酸いも甘いも
場末のスナックやバーで「生き字引」として常連客を翻弄するタイプのベテランママさん、苦労を重ねて「酸いも甘いも噛み分けた」然として若者の人生相談の相手になっていたりするが、そんな女性の苦労というのの中身はたいてい、ロクでもない男にポーッとなって一緒になった果ての離婚と、ロクでもない男にポーッとなって一緒になった果ての借金である。本人にとっては苦労と言えば苦労だろうが、そんなもので「人生の深淵」ヅラされてはかなわない。ただただそんな過去の失敗談で笑い話にしているならいいが、年齢を重ねただけで人生の真理に立ったような風情を出すのならそれは「あなた、いまだ艱難辛苦の途上なのでは?」と言いたくなる未熟な所作である。
ジャニーズ事務所とかの今後
会見そのものやその後に散見される反応などを鑑みるに、やはり「反省しましたので過去のことは水に」という態度では流せない巨大な禍根がそこにある。当然、メディアに出演している所属タレントは「その罪禍あってこそ」の存在だということになってしまい、それを無視できるのは盲目的に「推し」ている人か、嘘つきだけだろう。懲役3桁級の罪を背負うべき加害者が故人であることで、死人に口なし、どうやって被害者をそうだと同定するのかという問題も出てくる。本人が口に出さない限り、いくら疑惑が濃かろうと確かめようがないからだ。それでも、大半の所属タレントはそれについて知っていると考えるのが自然であり、どこかでなんらかの形で、自身の被害を併せて発表することでしか、断罪することが出来ないと思う。それをしない理由としてはもちろん、被害者イメージを持たれたくないという保身もあるだろうが、「断罪したくない」という恩人への思いもあるのだろう。ことほど左様に、チャイルドグルーミングは恐ろしいのである。
鰐の涙
雫井脩介・著「クロコダイル・ティアーズ」を読んだ。装丁画は粟津康成氏である。鰐の涙は、「Superficial sympathy」とも呼ばれる。つまり嘘泣きに代表されるような、感情的な表現で欺こうとする不誠実な様子をいう。ワニは獲物を捕らえて食べる時に涙を流すのだ、という伝説(伝聞)から来ている。慣用句としてシェイクスピアも使用する表現だったようだ。ストーリーの進行や舞台設定などは読んでもらいたいが、とにかく暁美(あきみ)、腹立つ。あと東子(はるこ)、腹立つ。この二人は姉妹なのだが、この二人に主観が移った時の彼女らの自分勝手な解釈と「不安を持つのは仕方がないしだからこそ何をしても許される」という思い上がりが「そんなに紙幅を割かないで」とすら感じてしまうほどに腹立たしい。彼女らがいないと物語が動かないことも確かなのだが、姉の東子の、「ちょっとタレントやライターとしてやってたんでメディア扱いにも慣れてます」的な人物設定がいけすかなくて絶妙で、ああいるいる、コミュニティFMでちょっと番組やってる程度でタレントか地元の名士ぶってるオバハン!!と数人の顔が浮かぶ。また鎌倉へ行きたくなったりもした。