19年ぶりのシングル発売に、悶え狂う日本の音楽界。
個人的には全盛期(王子様時代)には悲しい偶然が重なりあまり興味を持てなかったものの、今、過去の楽曲を聴いてみるとやはり「天才」としか言いようがない輝かしいものを感じることができる。
ボーダー女子を狂わすだけでなく、なぜ音楽の専門家や文学者までもが絶賛するのか、今回の新曲をじっくり眺め、聴き、ギターで弾き語りなどをしつつ考えてみた。
どこかで「流動体について」の歌詞を手に入れ、それを見ながら読んでください。
筋金入りのファンの方々には「そんなアホな」「何言ってんの」「オザケンのなに知ってんの?」とか「黙れよ」とか言われそうですが、思ったことを書いてみますわね。
羽田沖から街の灯が揺れる様子が見えるということは、まずは飛行機からの視点だ。
小沢さんはアメリカ在住だそうなので(NHK-FMで言ってた)、そこから日本に来た時、ということになる。
間違いに気づかなかったら、東京の、どこかで暮らしてる可能性がある、と。
つまり海外へ行った自分は「間違いに気づいたんだ」っていうことか。
この「間違い」っていうのはなんなんのか。自分自身の犯した過ち、っていうものあるし「そんなのおかしいよ」という、自分を取り巻く環境についてのことだったのかもしれない。
並行する世界があるとしたら、東京のどこかで…と思うのは、過去を振り返るのではなく、未来について思うことなら、我々にもあるだろう。
地下鉄の路線図を見て「この沿線の、この駅周辺に住んでみるっていうのは…」とか考えたりする。
満員電車で顔を上げておくしかない時とか。
「あそこからなら急行始発だから毎日座れるな」とか。
ここで、「並行世界」という言葉について少し考えてみたい。
この「流動体について」や、それの前触れとして行われたチャットでは「並行世界」と明記されている。
「平行世界」ではないんですね。
「平行」だと「parallel(パラレル)」だから、まさに「ある対象同士がどこまでいっても交わらない状態を指す。(wikipedia)」だ。
でも「並行」だと「concurrent(コンカレント)」と言うこともできるらしい。
「並行」は、同時に進行(存在)しているだけなので、どこかで交わる可能性もある。
時間的には逆光はできないが(いやそれすらもわからないけど)、別に住もうと思えばどこかの街で、違う人生を歩むことだって可能な訳じゃないですか、小沢さんだって。
でも「神の手の中にある」ということは「そこは、これから先のことはわからんよね」という意味であり、いちいち人生の善し悪しについては想像しないけど、その時々で「良い」と思う方へ進んでいくくらいしかないできないだろ、っていう決意というか諦念、みたいなものなのではないだろうか。
で、「雨上がり、高速を降りる」んですね。
もう飛行機はとっくに降りてる。
詮方なきことですが、羽田から、高速を走って港区へ降りるんですから、1号羽田線、および湾岸線を走るんだろう。
港区へ降りれるとしたら「芝浦」「新橋」「芝公園」「飯倉」「天現寺」「高樹町」で降りる必要がある。
もちろん、港区外で降りて(勝島とか)、第一京浜を上がって港区へ入ってもいいんだけども。
最大の難所「君の部屋の下」。
この「君の部屋の下通る」っていうのが、なんとも泣かせるところだ。
なんせ「映画的に詩的に感情が振り子振る」んですよ??
東京にもうじき着くときに甘美な曲とアナウンスが流れても「映画的に詩的に感情が振り子振る」ことはなかったのに。
普通の相手ではないのだ、この「君」っていうのは。
並行世界なら、この「君」と暮らしてたかもしれない相手、と見ていいだろう。
「君」がまだそこに住んでるのかどうかはわからないかも知れないけれど、そのマンションの前を通る、その場所は「君の部屋の下」なのだ、いつまでも。
そうなると「平行世界」ではその「君」との間にできた子供を自分は抱いていたかも知れないな…って言う想像くらいはするだろう。
現実には夜、濡れたアスファルトを走りながら、ひょっとすると車の後ろで子供たちは、現実の夫人と一緒に寝ているのかもしれない。
決して、もう一生、誰にも言えないけれどこの道は「君の部屋に続く道」だったし、この信号は「君の部屋の下」だったんですね。
カルピスを飲む時、お風呂から出た体を拭く時、テレビを消して静かになる時、フとそういう瞬間の想像をしてしまう自分、っていうのは、わかる気がする。
言葉の力を信じよ、と。
意思は言葉を変える、というのは強い言い方だ。
意思の力で、発言を、使う言語を変える。
行動を変えて、性格も変えていく。
そういう人たちの巨大な集まりがあって、いつしか都市も変わっていく。
個人にはどうしようもないウネリだが、そこの発端と細胞は、個人の感情だ。
アニメ「君の名は。」にも時空を超える表現(組紐)が出てきたりしたが、ああいう炸裂は、計算できる範囲を超えると芸術になり、またまったく違った形で、自分の影響が「君」に、実は及ぼしていることだって、あるのかもしれないよねっていうことなのだ。
「夜の芝生」と言われると、その字面を想像して勝手に芝公園周辺を浮かべてしまうんですが、あの辺りから汐留、浜松町、そして芝浦、お台場と、変化する街は数年経つと「ええ!こんな風に!?」と驚かざるを得ない風景を見せる。
そのあたりは、そして「東京タワーから続いてく道(ぼくらが旅に出る理由)」でもあるわけだから、確かに「文学的素敵に炸裂する蜃気楼」と呼んで差し支えないと思われる。
小沢健二のとてつもない、巨大な肯定。
そして最後、普通は考えただけで身震いするような、自分の存在の小ささを痛感せざるを得ないような「無限の海」を「でもそれほどの怖さはない」と喝破する。
これは実はとんでもないことなのではないだろうか。
理屈で言えば「海の無限さを体感することはないし、それが無限であるかどうかを感じるほどの壮大さや将来さえ、自分にはない」ことを理解さえしていれば、「それほどの怖さ」はないはずだ。
例えば自分の家の近所に住んでいる猛犬が幼児を噛んで、その傷から流れ出る血を見た。
あの犬の牙の形、色、鋭さと獰猛さ、これは間近で感じることができるでしょう。記憶にも残る。
でも「無限の海」を想像して震える事に、どんな意味があるというのだろう。
「無知であれ」ということではなくて、そんな事に関わっているよりは、上にも書いたように、いちいち人生の善し悪しについては想像しないけどその時々で「良い」と思う方へ進んで行くくらいしかないできないだろ、っていう「楽観」のようなものを持っている必要があるよ、と教えてくれているのではないだろうか。
人生における不安は、これからどうなって行くかわからない事による、不安。
海のように広く深いものに、入る予定もないし難破船に乗っているわけでもないのに「どれくらい深いんだろうか」「どれくらい暗いんだろうか」と勝手な想像をして、恐怖している。
今日、自分のいるこの世界で「善く生きよう」と思い行動してそれを実践するだけで良いのに、なにもせずに「未来にありもしない悪魔を設定して怖がり、不安を覚え、そして怒りを感じている」という多くの人が抱える現状を、やんわりと「違うよ。確かに並行世界はあるけど、できることはあるよ」と肯定してくれている。
人生肯定の賛歌でもあり、現状認識の補助線にもなってくれる、良い曲だと思った。
すいません、以上です。