えますよね。
だいたい、「京都から首が飛んできてここに落ちた」「だから怨霊であり祟りがある」と、現代にいたるまで本気で信じられているというのも、かなり、かなり奇妙な事実だったりします。
浜松市に「埋められた」ことより、400km以上「飛んできて落ちた」ことが信じられてるんですよ。
せめて「誰かが盗み出し、運んできた」っていう方が信憑性あると思うんだけども。
首が飛ぶ、は蘇我入鹿とか、古来から日本にある「仇敵が怨念を残した場合の、表現方法の一つ」だったかもしれませんね。