真夜中にね。
お前、やっぱり行った方がいいんじゃない??
って、塀の上に座ってた神様に、言われた気がして。
相馬野馬追。
起源は、平将門(たいらのまさかど)の時代までさかのぼるそうだ。
相馬野馬追執行委員会 公式ページ
http://soma-nomaoi.jp/
関東は「馬の土地」だった。
ここで良い馬を育てて、京都へ運んで行ったり。
馬の大生産地。
相馬、っていう名前自体がもう「そもそも、馬の家柄」っていう感じがするし。
御厨(伊勢神宮の神馬を調達する牧場)だった。
平将門も、「相馬小次郎」(小太郎と書いてあるのもある)を名乗ってたし、やっぱりそういう土地だったんだろう。
野生馬を敵兵に見立てて軍事教練する…なんていうことは、上方の武士はやってなかった。というかできなかった。
馬の豊富な、広い平野の関東だからこそできた。
鎌倉幕府が起こり、武力による天下統一がなされた後はこの手の軍事的な大規模演習は禁止される方向になったそうだが、相馬地域のこれは「神事である」で突き通して、今に伝わっているらしい。
「あずまえびす」の伝統や軍事力は騎馬によるところが大きいので、時の幕府も、実は相馬の教練は大事だ、と認識してたんではないだろうか。
上方、朝廷に対する、暗黙の示威行為という役割があったのかもしれない。
思い立って最終日、「野馬懸(のまがけ)」を観て来た。
福島県南相馬市小高区の、相馬小高神社で。
ここ。
作家・柳美里さんの作られた書店「フルハウス」が近くにあります。
南相馬市・小高区は、避難指示区域でしたが2016年に解除され、そこから登録居住者が3000人を超えた、というのがニュースになっていた。
南相馬市の旧避難指示区域別の住民登録人口と居住人口
https://www.city.minamisoma.lg.jp/material/files/group/11/kyojyuujinnkou_020229.pdf
もちろん、街のにぎわいが完全に戻ったわけではない。
「野馬懸」も、ちょっと地理的に工夫して行われてる(馬のいる場所が制限されたり)みたいなことがアナウンスされていた。
あっ、道路に。
バフンと思しきものが…。
武者行列は見てないけれど、迫力と勇壮さが、豪胆な糞から偲ばれる。
小高川。地図で見ると「前川」と書いてあるが…。
着きました。
高台へ、登っていく。
広い場所。
ここへ、裸馬を追い込んで、それを素手で捕まえる…!?
誰が…!?
こんな小さい子も。
この人たちは後で、裸馬をここまで追い込んでくる役割だ。
それを待つ間(?)、女性陣による踊り。
「相馬流山踊り」と言うそうだ(隣のオバはんが勝手にしゃべってた)。
私はちょうど日陰にいたのだが、炎天下、ものすごい日差しだ。
次に、あれは何をやってるんだろう。
なんか、お祓いだ。
お祓いしてた。
この後、神主による、この場所のお清めがあった。
お水をまいてた。
そしてどこからともなく、いななきと、ドドド…という蹄の音。
おおおッ
続いて黒い馬が。何してるんだろう。
興奮している様子。
グレーの馬も入ってきた。計三頭。
これを、誰が捕まえるの??
裸馬をここまで連れてきたら、騎馬武者たちはお役御免。
この場所から出ていく。
で、どうなるの。
見つめる監視役。
緊張感をあらわにする馬たち。
緊張しすぎて、訳のわからん行動に出る馬ちん。
この三頭に対して、おっさんが出てきて、長ーい棒にハケつけたような道具で、一頭に印をつけた。
それをめがけて、みんなで捕まえる。
昔、野馬を捕まえる時もそうだったんだろうなぁ。
今回は「ホワイト・グレー・ブラック」ってiPhoneの色みたいな色分けでわかりやすくしてくれてるんだろうけど、昔の馬なんて群れでいたら、どれに目星をつけていいかわからなくなるんで、目印をまずつけたのだろう。
その名残っぽい。
いったんコケて失敗するのはおそらく想定内。
お祭りとしての盛り上がり、のための演出か。
で、どうやって捕まえるのかと言うと…
素手えええ
本当に、みんなで、素手で捕まえる。
精進潔斎のためのお清めは、このためだったのだ。
なんとなくだがよく見ると、この「捕まえる役」やってるのは若衆なのだ。
若い人。
そして周りで、馬を追い立て、安全を確保しながら見守る役は、それよりも年上の人たち。
そして、何もしないで見守る役は、もっと年上の、大先輩たち。
おそらくそういう序列。
どこのお祭りもだいたいそういうもんだろうけど。
なので「馬を捕まえる」実働部隊、歴史と伝統の「相馬野馬追」においては「若い頃はみんなやってた」ことなんだろう。
だから、ちょっとやそっとこけたくらいでは先輩たち、心配すらしてくれない、みたいな感じがある。
白→グレーと捕まえて、次は黒。
この子がなかなか手強い。
馬も、ちゃんと訓練されていて野生馬ではないにしろ、いつもと様子の違う環境で、怖かっただろうな。
無事、捕縛。
1頭目(白いやつ)は、「神馬」として神社に奉納され、それ以外の馬は領主に献上されるか、競売(おせりという)にかけて資金にされるそうだ。
その様子も見れました。
あんまり、何言ってるかわからないが、わかる範囲で、文字にしてみた。
その、殿が買いたい場合は、その、軍者がついてんだから、しばらくしばらくって来て、ね、“主どり”っていうんだったらば結構です。
はい。二番騎のお競りを開始いたします。三万両!三万両!三万両!四万両!四万両!五万両!五万両!六万両六万両!七万両はい八万両九万両はい、十万両、はい、十万両はい、清信先頭(?)軍者、落札!!
(拍手)
(落札した清信さんが何か言った)
…それはないでしょう…?お前さん、一両三分、三人分が、持ってますか?
(なんらのヤジがあったか)
…俺の、俺の自由だ。(会場笑い)
そんなわけで、総大将殿、これで一件落着、でございます。
(会場拍手)
<<会場のアナウンス>>
ただいま、お競りが無事、終了いたしました。
本日の競り頭を務めていただきましたのは、南相馬市小高区にお住いの、サカモトトシヒロ様でございました、ありがとうございました!
つまり「せりがしら(競り頭)」とはオークショニア、のことなのだ。
おそらくサカモト氏の口ぶり、笑いの取り方、堂に入ったあの廻し、かなりの熟練そして近所で評判の、おもろいおっさんなのだろう。
繋がれた馬もここでお役御免。
人馬ともにお疲れ様でした。
ここからは本殿にての例大祭となったようだ。
私はここで帰路に。
ここは小高城址、でもある。
小高城の由来
小高城は相馬公の旧居城で紅梅山浮舟城と称した。この地には十二世紀の頃行万氏がいたといわれる。藩祖師常公が軍功により文治中頼朝から賜った地で鎌倉時代の末元亨三年四月重胤公下総国から移るに及んで嘉暦元年この城に據る。建武三年三月次子光胤に命じて修築せしめ爾後相馬藩の本據として南北朝の騒乱に重要な位置を占め小高城攻防戦は相馬文書の外岡田大悲山飯野文書等によって史上明らかな事実である。
慶長二年にいたって義胤公牛越城に移ったが同七年再び小高城に還り同十六年
十二月二日利胤公中村城に移った。重胤公よりここにいたるまで十一代二百八十余年間六萬石の城として続いたのである。小高城は小規模乍ら原型が保存されて居り台地の頚部を切りとって空湟(からほり)とし四周を削り堀及び池をめぐらし頂には土塁をめぐらした跡が見られ、よく古城の面影をとゞめて居り中世城郭として注目すべきものがある。
昭和三十三年八月一日福島県史跡に指定さる。
指定地域 一七〇三七坪
ここにも「九曜紋」が輝いている。
この説明文には小高城が280年も続いた!と絶賛しているが、実はそれどころではなく、この相馬氏(下総相馬氏。ほかに陸奥相馬氏もある)は実に珍しい家系で、なんと鎌倉幕府ができてから戊辰戦争の終結まで、740年も続いた家柄だったりする。
あの関ヶ原では驚くべきことに中立(!)。
そんなこと可能だったの!?
でもやっぱり西軍寄りに見られた。
絶体絶命の危機。
…にも関わらず伊達家などを味方にして幕府に訴え出て、領地を取り返したと。
とにかく勇猛果敢で強い、豪壮な家柄という評判だったのだろう。
全国のモノノフ全員から、一目置かれてた土地柄。
境内を出ると、この青空。
だけどだけど。
少し南に進むと(浪江町)、ここには人はいない。
去年の3月に避難指定は解除されたものの、まだ回復するにはいたっていない。
左に見える施設も、使用されていない。
浪江町、双葉町、大熊町、富岡町。
ここから国道6号線を南下し、帰宅困難地域を抜けて常磐富岡インターから常磐自動車道へ道をとった。
帰宅困難地域では横道に入ることはできない(バリケードがしてある)ので、南北のこの国道6号線しかない。
復旧は進んでいるので、工事車両で渋滞が起こっているほど、だった。
朝から何も食べていないことを思い出した私は、「中郷PA」にて、「アジフライ定食」を頼んでみたのだった。
いや、うどんの量おかしくない!?小うどんでよくない?
適切か?かなり大ぶりのアジ2尾と、さらに山盛りのキャベツ。
「ご飯は大盛りできますけど!?」と言われ「普通でいいです」と返したら「えッッ!?普通!?」みたいに不審がられて盛られたライス、これも多いわ。
「ご飯要らないです」って言ってたらどこかに通報されてたかもしれん。
このパーキングエリアにはラグビー部の合宿とか遠征の途中の大学生しかこないのか!?
食べてる他の人のメニュー見ても、めちゃくちゃ量多い。
俺はもうおじいちゃんなんだぞ!!!って怒るおじいちゃん、いるんじゃないだろうか。美味しかった。
午前中から始まった「野馬懸」、私は7時半から待ってて、始まったのが9時半くらい?で全部終わったのは11時半くらい…ずっと立ちっぱなし。
ヨン様を羽田空港で待つ韓流ババアの気持ちが少しわかりました(古い)。
帰りには、見事な彩雲を見ることができた。
瑞兆です。
いつか「相馬野馬追」は全行程、見てみたいなぁ。
平将門を少しだけ追いかけて、相馬の地へ行けたことは嬉しかった。
この場所はこれまで1000年も、いやこれから2000年も3000年も、あの将門の気概と伝統を守り受け継ぎ、剛健さと勇壮さを維持して続いていくのだろう。
強く、そう思わされた。
そして単純に(私が単純なだけだけど)、生きてる馬を見るって、元気出る。
エネルギーの塊が動いてる躍動感。
今回は以上です。
平将門について興味持ち出したことから、派生した記事は以下になります。併せてご覧くださいませ。