『君の名は。』を観てまいりました。
大ヒットの名に違わず、早い時間でしたが大盛況。大入り満員でした。
日頃から「映画館は嫌いなんですよ」と思っているこの私ですら、けっきょく映画館で観ているのですから「シン・ゴジラ」と「君の名は。」、この2作はほんとうに大ヒットしているのだなぁ〜と身を持って感じています。
かつてデビュー当時、自分で買ってもいないのに「First Love」が自宅のCDラックに並んでおり、誰が持って来たのかわからないままに「宇多田ヒカルのファーストアルバムの売れよう」に、腕を組んで感嘆したことを思い出します。
誰が何を言おうと、多くの方が観たいと口コミとマスコミに乗じてしまいたくなる、このパワー。
東京と都会
東京の少年と、田舎の少女。
この対比が、冒頭からコントラストとして浮かび上がります。
もちろん、男子と女子、という差もありますよね。
田舎にいると「今、自分は田舎の高校生だ」なんていう自覚はそもそもあんまりないんですよ。
ああ、田舎だなあここ…は、と痛烈に感じることはあっても、テレビで見る東京を、日常に感じるまでには近く思わない。
自分の世界はこの辺りで始まったので、さすがに東京に続いてるとまでは思えず、近隣の都会を目指して背伸びしてみる。
たぶんこの辺りで自分のこと人生は進んでいくんだろうなぁ、と漠然と思っている。
東京の姿をテレビで見るときにだけ、自分との田舎との差異を感じる、という程度。
これは、東京生まれ・東京育ちの人が、田舎にノスタルジーみたいな感傷を求めるのと対になっているようなものです。
実はお互い遠ざけながら、お互いが引き合ってる関係なんですね、田舎と東京は。
でも、田舎が発展するっていうことは、店が出来て高速道路がつながってビルが建って、と東京の様子に近づいていくっていうことだから、そんな地元の開発なんか待ってたら寿命が尽きるわ!!ということで、若者は東京へ出て行くんです。
それは東京が持つ求心力、これを今さら責めても仕方がないことです。
田舎の人が言うように、東京人は冷たいぞ、田舎みたいに人情がない、東京は酷いところだ…と、それが本当なら、こんなに人、集まってきますかね??
南の方にある、島(沖縄とか)はリゾートとして常にランキング上位だったりしますが、そんなに素敵な島ならば、なんでそこ生まれの若者が、こんなに今、東京にいるんですかねww???
常に都会は僻地に幻想を、地方は都心に幻想を、お互いに持っているようです。
物語の中に、田舎の風景との対照として、東京の象徴として、よくマンションが描かれているんです。
アニメは、実写のように「勝手に映ってくれてる」っていうことがないので、すべて意図されて描かれていますよね。
東京でいう「風景」は、マンションなんですね。
なんでマンション?マンションは地方にもある。けど。
どこに住んでいようが、「暮らし」には「風景」が含まれます。
田舎では文字通り正しく、暮らしの中に「風景」がたっぷり含まれてて、都会人はそこに憧れたりするんですけど、都会の「暮らし」の多くはマンション近辺で展開されていたりするので、つまり「暮らし=風景としてのマンション」が成立してしまう。
マンションが目に入ってこない「風景」は考えられない。
わかりにくいですけど、妙に説得力のある画だなぁと思って眺めていました。
対比としての「風光明媚/高層マンション」が成立している。
フィクションの中にあるもの
巨大なフィクションが、物語の世界全体を包みます。
その中に、超・個人的なフィクションがまとわりついてくる。
どうしようもない壮大なフィクションに、他人の目には見えないフィクションがからみついてくる。
そういうのって、フィクションじゃなければ、我々全員にあることですよね。
巨大なノン・フィクションが、人生全体を包んでいて。
その中に、超・個人的なノン・フィクションがまとわりついてくる。
どうしようもない壮大なノン・フィクションに、他人の目には見えないノン・フィクションがからみついている。
これが本当。構造自体が同じだから、共感できる構図がある。
『君の名は。』。
これ、主人公が高校生だからまっとうに進行する物語なんじゃないでしょうか。
「青春の一ページ」という意味ではなくて(いやそれももちろんあるけど)、大人になって社会の駒・一兵卒となって生きていると、あれくらいの変調(人格交換)に襲われたら、自分の存在が完全に揺らいだり、支えきれなかったりするはず。
社会的な地位に致命的な事態に追い込まれても仕方がない。
でも高校生だと、たいていのことが起こっても、その身分は保証されてますよね。
さすがに変電所を爆破してしまうとどうなるかわかりませんが、たいていは、「入れ替わって」も、大前提の日常はキープされる。「騒動」で済む。
「時間」をどう考えるか
時間の軸が前後する、という、「時間そのもの」もテーマになっているようです。
時間てホント不思議です。
我々は、西暦1年から進んで今、2016年、に生きてますよね。疑うこともなく「あの2015年後」を生きているし、「その46億年後」を生きている。
1→2016という風に順当に数字が増えることでふつーに納得してますが、増えているのは「数字」です。
数字という概念です。
これ、例えば西暦A年→西暦Z年という風に表記されているとしたら…まぁこれも、進んでる、という風に理解できますかね、誰でも。Aの次はBだし。
では、明治→大正→昭和→平成という表記ならどうでしょう。
これ、なんの順なんです?
そもそも「順」なんですかこれ?
まぁ、現代の我々は「進んでる」と感じることももちろんできるんですが、
明治→大正→昭和→平成→明暦→元亀→綏靖
と、もし書かれたら、進んでるのか戻ってるのかわからなくなる。
これは、縦方向に進んでるんじゃなくて、円を描いてるんじゃないか。
時間は、いつか円環を描き、元に戻るんじゃないか?
日本の元号は、暗に、それを表してるんじゃないか?
何を言いたいのかというと、
「時間て、一方通行に進んでる、とは限らないんじゃないか?」ってことなんです。
我々が、「いや、一方通行だ」と思い、滞りなく「時間」と認識しているのは「時計そのもの」のことなんです。
「カレンダーそのもの」のことなんです。
時計という機械の動く通りに、時間も進むと思い込んでいる。
数字という一方通行をわかりやすく表示する便利なツールたちのせいで、慣れきってしまったせいで、「1時の次は必ず2時であって、0時になったりはしない」と思い込んでいるんです。
ひょっとしたら平成の次に来るのは、2回目の「神武」かも知れない…。
自分の時間がどこで始まって、どこで終わるか、またどの時点で逆戻りし始めるかなんて、絶対に決めつけられません。
同じ時刻に生まれた人が全く同じように老けないのはなぜなんです?
やりたくない時間はものすごく遅く感じるのに、楽しい時間があっという間なのはなぜなんです?
時間の進み方は、絶対に一方向でもないし、一定の速度でもありません。
誰しもに、「毎日ぴったり24時間」が与えられているわけでもない。
体感してこれを知っているはずなのに、我々は日々の、「時計そのものに追われる生活」のせいにして、忘れているんです。
実は過去も未来も、「今」でしかない。
「君の名は。」は、象徴的な「ひも」として、それを表現していました。
今は今だけれど、この今は「変わってしまった未来」でもあり、「これから変化していく過去」でもある。
そのワクワク感、みんな、うまく言葉にできないんだけれど、「いや、取り戻せるかもしれない。と…取り戻せるの…!?」という浮き立つような、自分の人生を無意識に「少しどこからかやり直せるかもしれない!」と色めき立って見直させる感覚が、追い立てられるような感覚が、この映画に吸い寄せられる魅力の一つなんだと思います。
誰にでもある「君の名は。」
誰にだって、なんとなく、
「あれって、誰だっけ…?」
っていう人って、いる気がします。
小さい頃の記憶とか。
もう絶対に思い出せないんだけど、「あれ、誰なんだろう…」という映像の断片が、私にもあります。
それは映画のようにいつかうまく再会できたり、入れ替わって胸触ったりはできないんだけれど、なんかの拍子に思い出しては、田舎の変わってしまった風景とともに脳裏に浮かんで、「う〜ん…」と誰にもわからないように唸っているような、微細なことなんですよね。
なんの期待も願望も予定もないですが、一生がいつか終わって、記憶が空中でちりぢりになろうとする時、砂糖に水滴が落ちて少し固まるようにおぼろげな形をなして、「あっ…」って、一瞬だけ思い出すかもしれない。
そしてその「いつかの出会い」の記憶は、またどこかで今、幼少の時を過ごしている自分に、繰り返し巡っていくことなのかもしれない。
今は、忘れているだけ。
どこかに記憶はあるけれど、今は、しまってあるだけ。
膨大な情報と凄まじい状況の中から、自分の感傷をつまみ出す。
それぞれ自分にとって大事なのは今誰で、今、どれが自分で。
入れ替わる主客は、観ている者の「自意識」の危うさを、教えてくれるかのようです。
「田舎」と、「少年時代」と、「恋愛」と。
いずれも全部、記憶の果てに消えてしまうもの。
儚(はかな)く脆(もろ)く、誰にも語らず潰(つい)える淡い感情。
主人公は最後、ハッピーエンドに寄り添いますが、現実はそうではない。
そして彼らだって、そこから先は、ハッピーかどうか、わからない。
大切なのは「あの瞬間の気持ち」であって。
あの、喪失した町を見下ろし出会って流した、あの涙であって。
「もう戻れないけど」という心の傷(のようなもの)を抱えて日常を生きる上で、「何か、忘れてないっけ…??」と思わせてくれる、素晴らしい映画でした。
その瞬間を思うと、なぜか涙が出そうになる、不思議な作品でした。
満員の客席から出るとき、女性の多くが目を濡らしながら「私にも…」という、ときめいた顔をしているのが印象的でしたよ。
もしこの映画にRADWIMPSの楽曲がなかったら…と考えると改めて、音楽の力は素晴らしい。