鎌倉殿の13人

岐(わか)れ道、に来た。

投稿日:2018年3月27日 更新日:

40代から知っておきたいお金の分かれ道

 

何度か通ったことがあり、「ここは、何?」とずっと思ってたんです。
いやいや、他にもっとあるだろ???って言われそうですけど。

「岐(わか)れ道」という場所。

考えてみれば、不思議な名前ですよね。
交差点って絶対にわかれ道ですし、そもそも、道じたい「一本道」か「わかれ道」しかないじゃないですか。
目的地にまっしぐら、という意味ではどこでも「一本道」と言えなくはないけれど、わざわざ「岐(わか)れ道」と名付けられた交差点…ここはなんなんだ、と。

あるんですよ、ほら。ちょっと見にくいですけど。

 

地図で見ると、こうなっています。

そう、ここは鎌倉。
「いざ鎌倉」の鎌倉です。

レッドの○が、鎌倉駅。
ブルーの○が、鶴岡八幡宮です。
有名な大仏は、もっともっと左、地図の外です。

私が今回、引っかかったところは、グリーンの「点」で示してあります。
わかりますかね…。

ここを通りかかって、ここからの、あのまっすぐな道はなに??
と、思ってたんです。

少し拡大した地図で見ると…

ほら、ここの道、不自然なくらいにまっすぐじゃないですか??
神社か寺院の参道だな…というのはもちろんすぐにピンとくるわけですが、ちょっと急に長く、すごくまっすぐすぎます。

まず近寄ってみました。

左手に行くと、まっすぐの道です。
手前へ戻ると、鶴岡八幡宮方面。

 

ほら、ギューーーーンとまっすぐ。

石碑が建ってました。

よく見ると右側は
「右 大師道」と書いてある。

左側の碑石には
「庚申供養」と書いてあります。

「右 大師道」ってことは、先ほど「左手」と私が書いた方面が右側になる、つまり北西を向いた状態で「右」ということですね。方位としては、北東に向かうことになる。

 

歩いて行くことにします。

やっぱり参道。
ちゃんと書いてあります。「お宮通り」。

ちょっと近づいたでしょう。
半分くらいきました。
スクールゾーン。バス通ってます。

だけどなんか、鳥居の色、変わってますよね。
普通は真っ赤(朱色)か、石造りそのままか、なのに。
なのに。

 

どーーーん。

やっぱり変わったカラーリングですよね。
なんでだろ。
ここは、「鎌倉宮」というところなのです。

 

「カマクラグー」と読む。
「カマクラキュー」ではない。

 

外国人観光客「kamakura good!!」

さっそく本殿の方へ。
拝殿前にも、同じカラーの鳥居が。

立派なお社でした。

ふと右側を見ると、別の社が。

なんだここは。なんとなく雰囲気が違う。
建物の中に、なんかいるぞ…。

 

だりだ、おまいは…。

撫で身代りの由来

村上善光公は護良親王の忠臣にして
元弘三年(一、三三三年)正月吉野城落城の折、
最早これまでと覚悟を決めた護良親王は、
別れの酒宴をされましあ。
 そこへ村上善光公が鎧に十六本もの矢を
突き立てた凄まじい姿で駆けつけ、親王の
錦の御鎧直垂をお脱ぎいただき自分が着用して
「われこそは、大塔宮護良親王ぞ、
汝ら腹を切る時の手本とせよ」と告げて
腹を一文字に掻き切り、壮絶な最期をとげ、
その間に親王は、南に向かって落ちのびました。
 このように身代りとなられた村上善光公を
境内の樹齢一〇三年の欅の大木に彫り上げ
「撫で身代り」として入魂致しました。

ごっつこわいやん。
ごっつイカツイ故事来歴やん。

そうなんですね。

たくさんの「盾」が。

そこまでの身代わりになっていただくような悲惨な状況でも今、私はないしなぁ…なんて思いながら、境内へ戻る。

 

おや…なんだこれは…。

厄割り石。
作法が描いてあります。

すげえ。
土器(かわらけ)に息を吹きかけ、我が厄災をそこへ乗り移らせ…。

石めがけて投げつけて叩き割る!!!

 

「割れなかったら割れるまで続けます」…。

そうなんですね。厄を払うという概念。割れるまで割るという執念。
1かわらけ、1百円です。

横には「厄わり石」が。

いやぁこの石、ただただ万人の厄災を投げつけられ叩きつけられ、いったいどれくらいのネガティブパワーが溜まってるんだろう。

 

それにしても立派なところです。

すごい、しっかりした「おやすみどころ」もある。
そばとか食べれるんだろうか。食べれるんだろうな。

木が植えてありました。
「高田(こうだ)みかん」。いつしか実がなり収穫できるんでしょうか。1本でいいのかな。

 

あらためて、「鎌倉宮」の場所です。

境内の絵地図。

ほら、左の端に、大仏さま。長谷から歩くのは、ちょっと大変ですね。バス乗りましょう。

 

それにしても由来が激しい。

後醍醐(ごだいご)天皇の皇子である護良(もりなが)親王を祭神とする神社です。
護良親王は、後醍醐天皇の鎌倉幕府倒幕の動きに呼応して幕府軍と戦うなど、貢献しました。
幕府が滅亡し天皇親政が復活(建武の親政)すると征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)に任じられましたが、その後足利尊氏(あしかがたかうじ)と対立して捕らえられ、二十八歳で非業の最期を遂げました。社殿の後ろ手に残る土牢が親王最期の地と伝えられています。
十月には境内に薪能(たきぎのう)が催されます。

最後の一文だけ急に告知が入ってて少し驚きますが、とにかく鎌倉時代から室町時代に移行する上での重要人物と言える護良親王に、ゆかりの場所だったんですね。

よく見ると、創建は明治2年。
意外に最近です。

つまり明治時代になって「天皇万歳」な国家神道的求心力を高める上で「天皇サイドで戦って死んだ人の顕彰」が、あらためて行われた、と。

明治政府は、徳川幕府を倒した成った。
徳川幕府は、天皇から政治を奪っていたのですから、敵です(かんたんに言うと)。

それと同じで、足利尊氏は天皇から政治を奪って室町幕府を作った。
だから敵です(かんたんに言うと)。

天皇の味方側であった護良親王をちゃんと讃えて、祀ることで、明治の天皇親政に説得力を持たせたんですね。
ひょっとするとあの、やたらまっすぐな参道も、そういう意味があるのかもしれない。

 

書いてあります。

一、御祭神
大塔宮護良親王

一、御創建
明治二年
明治天皇の勅命に由る

一、御祭礼
八月二十日

やっぱり最後にさらっと告知が入ってますね。

そして境内の外、ちらっと見ると喫茶店がある!!

 

コーヒー「梵」。

閉まってたけど。

 

鎌倉と言えば源氏の聖地イメージ。

本邦初のモノノフ政権樹立以来、武士の街・武士政権の礎、という感覚でしたが武士に敵対した人すらも、こうして祀られている。
今や時代を超えて、複合的な祭祀都市となっているんですね鎌倉は。

思わず「頼朝」「北条政子」とかがクローズアップしがちですが、鎌倉、やっぱり色々ありますね…。

 

「岐れ道」、は、こちらです。

 

 

 







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執筆者:


  1. 小林 より:

    興味深く読ませていただきました。面白かったです!先日とあるお店へ行くため北鎌倉から地図アプリ頼りにひたすら歩きその真っ直ぐな道をまたまたひたすら歩き、やっと見つけたら鎌倉宮の前でした。アプリにその交差点出てきて読めなかったけどなんとなく想像してました。でも帰ってから気になって辞書も調べたけど出てなくて最後に 鎌倉 分かれ道と検索したらここにたどり着きました。スッキリしました。ありがとうございました!(*^^*)

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